「ガラス越しの距離J」

「ガラス越しの距離J:新しい恋」





「ねえヒサヤくん」
「え。あ、なに? 」

ふいにタカハシさんから話しかけられて、久弥は上ずった声をあげた。
タカハシさんは可愛い。
振られたばかりとはいえ、それはやっぱり変わらなくて、どきまぎとしながらも久弥は首をかしげた。
しかしタカハシさんはきゅっと形の良い眉をひそめて、吐き捨てるように言い放った。

「サカキマコトって子のこと知ってる? あたし、すっごく嫌なことを言われたんだけど」
「え」
「なんなのよ、あの子」

タカハシさんの言葉には無数の棘がひそんでいる。はっきりとした敵意を向けられて、久弥は戸惑った。
幼馴染である真琴はとてもやさしい。むやみに人に嫌な事を言ったりするような子ではない。
それは生まれて9年一緒に居た久弥が一番良く知っていた。
だからこそきょとんとする。
「真琴が? 」
「そうよ」
「……真琴はそんなこと言ったりしないと思うけどなあ」
久弥の言葉に他意はない。
ただ真実を述べただけであったのだが、それはタカハシさんの望む返答ではなかったようだった。
タカハシさんは今まで見たこともないような顔で久弥をひと睨みすると、ぷいと背中を向けて去っていってしまった。



久弥はだから学校帰り、幼馴染に尋ねてみた。
「マコト、タカハシさんに何か嫌なこと言った? 」
とはいえ尋ねる久弥自身もそれが本当のことだとは思っていなかった。
だから、重ねて言葉を続ける。

「言ってないよね? 」

その言葉に真琴は久弥を見る。
そうしていつものような冷静な表情であっさり答えた。

「嫌なことは言ってない」
「へ? 」
「本当のことしか、言ってない」

どういう意味かをはかりかね、久弥はきょとんとした。

「ええと……」

もう一度尋ねようとすると、真琴がくるりと振り向いて手を差し出してきた。

「久弥。ほら」

目の前を見ると、いつのまにやら大きな交差点が広がっていた。
小さな頃から真琴はこの交差点になると久弥の手をひく。
あぶなっかしいから、とは真琴の言で、それは小学3年生になった今でも続いていた。
同級生からからかわれることもあるが、真琴は平然としているし久弥もあまり気にならなかった。

「うん」

だから久弥も真琴の手を掴む。
ちいさくて少しひんやりしている真琴の手を掴んでいるとわけもなく安心してくるので、久弥は真琴の手が大好きだった。

「で、なに」

手をつないで歩きながら真琴が先ほどの言葉を促す。しかし久弥は首を振った。

「んー、もういいや! 」

そういって笑う。
真琴が「言ってない」というからには言っていないのだ。
久弥はそれを知っていた。
いや―たぶん、久弥だけがそれを知っている。
久弥は真琴の手をきゅっと握った。
いつでも変わらない、やさしい手。

「ありがと、真琴」

そうすると、今度は真琴が目をぱちぱちとさせた。





新しい恋








「なあ司、お前……昨日、何か真琴と話した? 」
久弥は目の前で弁当をつついている友人をみやった。
犬丸司という名の友人は焦げ目のついたいびつな形の卵焼きを口に放りこむ。
そうして久弥の方を見もせずに答えた。
「ああ、少し」
ふたりの頭上には初夏の青天が広がっていた。
校舎の影に入る木にもたれているおかげで涼やかな風が吹きぬけていく。
その風に前髪をそよがせながら、司は続けた。
「そういえば、マコトって化粧が下手だな。眼鏡もないほうがいい。まあ俺に付き合っていればかなりマシになると思うが。元はいいみたいだし……」
「つ、付き合う……っ!? 」
久弥は思わず、持っていた牛乳パックとやきそばパンを落とした。
そこで司は何かに気づいたようにようやく目を上げる。
「ああ。……いや」
久弥の様子を認め、そうしてはじめて目を細め、綺麗な笑みを浮かべた。
「……ああ、なんだ。嫉妬か? 」
「……え、あ、いや……」
もそもそと答えると、司は笑いながら―ともすれば人を食ったかのような笑みを浮かべながら続ける。
「別にいいだろう。お前は『マコト』のことを諦めるって言ってたじゃないか。だからそのマコトがどうしようと関係ないだろ」
「……ああ、うん」
「お前は久留巳とつきあうんだろうし」
「……うん」
久弥は俯いた。そうして草の上に落ちたやきそばパンを拾い上げ、そのままのろのろと咀嚼する。汚いとかそういうことはどうでもよく、ただ胸の奥にどすんとした重い鉛が凝っているような感触がした。

