「僕の太陽:9」<はじまり> |
「は、はじめまして・・た、高宮梨子です。」 はじめてリコに会ったのは司が4歳の時だった。 リコは9歳になったばかりだったように思う。 「司、梨子お姉ちゃんよ。挨拶なさい。」 母親にそう促されたが、当の司はきょとんとしていた。 いきなり司の前にやってきた知らないおじさんと女の子。 その存在は、4歳の子供にはあまりにインパクトが強すぎた。 「・・梨子・・おねえちゃん・・?」
はじまり
リコは朝が好きだった。 新しい一日のはじまり。新しいことに踏み出せるとき。 それが毎日訪れるのだから幸運だ。そう思っていた。 ひよこの声のする目覚まし時計を止めると背伸びをひとつ。 カーテンの間からは白い光が零れ出ていて、それがテーブルの上に置いてあるコップに反射してきらきら光っていた。 (ああ、きれい) リコは嬉しさがこみあげてきてにんまりとした。そうしておむむろに立ち上がり、カーテンと窓をひといきに開ける。 とたんに東向きの窓からはまばゆいばかりの朝の光が飛び込んできて部屋を明るく照らしだした。 光はまっすぐに自分に向かってきている。そう思えて自然と背筋がしゃんと伸びるような気がした。 そう思えることがなによりも嬉しい。そう思った。 (うん) リコは思い切り両手を広げて深呼吸をする。 1回。 2回。 3回。 (うん!わたしもう大丈夫だ。) 空は青天の気配を見せていた。 薄い色の青がわずかに残った夜の名残を打ち消してゆく。 (今日はいい日になりそうだよ・・!) 司が起きた時にはすでにリコはキッチンに立っていた。 ふんわりと漂ってくるのは味噌汁の匂い。そして香ばしい目玉焼きの焼ける音だった。 「あ、おはよう司くん!」 リコは司を見るとにっこりと笑った。 「司くん、昨日はあれからだったら寝るのがおそかったでしょう?大丈夫?」 「・・姉さんこそ。」 あのあと姉と共に帰った司はすぐに自室にひっこんだが、その後も居間では姉がばたばたと動いているのを知っていた。 それがおさまったのは午後2時すぎ。 リコの方こそ4時間ほどしか寝ていないはずだった。 ・・もっとも、それはいつものことではあるのだが。 「うん、ありがとう。大丈夫だよ。」 リコは明るく笑う。その笑顔はあまりにいつものとおりで、司の方こそ面食らってしまった。 「元気そうだね。」 「うん。」 「・・あんなに好きだった男に振られたのに?」 ぼそりとつぶやいた言葉にはトゲが含まれていたように思う。司は内心舌打ちをした。 何もリコを傷つけたいわけではないのに。 さすがに自己嫌悪にかられていると、リコはおもいがけないほど晴れやかに笑った。 「うん、好きだったからこそ・・かなあ。」 「はい。司くん、お弁当。」 朝食の後、リコが渡してきた青い包みを見て司は箸を動かしていた手を止めた。 ちらりと少女の顔が脳裏によぎる。そうして一ヶ月限定の「彼女」との約束を思い出した。 「・・ごめん、姉さん。」 「え?何?」 リコはぱちぱちと瞬いた。 「しばらく弁当は・・。」 言いかけたところで玄関のインターフォンが音を立てた。 「は、はーい!」 慌てたように玄関に出て行ったリコは、やはり慌てたように居間に戻ってくると司を顔を見つめた。何故かその目は潤んでいる。 「司くんっっ!」 そうしてリコは頬を紅潮させ、口元に実に幸せそうな笑みを浮かべた。 「凄い可愛い女の子がお迎えに来てるよ・・っっ!」 「・・日比谷・・。」 玄関に居たのははたして日比谷あかりだった。あかりは司を見ると綺麗に微笑んだ。 「おはよう、犬丸君。あの、朝も一緒に行きたいなあと思ってお邪魔しちゃったの。」 「ああ、そうか・・。」 司は曖昧に頷いた。正直困惑していると言ったほうが良かった。 するとその空気を感じとったのだろう。少女はかすかに眉を下げた。 「・・やっぱり・・迷惑だった?ごめんなさい。昨日からメールはしていたんだけど・・。」 「ああ・・そうか。」 司は頭をかいた。そういえば昨日は、携帯のメールをチェックしていなかったことを思い出した。 「ごめん。あと10分待ってもらえるか?」 「うん、もちろん・・。」 あかりがほっとしたように答えかけたところに第3者の声が割って入った。 「あの、良かったら中に入って待っていきません?」 司が慌てて振り向くと、リコが満面の笑顔で居間から顔を出していた。 司たちの住居は狭い。交わしていた台詞は丸聞こえだったに違いなかった。 「ね。おいしいお茶があるんです。外は寒いし。ね?」 「司くん、ほら、早く支度してこなきゃ。」 「・・わかってるよ。」 どうしてこんなに嬉しそうなんだろう。司は苦々しい気分を抑えてリコを見やった。 リコはこの家で一番高い茶葉を急須に入れていたが、司の目線に気づくと「うふふ」と気持ち悪く笑う。 そうしておもむろに近づいてくると、居間に座っている少女からは見えない位置に司を引っ張ってきて小さくささやいた。 「司くんったらこんなに可愛い彼女がいたんだねえ。」 「・・・。」 「好きな子がいるって言ってたのもこの子のことだったんだね。もう、お姉ちゃんに隠さなくってもいいのに。」 「・・・・。」 「ああでも可愛いし綺麗だねえ。あ、もしかしたらわたしの将来の妹になるかもしれないのね。うふ、うふふふふふふ。」 ああ、やっぱり今日はいい日だよ。満面の笑顔でそうつぶやく姉は心の底から嬉しそうだった。 じり、と胸の中で何かがざわめく。 司はのんきそうな笑顔の姉を見ながら苦々しいものがこみ上げてくるのを感じていた。 じり、じり。 ・・ああ、苛々する・・。 「つ、司くん・・?」 気がつくと司の両手のひらはキッチンの壁に触れていた。 そうしてその手に囲まれるようにしてリコのぽかんとした顔がある。 司は姉の顔に自分のそれを近づけた。 リコはただでさえ大きな目をさらに大きくして自分を見ている。 「・・姉さん。」 その黒い瞳に映る自分の姿は実に醜い表情をしているように感じた。
はじまり
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