「僕の太陽:44」

<感謝>






桜井正美は親に殴られたことなどない。

両親は子供に無関心な人間だった。
だから彼は随分長い間、人に殴られたことはおろか、叱られたことすらなかった。

そんな彼がはじめて「叱られた」のは5歳の時だ。
曽祖父の家に連れて行かれ、隠居している当主に挨拶をさせられた。その時だった。
正美少年が自分の曽祖父と会ったのはその時が初めてである。
しかし義務的に挨拶をしただけで、会話らしい会話を交わすことなく彼の役割は終わりを告げた。
曾孫の顔見せは単なる名目であり、両親にとっては曽祖父との話し合いの方が主要であったようだった。
だから役割の終わった少年は、直ぐにその古い屋敷の一室に通された。
彼はしばらく大人しく待っていたが、1時間もたつといい加減待つことに飽きてきた。
しかしここでは彼の我侭を聞いてくれる使用人もいない。
一緒に来た両親は、彼にとっては滅多に会わない「見ず知らずの怖い人」にすぎなかった。
だから彼らに我侭を言うわけにはいかず、彼は仕方なく立ち上がり庭に通じる襖を開けてみた。
太陽が燦燦と降り注ぐ庭は非常に美しかった。
彼の住んでいるところの庭とは植えてある植物にも違いがあり、そうして自然を切り取ったかのような雑多感がある。
それらはひどく美しく5歳の少年の瞳に映った。
彼は庭をよくみようとガラス戸を引きあけた。雨上がりの風がゆるく吹き込み、彼の髪を小さくそよがせる。
そうしてそこで彼は見た。
葉の硬い緑の樹木。背の低いその樹木にはぽつりぽつりと赤い花が咲いていた。
赤と緑。
その鮮やかな色彩の中にひとりの少女が立っていた。
赤い花を眺めているのだろう。かすかにつま先だって顎をつんとあげている。
肌はまるで透き通るように白く、闇を染め抜いたかのような艶やかな黒髪が静かに風になびいていた。淡い色の着物に赤い帯。
それはまるで儚い幻のように彼の瞳に飛び込んできた。

彼は小さく息を飲んだ。
瞬く間に庭の美しい色合いは少女の色彩を際立たせるだけのものに変わっていく。
そうして彼の瞳は少女に釘付けにされたまま動かすことが出来なくなった。
心臓の音が高鳴り、耳の奥が奇妙な音を立てている。
何故だか目の前の少女が今にも消えてしまいそうに思えて、彼は慌てて口を開いた。
いつものような口調で。

「お、おまえ、だれだ」

その声に少女はくるりと振り向いた。自分よりほんの少し年上であろうその少女の白い顔は彼の想像以上に愛らしく整っている。
その瞳は漆黒であり、どこか深く落ち着いた光を湛えていた。
少女は黙って彼を見つめている。
彼はさらに跳ね上がった心臓を抑えながら再度声をかけた。

「おい。おまえこんなとこで何をやってるんだ。ここはぼくのおじいさまの家なんだぞ。勝手に入ったのか」

少女の瞳はすうっと細められる。
その表情すら美しく、彼は思わず魅入ってしまった。
だから反応が遅れた。
少女は素早く縁側に登ると彼に向かって手を伸ばし、思い切りその拳を彼の脳天に打ち下ろしたのである。
がつんと鈍い音と共に衝撃が起こり、次いで痛みが襲ってきた。

「な…」

思わず呆然として少女を見ると、当人はしれっとした顔で彼を見下ろしていた。

「お主は無礼なことを言いおった。だから拳骨してやったんじゃ」
「ぶ、無礼…?」
「初めて会う相手に挨拶もしない。しかもお前呼ばわりだ。加えていうなら態度が横柄すぎる。礼儀もろくに知らん子供のくせに、お主は何様のつもりだ」
「……」
彼はぽかんとした。
そんなこと、言われたこともなかったのだ。
そんな彼に少女は当然のように続けた。


「悪いことをすれば叱られるのは当たり前じゃ。だから私はお前を叱ってやった。
言っておくが叱る方が気力を使うんじゃぞ。せいぜい感謝するがいい」











僕の太陽44










リコの弟である司に殴られた時も、だから桜井は腹など立たなかった。

悪いことをすれば叱られる。

それは、随分と昔に「彼女」に教わったことだ。
そうして自分は殴られるようなことをした。
それだけは明白で、真実だった。
たとえどんな事情があろうとも「梨子」という女性を利用したことに変わりはない。
リコは言った。
「お父さんのことも椿さんのことも大切にしたい桜井さんの気持ちは、とても素敵なことだと思います」
ふんわりと、蕩けるような笑顔を浮かべて。
「だから諦めないで下さい。わたし、できるだけのことはしますから」

