「僕の太陽:46」<梨子の本心> |
「梨子さん。息子の馬鹿げた嘘に付き合わせて、すまんかったな…」 きれぎれの言葉はひどく小さくて頼りなかった。 痛み止めが効いているのだろう。その表情は穏やかそのものだった。 部屋の中にはリコと、そうして桜井の父親しか居ない。 二人きりにしてくれと言ったのは父親だった。 息子も秘書もすべてを追い出した父親は、ベッドに横たわったままリコを見る。 リコは慌てて膝まずいた。そうして布団に投げだされたままの細い手を取る。 口を開こうとすると唇が震えた。 いつもと違う男の様子に冷たいものが背筋を落ちる。 初めて会った時は、父親の手はまだふっくらとしていたように思う。 桜井と話す言葉の調子も凛としていて怖い印象すらあった。 それなのに今は…。 心臓がじくじくと痛んだ。 出会って一月。みるみるうちに痩せ細り、病魔は彼の身体を蝕んでいった。 それを止める手立てはなかった。 「対処療法しかないそうです」 はじめて病院を訪れた時、桜井は淡々とそう言った。 彼は自分の感情を露にしない。父親とは仲が良くはないと言ったが、嫌悪や憎しみを抱いているわけではないことは直ぐに理解できた。 彼と父親はお互いに「どう接してよいのかわからない」だけのようだった。 でなければリコに偽の婚約者の演技などを頼んだりはしない。 「リコさん。貴女がここに頻繁に来る必要はありませんよ」 桜井は言ったが、リコはそうせずにはいられなかった。 桜井が居ない時もひとりでお見舞いに来たこともあった。 はじめはぎこちなかったが、そのうちにいろいろなことを話すようになった。 桜井のことや会社のこと。 そうしてリコもたくさんのことを話した。 桜井が居る時と違って、父親は饒舌で聞き上手だった。 威圧感はあるし少しばかり偏屈なところもある。 けれどもリコは嬉しかった。 「父親」と話せて嬉しかった。 リコはここに来るたびに父親のことを…自分の父親のことを思い浮かべていた。 目の前の人とは似ても似つかない自分の父親。 …このかたを失うことは辛い。 リコは思った。 …だけど、せめて、幸せな気持ちで最後を迎えてくれたなら… それは送り出す方の勝手な感情そのものだった。 それが自己満足に過ぎないこともわかっている。 「おとうさん…」 父親はどんな気持ちで逝ったのだろう。 そう思うと悲しかった。あのときのリコには何も出来なかった。 ひとり残されて、そうして残されたことを恨んだ。 司が居なかったらきっとその感情を抱えたまま生きていただろう。 そうならなかったのは司のおかげだった。 優しい子供の、優しい言葉のおかげだった。 だけど、とリコは思っていた。 (わたしは本当は、自分でそれを乗り越えなきゃならなかったんだ…) リコはがりがりにやせ細っている手を握り締めた。 「さ、桜井さん…」 この人を幸せにしたかった。なのに失敗してしまった。 本当にわたしは、何をやってもうまくいかない。 「ごめんなさい…」 「リコさんが謝ることはない」 しかし病床の男は驚くほど穏やかだった。 「…リコさん。可能なら、これからもあいつの友人でいてやってくれないか…」 リコは何度も頷いた。 言葉にはならなかった。 「ありがとう」 桜井の父親は最後にはんなりと笑った。 「あやつは馬鹿でどうしようのない奴だが…あなたのような人と友人であるのなら…安心できる」 違う。 自分は感謝されるようなことなど何一つしていない。 リコは唇を噛み締めた。 結局誰の役にも立てなかった。 そんな自分が嫌で情けなくて…そうして悲しかった。 「父」のために何かしたかった。 それが自分の父親じゃなくても。 そうして「父」から卒業したかった。 そうしないといけないと思った。 そうでないと「司」とは向き合えない。 「父親」の変わりに司を利用して「居場所」を作っていた自分。 司の優しい気持ちを利用して、保護者の振りをして「居ても良い場所」を必死に保とうとしていた。 今ならわかる。 …司を「一人の男の人」として見るようになっている今なら良くわかる。
僕の太陽46
