「僕の太陽:49」<曇りのち、快晴> |
箱庭の外に立つ司は考える。 姉との別離。 それが姉が自分に望むたったひとつのことだった。 ―そうか。 司は思った。 ―なら…そうしよう。 姉のためにも自分の為にも、多分それは必要なことなのだから。 ―だから。 だからお別れだ。 僕の太陽。 僕の愛したたったひとりの女性。 さよなら。 犬丸梨子。 さよなら。 僕の…姉さん。
僕の太陽49
司くんへ。 お元気ですか?怪我とか病気とかしていませんか? 司くんのことだから消防官になるために一生懸命頑張っているんだろうと思います。 もう6月です。 司くんが家を出て、もう1年以上が経ちました。 早かったような長かったような、凄く不思議な気分です。 司くんは元気で居るって赤谷さんから聞いてます。それを聞いてほっとしてます。 だけど訓練とか、いろいろ大変だって聞くから、すごくすごく心配です。 人のためになる素敵なお仕事だけれど、本当に気をつけてくださいね。 わたしはいつでも応援しています。 司くんは嫌かもしれないけど、何かあったらなんでもいいから頼って下さいね。 わたしに会いたくないのなら、赤谷さんを通してでも構いません。 …ううん。 二度と会いたくないに決まってるよね。 司くん。 司くんがわたしに会いたくないのは当然です。 そして、わたしも司くんに会える資格なんて持ち合わせていません。 司くんを利用してきたわたしに、そんな権利はありません。 司くんは優しいから、多分まだわたしのことを心配してくれているのではないかと思います。 だけど、大丈夫です。 あれから、新しいお友達もたくさんできたんですよ。 桜井さんに椿さん。優次君に六尾さん。 ほかにも、たくさん。たくさん。 だから大丈夫です。 寂しくなんてありません。 だから司くんは後ろなんて振り向かないで、自分の道を歩いていってくださいね。 ……。 ごめんなさい。ひとつだけ嘘をつきました。 本当は寂しいです。 司くんに、会いたいです。 でもそれだけは言えません。 絶対に、言えません。 わたしはとても弱いなあと思います。 弱いわたしはすぐに優しい人を…司くんを求めます。 だから会えません。 もう司くんを閉じ込めたくはありません。 でもね、司くん。 わたしは本当に幸せ者だと思います。 わたしはたくさんの優しい人を知っています。 優しい人たちに助けられています。 それになにより。 優しい司くんがずっと側に居てくれた素敵な想い出があります。 だから私は大丈夫です。 大丈夫なのは、本当です。 司くん。 わたしは司くんのことが好きです。 大好きです。 たぶんずっと。 ずうっと、ずうっと大好きです。 だからこそ大丈夫です。 司くんが本当の太陽を見つけて、そうして幸せで居てくれるのがわたしの幸せだから。 また、お手紙書きますね。 くれぐれもお身体には気をつけて下さい。 高宮梨子 リコはテーブルの上にペンを置くと、その顔を上げた。 行きつけのオープンカフェの一角。 時計を見るともうすぐ11時になるところだった。 いつもは閑散としているここも、流石に昼時になると混んで来る。 そろそろお暇しなきゃ。 リコはそう思い、書き上げた便箋を丁寧に折りはじめた。 側には用意していた封筒が置いてある。しかしその封筒には宛名も住所も記載されていなかった。 リコは司の住所を知らなかった。 しかし月に一回、こうして手紙を書くことがリコの習慣になっていた。 手紙を投函するつもりも、誰かに見せるつもりもない。 けれどもこうして自分の想いを文字にしていると、ほんの少しばかり心が落ち着いた。 今のリコと司とのつながりは皆無に近かった。 戸籍上はもともと他人。 便宜上自分が「犬丸梨子」だと勝手に名乗っていただけ。 司は見事難関を潜り抜け、念願の消防士になることができた。 そうして宣言どおり、卒業するとリコの家を出て行った。 消防士は半年間消防学校に通わなければならない。 しかし給料も出るうえに寮も完備しているから、司は物理的の面でもすでに自立していた。 リコの出る幕などひとつもなく、あっさりと司は巣立って行った。 そうして卒業するまで「弟」でいてくれた司は、卒業すると同時にリコの前から姿を消した。 赤谷とは時折会っている様だったが、リコの前には一度も姿を現すことはなかった。 契約していた携帯電話はリコの知らない間に解約されていたので、リコは司の電話番号さえ知らない状態だった。 そう。 司は足跡ひとつ残すことなく。 綺麗に。 綺麗に自分の存在を消した。 それでいいとリコは思っていた。 司くんは幸せかな。 幸せならいいな。 そう思いながら文字を綴る。 司への懺悔と祈り。 そうして告白。 投函されることのない手紙は毎月増えていく。 司くんが幸せでありますように。 どうか、心の底から幸せでありますように。 そうして最後に、祈りながら便箋を折る。 一枚一枚、丁寧に。 「…すみません。ここ空いていますか?」 必死に便箋を折っていたリコは、ふいにかけられた声に驚いて顔を上げた。 カフェのオープンウインドウからは、陽光が燦燦と降り注いでいる。 逆光で顔は良く見えなかったが、声の主はサングラスをかけた青年のようだった。 