―この女性を愛することが出来たらどんなに良かっただろう。
桜井は幾度となく考えたことを反芻する。
多分「彼女」に出会っていなかったなら、自分はリコに恋をしていた。
そうーおそらく、多分。
しかし桜井は「彼女」に出会ってしまった。
だからリコを利用した。リコより「父親」と「彼女」を選んだ。

口内に鉄の味が広がっていく。
寝不足の身体は衝撃を支えきれず地面に転がっていた。
情けない。
そうしみじみと思った。

「…すみません」
寝転んだまま空を見上げていた桜井の前に出されたのは、意外にも当の少年のてのひらだった。
視線を動かすと硬い少年の顔が飛び込んできた。
よくよく見ると少年の表情は固いものの、瞳は冷静なようにみえた。
激昂していたのではなかったのだろうか。
そう思いながらその手を取る。
意外に少年の力は強く、桜井はあっさりと身を起こすことが出来た。
「すみません」
少年はもう一度いい、起き上がった桜井に向かって頭を下げた。
桜井は首を振る。
「いや…。当然のことです」
唇の端にぬるいものを感じて手の甲で拭うと赤いものが付着していた。
いや、むしろこのくらいで済むことの方がおかしい。
「…私はリコさんに辛いことをさせているのですから」
自分を気持ちを偽らせて。
「本当はね、私は誰かに殴って欲しかった」
そういうと少年はさらに表情を固くした。
「…今殴ったのは、俺の勝手な感情です」
「ええ」
「姉さんは多分、あなたのことを恨まないし憎まない。そういう人なんです。
他人のことばかり考えて自分のことを蔑ろにするのがなによりも得意な人ですから。
…だけど俺はあなたを許せなかった。…馬鹿でお人よしな姉さんを…尊敬、しているからです」
「はい」
「…だけど、だからといって人を殴っていいわけじゃない。…すみません。あなたを見たら頭に血が上って」
少年は大きく息を吐いた。おそらく激情を押さえ込んでいるのだろう。
片手で頭を押さえ、そうして首を振る。
「…姉さんは」
「今は父のところに。父が、彼女に話があるということで」
「……すみません」
少年はさらに恥じ入ったようだった。
桜井はベンチに腰掛けた。足元には吸殻が散らばっている。
時間にしたら数十分。その間に一箱分吸いつぶしたことになる自分に苦笑が洩れた。
父との想い出は皆無に近い。それなのに。
「…司君。誰に此処の場所を聞いたんですか?」
「……。小町さんです」
「なるほど」
友人の名を出されて桜井はさらに苦く笑んだ。
彼女に知られるのは時間の問題だった。だから不思議はない。
そのとき背後から足音が響いてきた。
早朝の病院の中庭には人気はない。
ばたばたとした不器用そうな足音は良く響き、桜井と司は病院へと伸びているレンガ畳の通路へ視線を移した。
「さ、桜井さんっ!お、おじ様が…!」
現れたのはやはりリコだった。
リコは桜井と共に居る司を見るとかすかに瞳を見開いたが、すぐに桜井に向きなおった。
「あ、あの、お話している最中に容態が急変して、む、むすこを呼んでくれって…」
「…わかりました」
桜井は立ち上がった。蒼白のリコの肩を優しく叩く。
「リコさん。ありがとうございました。…わかりますね?もう、帰られても結構です」
「さ、桜井さん、わたし、やっぱりうまくできませんでした。お、おじ様はわかってらっしゃったみたいで…」
「……」
「さ、さっき、わたしにすまなかったって、あ、謝ってこられて…」
「…そうですか」
「ごめんなさい。桜井さんの優しさをわたし、無駄にしてしまって…」
「そんなことありません」
桜井は首を振り、笑って見せた。
それは心からのものだった。
この女性は他人である自分などのために尽力してくれた。
弟である少年が言うように、それは尊敬に値することだ。

だから桜井はリコに向かい、深く頭を下げた。

「リコさん。これまで本当に…ありがとうございました」









感謝






「僕の太陽:45」に続く



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