目の前の司という友人とは、久弥がこの学校に入って以来の付き合いになる。
司のことをひとことで言うならば、「顔はいいが性格が悪い」。そんな言葉で事足りる、そのような少年だった。
家庭の事情でバイトを連日しているせいか、クラスに居てもほとんど机につっぷして寝てばかりいる。
そのくせ成績も運動も人より出来るという、男子生徒にとっては嫌味を絵に描いたかのような奴だった。
しかも女生徒にやたらもてる。雑誌モデルをしているだけあってスラリとした体型の、誰もが認める美形である司は、女遊びもなかなかに激しいことで有名だった。
嫌な奴。
そう言われている司に話しかける男子生徒は、当時久弥しかいなかった。
しかし久弥は不思議に思っていた。
司は愛想こそないが「嫌な奴」ではなかった。話を聞けば聞くほど「良い奴」だった。
両親を亡くして姉とふたりぐらしであること。そのために連日バイトをしなければ生計がなりたっていかないこと。そして、その姉を誰よりも大切にしていること。
女遊びが激しいことが欠点だったが、今ではそれもすっかりなりをひそめている。
そう。
ずっと片想いをしていた女性に振られてから、司は変わった。


―真琴と、司か……。

久弥は何故だかゴムのように味のしない焼きそばパンをもそもそとかじりながら考えた。
久弥にとって司は「良い奴」だ。
今ではきちんと自立する為に勉学に勤しんでいる。
消防士を目指して奮闘中の司は、見ていて素直に尊敬できる友人のひとりだった。

―司になら、まかせてもいい……よな……。

真琴は久弥にとって、おそらくは一番大切な人間だった。
だから変な奴にはまかせたくない。だけども司になら、と考えると納得はできる。
たしかに胸の奥がもやもやするし、悲しい気もする。真琴に自分よりも近しい相手ができるのはひどく寂しい気もした。
泣きたい様な、怒り出したいような、妙な気分。
だけどもこれは久弥の勝手な感情だった。
真琴にとっても、コイビトでもない相手に嫉妬されるいわれは、「全く」ないのだから。


「おい、神埼」

つらつらと考えていると、司がじっと久弥の方を見ていた。整った顔から笑みは消えさり、その瞳は真剣な色を帯びている。
久弥が顔をあげると、司は放り出すように言葉を放った。

「もう一度いう。久留巳はやめとけ」
「……」
「あいつはお前を利用しようとしているだけだ。最低な女だぞ」

それは久弥がクルミに告白されたときから何度も聞かされていた言葉だった。
なんでも、司は以前クルミと数回だが関係を持ったことがあるらしい。
しかし久弥は首を振った。

「司、お前そういうふうにいうなよ。オレは久留巳さんいい子だと思う。いつも綺麗にいようと頑張ってる。なんか一生懸命でさ。なにがあったかしらないけど、そういうふうに言うなんてかわいそうだろ」

その言葉に、司は呆れたように溜息をついた。
そうして前髪をかきあげながら、じろりと久弥をねめつけた。

「お前、馬鹿」
「なっ、なんだよ」
「もういい。……じゃあ、俺がマコトを女にしてやる。扱いにくそうだけど、まあ、いろいろはじめてだろうし。せいぜいやさしくしてやるよ」
「……な」

いきなりの司の宣言に、久弥は言葉を失った。
しかし次の瞬間には頭が沸騰しそうになった。
かっと頬が熱くなり、思わず司の胸倉をつかみ挙げそうになる。
しかし、その感情をなんとか押さえられたのは、この目の前の友人が今は「変わった」からだった。
今の司は適当に女の子と遊んだりはしない。
真琴を本当に好きなったのなら、全力で大切にしてくれる。
久弥はそれを知っていた。

「……うん。頼む、よ」

俯き、じりじりと焦げる感情を抑えながら答える。

「真琴、いい奴なんだ。愛想はあんましないけど、すげえ優しいし、面倒見いいし。……実は、可愛いところ、あるし。だからさ」

小さな頃からずっと側にいた幼馴染。
誰よりも大切な、大切よりも気づいた幼馴染。

―司になら、まかせられる。大丈夫。

「ぜったいぜったい、ぜったい大事に、してやってくれよな」

なんとか笑みを作って顔を挙げると、司が自分をみつめているのが視界に入ってきた。
それはいろいろな感情がごちゃまぜになったような、呆れ返ったような、実に不機嫌な表情に見えた。
そうして、今にも舌打ちをせんばかりの口調で、こう吐き捨てた。

「……この、馬鹿が」







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2011・2・13