「ガラス越しの距離⑭」

「ガラス越しの距離⑭:ひびく銃声、或いは」

真琴は泣きじゃくっていた。
悔しくて悔しくて、涙が止まらない。

悔しかった。
本当に、本当に悔しかった。

あいつは、久弥はそんなことをされていいような奴じゃない。
利用されて、馬鹿にされて、物のように扱われる。
誰かの復讐のための駒にされる。
そんなことをされていいような奴じゃない。
それなのに。

涙が溢れた。
ぼろぼろと零れる涙をてのひらで拭う。
目の前にはいけすかない男が居る。
すべての話を聞いて、第一印象よりもずっとずっと嫌いになってしまった男。
こんな奴に涙を見せるなんて嫌だったけれど、それでも涙は止まってくれなかった。
そんなことよりも、あまりに悔しくて悔しくて――そしてなによりも「悲しくて」たまらなかったのだ。

「……もしあんたが本当に悔しいなら、俺が手伝ってやる」

それまで黙って真琴をみつめていた男が、ふいに口を開いた。

「あんたが久留巳さやかより、“女”になればいい」

綺麗な顔をした、しかし久弥を妙なことに巻き込んだ元凶の男は冷静な瞳で真琴を一瞥する。

「あいつの価値観は全部ヒトの“容姿”だ。自分より見劣りのする容姿の奴の話なんか聞かない。
耳にも入らない。何を言ったってあいつの耳に入ると、それは全部“醜いやつらの、自分より劣るやつらの、みっともなくもくだらない妬み”にしか聞こえない。だから」

司はそこで言葉を区切った。
涙を溜めたまま、それでもじっと自分をみつめている真琴を認めてかすかに表情をあらためる。
そうして続けた。

「あんたが久留巳さやかよりいい容姿の“女”になればいい。容姿がすべて。あいつはそれがすべてなんだ。だから、それだけで久留巳さやかは完全に怯む」

そうして言ってやればいい。
ツカサはそこで、ようやくまともな笑顔を見せた。

「あんたの想いってやつを」

ひびく銃声。或いは

駅前の噴水広場は待ち人であふれている。
しかも休日ともなれば格別だった。巨大な駅から次々と吐き出される人の波。
その２割ほどがこの広場に集まってくるのだから、それはそれは恐ろしいことになる。

その日僕は、なんとか確保できた植木の柵に腰掛けるようにして携帯をいじっていた。
両隣にも同じような人が居て、やはり携帯をいじっている。
人が多すぎてパーソナルスペースなんてあったものじゃない。だから僕らは「携帯」という端末に集中するふりをして、自分のテリトリーを確保しながら、それぞれの待ち人が来るのを待っているのだ。
そうして１０分後。
時間にルーズな友人をじりじりと待っていた僕は、いつのまにやらとんでもない光景を目のあたりにしていた。
広場の奥には腰の高さほどの植え込みが広がっている。
その隅のほうで、まるでドラマの１シーンのような光景が広がっていたのだ。

はじめは男女の二人組みだった。
高校生くらいだろう。男の方はお人よしそうな顔をした、けれども明るそうな目の少年だった。
対する女の方は、かなりの美少女だった。明るい栗色の髪をカールにした、まるで外国の人形のような容姿をしている。
だから手持ち無沙汰に噴水の前に居た男どもは彼女が現れた瞬間から、ついついその行動を目で追っていたのだ。

少年は美少女を広場の隅に連れて行き、そうして何か話をはじめた。
会話の内容までは聞きとれないが、少年が何かを必死に謝っているようすが伝わってきた。
痴話げんかかな。
僕は開いた携帯をいじるふりをしながらその光景を見守っていた。
周囲の幾人かも同じようだった。興味ぶかそうに二人を見ている気配が伝わってくる。

やがて少年が頭を下げた。
おそらく学校では運動部に入っているのだろう。厳しい先輩にきちんと躾けられたかのような見事な礼。
それは、はたから見ても真摯な謝罪のように見えた。

しかしその瞬間、少女の顔色が変わった。
おっとりとした愛らしい表情を浮かべていた少女の顔が、仮面がぽろりと落ちるかのように変わっていく。
そうして次に現れたのは妖艶ともいえる微笑だった。
一瞬にしてぎらぎらとした光がその目に宿る。それはまるで、弱い獲物をみつけた肉食獣のような瞳だった。
あまりの豹変振りに、僕はびっくりして持っていた携帯を落としそうになってしまった。
なんとか掴んだ携帯を手にぽかんと二人を見守っていると、今度は少女のほうが何かを話し始めた。
もちろん声は聞こえない。
しかし少女が何かを告げるたびに、少年の顔色がどんどん蒼ざめていくのが分かった。
驚愕とか恐怖。
そういうものがいっせいに混じり合ったかのような、絶望的な表情。

……お、おいおい。大丈夫か、少年。

僕は思わずその少年のことを心配してしまった。
しかし、周りの傍観者たちは違ったらしい。
興味ぶかく見守って居るもの、凄いことが起こらないかとわくわくしているもの、そうして僕と同様に心配しているものもの、いろいろな意味のそわそわとした空気が伝わってきていた。携帯のカメラを向けるものさえ居る。
そう。
そのころにはすっかり、この広場の空気は、このふたりに飲まれてしまっていた。