リコは慌てた。 どうしよう。もたもたしていたからお昼時になって混んできちゃったんだ。 「あ、はい、どうぞ…!」 青年は何故かわずかに沈黙していたが、小さく礼を言うとリコの目の前の椅子に腰をかけた。 テーブルの上はリコのシャープペンシルや消しゴムが散らかっている。 それを慌てて片付け、次いで便箋を封筒に入れようと手にしたところで、もたつく手先から便箋がするりとすり抜けた。 「あ!」 ばさばさという音と共に床に散らばる数枚の紙。 リコは慌てて立ち上がった。 しかしその勢いに今度は腰掛けていた椅子が盛大な音を立ててひっくり返る。 「ああ!」 店内中の視線が自分に集まってくる。リコは顔を真っ赤にしてぺこぺこと頭を下げた。 「ご、ごめんなさい…」 あわててしゃがみこみ、椅子を元の位置に直す。 散らばった便箋を集めようとすると、先ほど相席になった青年の背中が目に入ってきた。 拾うのを手伝ってくれているのだ。 かあっと頭に血が昇る。 「あ、あの、ご、ごめんなさい…」 「いえ」 青年の行動は早かった。 すぐに立ち上がり、もたもたとしゃがみこんだままのリコの前に便箋を差し出した。 「あ、ありがとうございます…」 リコはその紙の束をはっしと掴んだ。 恥ずかしくて申し訳なくて、青年の顔もまともに見れなかった。 「手紙ですか?」 「は、はい…」 「誰に?」 「お、弟に…」 問われるまでに答えながらリコは言葉を途切れさせた。 今はその答えは正しくない。そう思ったので訂正する。 「いえ…好きな人に」 「…そうですか」 リコは立ち上がり、がたがたと椅子を鳴らしながら座った。もしかしたら手紙の中身まで少しみられてしまったのかもしれない。 恥ずかしくて仕方がない。それに自分のドジのせいで目の前の知らない人にまで迷惑をかけてしまった。 …帰ろう。 しかし便箋を直そうとバッグを開けているリコの前で、青年がサングラスを外した。 それまで恥ずかしくて顔も見れなかったリコだったが、目の前の青年が小さく息を吐いた気がしてその瞳をそうっと挙げた。 青年の顔が視界に入る。 その瞬間。 リコは思い切り固まった。 「……!」 「俺にも姉が居ました」 目の前の青年はそんなリコには構わずに冷静に言葉を紡ぎ出した。 リコといえば驚きのあまりに声のひとつも出せなかった。 「姉はどうしようもないほど鈍感で鈍臭い人でした。例えば、久しぶりに会った人の顔も声もど忘れしてしまうくらいに」 ち、違う。麻痺する頭の中で、それでもリコは思った。 顔を忘れたわけでも声を忘れたわけでもない。 ただいろんなことがあると頭が飽和状態になってしまうだけで。 サングラスをしてたから、声も一層低くなってるから、顔つきも身体つきもなんだか凛々しくなっちゃってるから。 だから、き、気づかなかっただけで。 パニックを起こしかけているリコに向かって、しかし青年は冷静に次の言葉を続けた。 「だけど―姉はもう居ません」 「え…」 「居なくなったんです。俺の前から、永遠に」 リコは呆然と青年の綺麗な顔をみつめた。 青年は表情を浮かべることなく静かに言葉を紡いでいる。 嘘や冗談には思えなかった。 だからこそ混乱する。 しかし目を白黒させているリコの前に差し出されたのは、その大きな手のひらだった。 それは記憶にあるものよりずっと日に焼けていて、ごつごつと骨っぽくなっている。 リコの知らない、ひとりの男の人の手。 「…今日、俺は」 青年はそうして言葉を紡いだ。 静かに静かに。 しかし…どこかぶっきらぼうな口調で。 「『高宮梨子』という人に『出会う』ために来たんです」 青年の綺麗な瞳はリコをまっすぐにみつめていた。 呆然とするリコに手を差し伸べたまま青年は続ける。 「…はじめまして。高宮梨子さん」 無愛想な表情のまま。 しかし次の瞬間かすかにかすかに…頬を緩めて。 「やっと…出会えた」 1年前の6月のある日。 姉は目に涙を溜めたままそれでも微笑んで彼を送り出した。 箱庭の外へ。 そうして解き放たれた男は考えた。 箱庭の外、別たれた二つの道の上。 その上で男は決意した。 「犬丸梨子」との、永遠の別れを。 そして。 ―「高宮梨子」との新たな出会いを。 高宮梨子と自分がこれからどうなるかはわからない。 彼女は途方もなくお人よしのくせに驚くほど頑固な人間だから、自分の思うような展開にならないのかもしれない。 けれど1年前よりは少しはマシになった自分が居る。 なんとか「高宮梨子」と同じラインに立つ事のできた自分が居る。 だから「出会う」ためにやってきた。 ここからスタートを切ればいい。 すべてはゼロからのやり直し。 望むところだ。 遠慮などもうしない。 待てと言われても待ってなどやらない。 司は新しい恋を始める。 太陽ではない、ひとりの女性である「梨子」に。 これからは彼女との戦いになる。 しかし今。 難攻不落の彼女はまだ事態を飲み込めていない。 先手必勝。 ぽかんとした顔で自分をみつめている女性に向けて、彼は宣戦布告の言葉を吐き出した。 「…覚悟してろよ」
曇りのち、快晴
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