司は知っている。 自分が司に何を望んでいたか、正確に知っている。 弟で居て。 家族で居て。 …ひとりにしないで。 司は聡い子だったから、そのことを明確に捉えていた。 だから今までそう振舞ってくれていたのだ。 それが嫌になってしまっても、それでもぎりぎりまでそうしてくれていた。 「司」を「司」として見ていなかった愚かな自分。 それなのに、弟の振りをしてくれていた。 ――俺は、姉さんのことが好きだよ。 あのとき司はそう言った。 ――姉さんが俺を男として見れないことは知ってる。 優しい笑みさえ浮かべていた。 ――家族で、弟。姉さんは俺を…それ以外には見ることが出来ない。 静かに…静かに彼は言葉を紡ぐ。 ――姉さんのことだから気にするのかもしれないけど、もういいんだ。姉さんには姉さんの恋愛がある。俺は姉さんのことが好きだけど、だからといって、もう…どうこうしようという気はないから。 子供の頃から聡かった少年はすべてのことを知っていた。 そのときのリコの、望む答えさえ。 「ごめんなさい…」 目の前の少年は驚いたような表情で自分を呼ぶ。 「姉さん…?」 そんな司にリコはただ、謝るしかなかった。 偉くなどない。 わたしは何もしていない。 勝手な感情でじたばたして、いろんな人に迷惑をかけた。 そうして今はまた、司に甘えようとしていた。 それを司は理解して「家族」の振りをしようとしてくれた。 優しい子供の頃の司に戻って、静かな声で頭を撫でた。 そう。それはきっと…少し前までの自分が望んでいたことだったから。 「わたしは…司くんにひどいことをしてきた…」 「自分」を「自分」として見てもらえないのはどんなに辛いことだったろう。 ――俺は弟じゃない。 大きくなった司くんがかすかな態度で主張していてもわたしは気づかなくて。 単に思春期だからとか、そう思っていて。 言葉の端々に見えていた、司くんの苛立ちの正体にも気づかなくて。 だから司は泣いたのだ。 あのとき自分を抱きしめて、無理矢理に唇を合わせながらも司は泣いているように思えた。 あのとき浮かべていた自嘲するような笑みは、あまりにも辛そうに見えた。 ――気味が悪いかもしれないけど、あと1年、「弟として」一緒に居させて欲しい。 司の出した答えは「今までのリコ」が求めていた答えだった。 司は知っている。 だからそれ以上は望まなかった。リコに押し付けることもしなかった。 それは司という少年が優しいからだということをリコは知っている。 それなのに、その司が出した答えにリコは打ちのめされた。 司はいつだって自分のことを考えてくれていた。 いつだって。 いつだって。 そうして、そんな司に望まない役割を押し付けていたのは他ならぬ自分自身だった。 優しい子供を利用して「居場所」を得ようと必死だった、自分勝手な人間だった。 自分の望む答えが変わってしまっていることにはとうに気づいている。 だから先ほどの司の行動が悲しかった。 申し訳なくてたまらなかった。 司がリコの為にそんなことをする必要はどこにもない。 リコはただ謝罪を繰り返した。 謝ってもどうにもならない。 それでも謝らずにはいられなかった。 そんなリコに、やがて司は声をかけてきた。 「…なんで謝るんだよ」 それは静かだがかすかに困惑の色を浮かべた声音だった。 「…姉さん」 リコはしゃくりあげた。 涙を拭い、唇を噛み締める。 そうだ。謝っても何もならない。 わたしが出来ることをしなきゃならない。 これまで失うことが怖くてできなかったこと。 何度も何度も、伝えようとしてもできなかったこと。 「…司くん。わたし、わたしはね…」 瞳を挙げる。そうして目の前の男の人を見た。 ああ、格好いいな。 漠然とそう思った。 そう。この人はもう大人の男の人だ。 わたしの「弟」じゃない。 ずっと。 ずっと前から、そうだったんだ。 「司くんのこと…大好きだよ」 ――だからわたしはこの人を、解放しなきゃならないんだ。
リコの本心
「僕の太陽:47」に続く
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