そんな中、美少女がうったりと微笑んだ。
それは傍から見ると愛らしいものだったが、一部始終を見ていた僕にとってはとんでもなく恐ろしいものに見えていた。
美少女が少年の顔を下から覗き込む。
ふっくりとした桃色の唇を三日月の形にして、そうして何かをささやいた。
何をささやいたのかはわからない。
しかしそれは、少年にとっては絶望的なものだったに違いなかった。
青白い顔の中、傷つききった瞳をさらに呆然と見開いている。
泣くか倒れるか。
もしかしたら死んでしまうんじゃないかと思えるほどの絶望的な表情。
少女はそれを見て、心底楽しそうな――子供が砂のお城を壊すかのような――無邪気な破壊の喜びに打ち震えている笑顔を浮かべた。
楽しい、とその表情がつげている。
そうして再び唇が動く。
自由に壊してもいいおもちゃをみつけた子供は徹底的にそれを壊そうとしていた。

しかし――次の瞬間。

こん。ぼとっ。かしゃんっ。ばきっ。

僕の周囲で手にしたものを落とす音が同時に起こった。
かくいう僕とて、手にした携帯電話をついに取り落としてしまっていた。
レンガにぶつかった携帯が小さな悲鳴をあげる。
僕はあわてて携帯を拾い上げたが、それでも目だけは、その光景から外すことはできなかった。

――いや正確に言えば、ふたりの前に突然あらわれた――『絶世の美女』から。

その女性は突如として現れた。
夏の高原に吹く風のように颯爽とあらわれた美女。彼女は、とんでもなく美しかった。
極上の絹糸のように光をはじいて背中を流れている長い黒髪に白磁のような滑らかな肌。
黒曜石のような深い色の、不思議な輝きを持つ瞳。
それを縁取る睫は長く、やわらかな曲線を描く頬にそうっと繊細な影を落としている。
ふっくらとした艶やかな唇は控えめな紅の色。
白と黒で統一された美女の中で、唯一鮮やかな色彩を持つそれはいやがおうにも目を惹いた。
ほっそりとした黒いワンピースから伸びる手足はいかにもやわらかそうに長い。たおやかなほそい足首に、綺麗なシルエットのヒールは良く似合っていた。

美女はふたりの前に立つと、少女の方に向き直った。
そうしてその美しい表情を崩さないまま、何かを告げた。
少年ばかりを見ていた少女の目が、あらわれた美女へと向けられる。
その瞬間、少女の顔がさっと強張ったように見えた。そうしてみるみる蒼ざめていく。
そのようすは、さきほどまで残虐な笑みを浮かべていた少女のものとは思えなかった。
美女がまた何かを言った。それは周囲には声の片鱗さえも聞こえない、ひどく静かなものであるようだった。

少年、そして少女も何も答えなかった。しかし、呆然と美女をみつめている表情は両極端のものだった。
少年はただただぽかんとしている。
しかし対する少女のほうは、なにかに強く怯えた様な、必死に掴んでいた何かを粉々に砕かれたかのような、そんな表情をしていた。

そんな中、美女がついと動いた。
百合ような優美な右手を伸ばし、呆然としたままの少年の襟首を掴んだのだ。
それに、呆然としていた少年がはっと顔を挙げた。
美女の顔を見て、そうして目を見開く。
美女は何も言わない。
しかしかわりに、ひとつの行動をおこした。

美女の背は意外にも少年のそれより低い。
だからだろう。
美女はかすかに爪先立ち、掴んだ襟首を自分にひきよせたのだ。

そうして――少年に口づけた。

途端に広場が静まりかえる。
今ではほとんどのものが、この場で繰り広げられているとんでもない光景を固唾を呑んで見守っていた。

口付けは一瞬だった。
美女は少年から顔を離し、再び少女に向きなおる。
そうして唇をそっと開いた。

「貴女は勿体無いことをした」

美女の声は静かだった。
しかし、今やしんと静まったこの場では朗々と響いていく。

「こいつは私のことだってツカサのことだって、そして貴女のことだってさえ、“いいところ”を見つけて躊躇なく好きになってくれる、そんな珍しい、すごく優しい奴だったのに」

雪解けの水のように清らかに言葉は紡がれる。

「だから、すごく勿体無い。……だが」

そこで美女がほんの少しだけ瞳を細めた。
声にも表情にも変化はない。
しかしその深い輝きを持つ瞳に、一瞬だけ光がよぎった。

「こいつは私のものだから。もう、私のものだから。
こいつの良さを分からない奴に渡すつもりなどまったくないし、傷つけるのも許さない」

その光は強いものだった。
何よりも綺麗で、純粋で。そして覚悟を決めたようなひとつのひかり。

「――絶対に」

宣言。
いや、それは宣言というより告白だった。
可憐で清楚な外見に似合わない。
けれども何よりも格好いい、「愛の告白」。

誰も身動きできない状況の中、美女は少年の手をとる。
そうしてくるりと踵を返すと少年の手をひいたまま、来た時と同様に颯爽と去っていった。

「お待たせ～」

どのくらい経ったのだろう。
ぽやんとした声に我に返ると、目の前には待ち合わせていた友人が立っていた。
なにも知らない友人は、かすかに不思議そうな表情で、いまだ妙な空気の残っている広場を見渡す。

「ん？　なんかあったの？　芸能人でもいたとか？　」

僕はいや、とつぶやいた。
そうして考える。さきほどのドラマの１シーンのような光景のことをなんと言えばいいのかを。

目に焼きついているのは、あの美女の表情だった。
少年の唇から自分のそれを離すときに一瞬だけ見せた、あの表情。
完璧な美しさがほろりと崩れ、かわりに愛らしさばかりが残った、だからこそなにより綺麗だったあの表情。
だから僕は友人に告げた。
正しくあの美女を表現することばを。

「……恋する女の子」
「はあ？　」

そう。
あれは「美女」などではなかったのだ。

「『恋する女の子』が居たんだよ」

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２０１１・３・２