「僕の太陽:47」

<しがみ付いた幻想>






「司くんのこと……大好きだよ」

その言葉を聞いた瞬間、自分の時が止まったように感じた。
自分自身の呼吸も、心臓も、思考回路も。
ひとつひとつの指先に行き渡っているはずの神経さえもぴたりと動きを止めたように感じた。
結果彼は身じろぎはおろか、声ひとつあげられないまま、眼前の姉の姿を呆然とみつめていた。

姉がひとつしゃくりあげる。
その拍子に彼の思考がわずかに動き出した。
そうしてはじき出された答えは簡単なもの。これまでの経験から推測するにはあまりにもたやすいものだった。
それなのにそんな言葉に簡単に動揺してしまう自分を情けなく思う。
司はそう思いながら笑みを作った。
出来るだけ静かに見えるように。
「…それは知ってる。俺は姉さんの弟だからだろ…」
「ち、違う」
しかし返ってきたのは思いも寄らない否定の言葉だった。
そうして涙に濡れた瞳を挙げた。
姉の瞳はまっすぐで、どこまでも澱みない。
それに囚われて動くこともできない弟の前で姉は告げる。
―全てが変わってしまうような一言を。

「…ひとりの、お、男の人として…」


その答えに、今度こそ司は完全に言葉を失った。









僕の太陽47










司は静かに自分の前に立っていた。
動揺も狼狽もその端正な顔からは伺えない。
ただ静かに目の前に立っている。少なくとも、リコにはそう思えた。
リコは胸の前で右手で左手を握る。
声が震えないように。
身体が震えて立てなくならないように。
ぎゅうと力を入れて司を見上げた。

「で、でもね…」

司の瞳はとても綺麗だった。
自分を見返す瞳は、なにもかも飲み込んでしまいそうなほど綺麗に澄んでいる。
その瞳が欲しくなる。扉を締めて、鍵をかけて。
永遠に閉じ込めてしまいたくなる。
…だけどそれだけは、してはならないこと。

「わたしには…そんなことを言う資格がないの…」

―だってわたしには優しくされる資格も、好きでいてもらう資格もない。

「…わたしは、司くんを利用してたから…」

―勝手な感情で司の優しさを利用してきた自分がそんなものを望んではならない。

「わたしはひとりになりたくなかった。弟と…ずっと一緒に居たかった。
わたしは、司くんに縋りついて、甘えてた…」


司は何も答えなかった。
ただリコをみつめていた。
静かに。ただ、静かに。

「…だからね、わたしは司くんから自立しなきゃならない、の…」

リコは息を吐く。声が震えるのを止めることは難しかった。
握り締めた手に力を入れる。
お願い。震えないで。
わたしは彼に、きちんと告げておかなきゃならないのだから。
彼を―「解放」しなきゃならないのだから。

「…司くんは優しいから、昔からずっと優しかったから。
だから多分、今でもわたしをひとりにすることができないんだと思う」


ひとりにしないで。

声のないメッセージを、リコ自身ですら気づいていなかったメッセージを、受け取ってくれていた司。
だから優しい子供は姉の望むままに振るまった。
そうすれば姉が喜ぶ。そう信じて「弟」で居てくれた。
――そうして今、この瞬間にだって。

「わたしは、大人になる。しっかりする。自分で自分の居場所を見つけて、司くんに心配をかけないような人になる。
…今回は失敗したけど、たぶん、きっと、できるから」


わたしは「太陽」なんかじゃない。
そんな風に言ってもらえるような人間じゃない。
だけど司くんはそう思ってくれていた。そうして共に居ようとしてくれた。
本当はもっと高く飛べるのに、その翼は蝋でしか作れないと思い込んで。
何度でもニセモノの太陽の側に居ようとしてくれた。
本当は違う。
本物の太陽は別のところにあって、綺麗な翼だって生まれながらに持っている。
それなのにわたしは無意識のうちに私は司くんを閉じ込めて、羽を毟り取って、ニセモノの太陽しかない箱庭にしか居られないようにしていた。

――最低だ。

だから自分は決めたのだ。
自分が父親の影を振り切って、人の役に立てるような人間になって、この世界にひとりで立てるようになる。
だから偽の婚約者の役を引き受けた。
弟に胸を張って「もう大丈夫だよ」と告げたかったから。

わたしはひとりでもやっていける。
弟なんて必要ない。家族なんて必要ない。
大丈夫。多分…大丈夫だから。
―だから。

「だから、司くんはもう自由になっていいの。わたしなんかに縛られなくていい。
家族ごっこなんてしなくていい。…司くんは司くんのままで居て、いいんだよ」


―今までごめんなさい。
―今までありがとう。
―本当に、本当にありがとう。


「外には、司くんに相応しい人がたくさん居ると思う。司くんは素敵だから…本当に素敵だから」


だからね、もう。


「…もう自由に生きて…いいんだよ」



司は何も答えなかった。
リコをただ、静かな瞳で見下ろしていた。
やがてぽつりとつぶやいた。

「…それが、姉さんの答え?」


リコは頷いた。
胸にある両手に力をこめる。
そう。それが答えだ。
ともすれば悲しくて寂しくて身体が震えそうになる。
だけども自分が、司を利用してきた自分がやらなければならない最後の事。
「うん」
「…そうか」
司は頷いた。


「…わかった」








しがみ付いた幻想






「僕の太陽:48」に続く



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