「僕の太陽:43」

<桜井正美>






「どうぞ」

司は姉の同僚である女性にアイスコーヒーを差し出した。
小町は疲労困憊といった体で居間のクッションにもたれかかっていたが、それを見て嬉しそうに身を起こす。
「ありがと〜」
そうして盆に乗せられたアイスコーヒーに手を伸ばすと、一気に飲み干した。
よほど喉が渇いていたのだろう。そうして風呂上りにビールを飲み干した後のような、いかにも満足げな声をあげた。
「ぷはあ!うまい!」
「…あの、姉に用事があって来られたんですか」
「うん?」
「だとしたら申し訳ないんですが、姉は今留守にしていて…」
先ほど家の前に転がっていた自転車と小町の様子を見るに、姉に余程の急用があるかのように思えた。
おそらくは自転車を飛ばして此処まで来たのだろう。
「急用なら、姉に連絡してみますが」
姉は居ないが電話ならすることが出来る。
とはいえおそらく姉はひとりではない。
正直姉と共に居る男のことを考えると非常に気は進まないが…急用ならばやむを得ないだろう。
そう考えながら小町を見ると、女性は何やらにやにやとした笑みを浮かべていた。
「…どうしました?」
「いんや。リコちゃんはお泊りなのねえ」
「……」
「桜井と朝帰りかあ。これは司君としたらジェラシーを感じずにはいられないんじゃない?」
司は小さく息を吐いた。わずかに険を含んだ声音が洩れる。
「……用がないなら、俺は学校に…」
「リコちゃんねえ、随分前に首筋にキスマークつけてきたことあったの」
「……」
「桜井に会うもっと前よ。あの子ずっと鈍感野朗、もとい赤谷さんに片想いしてたでしょ。
だから男性経験なんてまったくなかったのよね。それが突然キスマークよ。あたしびっくりしちゃった」
「……」
司は目の前の女性から目線を逸らした。
あの時のことは今でも鮮明に思い出すことが出来る。
リコにひどいことをしてしまったという後悔の念はなによりも強かった。
小町はそんな司の顔を覗き込む。そうして言った。
「あのキスマークの相手って司君なんでしょ?」
それは質問というより確認に近い言葉だった。
「リコちゃんが言ったわけじゃないわよ。まあ、いろいろ推測の上にわかったって感じ。うふふ〜。あたし探偵の才能あるのかもしれない。どう思う?」
「……」
「とはいえ赤谷さんとかリコちゃんとかの言動見てるとばればれなのよね〜」
司は再度溜息を吐いた。
それは良く分かる。あのふたりはどう考えても隠し事というものが苦手なタイプだ。
「ねえ司君」
「……」
「司君はさ、リコちゃんことどう思ってるの?」
小町のストレートな質問に既視感を覚えた。
あのときはリコが相手だった。素直に伝えて自分の方向性を決めた。
…姉からの自立。
しかしどうしてそんなことをこの女性に答えなければならないのだろう。
「…貴女には関係ないと思いますが」
腑に落ちないものを感じてそう答える。
しかしその瞳を見ると、女性は驚くほどまっすぐに自分を見上げていた。
緊迫感のない口調と笑顔。しかしその瞳は不思議な色を湛えているように見えた。
「弟君さあ、桜井が本当にリコちゃんのことを好きだとか思ってんの?」」
司は弾かれたように瞳を見開いた。
「…え」
すう、と全身の血が引いていくのを感じた。冷たいものが胸の中を満ちる。
「それは…どういう…」
「言葉通りの意味よ」
小町は言いながらグラスに残っていた氷を口の中に放り込む。
がりがりと噛み砕く様子はやはり緊迫感というものは見当たらなかった。
「あたしはね、桜井と友達ってやつなの。だからこそ知ってる。あいつにはね、小さな頃からずっと、ずーっと想い続けている女性が居るのよ」
「小さな頃から…」
鸚鵡返しに零れ出た言葉は知らずかすかすに乾いていた。
司はそんな自分を自覚し、そうして軽く首を振った。
自分で思っていたより頭に血が昇りやすいという事は、過去の出来事からとうに学んでいる。
だから勤めて冷静に考えようと試みた。
「だけど今は姉のことを想っているのかもしれ…」
「あっまーい!司君はあいつのことを良く知らないからそんなこというのよ〜!」
しかし小町はそんな司の努力をあっさりと粉砕するようなことを言ってのけた。
「あいつのその女性に対する執着ってのは半端ないの。もーあれね、好き好き大好きーってぶんぶんしっぽ振っているわんこ状態ね。ウザイのなんのって。まあ椿さんには全然相手にされてないんだけどね〜。あ、椿さんってあいつの片想いの相手ね。あたしらより結構年上の超絶美人さんなの」
「……」
「もちろんリコちゃんと付き合いだしてからもそうよ。やつは毎日せっせと椿さんの元に通ってる。だからね」
そうして小町はきっぱりと続けた。


「リコちゃんは桜井に利用されてるのよ」







僕の太陽43









桜井は次第に明るさを増していく空に向かって紫煙を吐き出した。
足元には既に数十本もの吸殻が散らばっている。
短くなったそれを地面に落とし、靴先でぎゅうと踏み潰すと彼は再びポケットを探った。
しかし目当てのものは見つからなかった。
先ほどのものが最後の1本であったことを思い出し、桜井はベンチの背もたれに身体を預ける。
買いに行く気力はもう残っていなかった。
仕方なく吐息だけを朝の空気へと溶け込ませる。
身体は鉛のように重かった。
そして、その精神も随分と疲弊しているのを彼は感じていた。


こんな予定ではなかった。
ギブアンドテイク。
等価交換とも言える申し出を受けてくれたのはリコ自身だ。
だから彼女が嫌がろうと、きちんと報酬も払うつもりでいた。
そのほうが彼としても楽だったのだ。
リコへの「申し出」が随分と突拍子もない、可笑しな依頼である事はわかっている。
だからこそリコへの引け目を必要以上に感じたくはなかった。
しかし問題が生じた。
「梨子」という女性は彼が想像していたよりもずっと―「善良」であったのである。
申し訳ないという気持ちは想像以上のものになり、だからこそ彼は疲弊していた。
しかし今は彼女に頼らざるを得ない。
あと少し。
それは彼女との約束の期限であり、父との別れの時でもあった。
後悔こそしないものの、複雑極まりない状況。
「まったく、慣れない事をするもんじゃないな…」
これは最初で最後の親孝行のつもりだったのだが、結局はリコを傷つけてしまっている。
そのことを痛感して彼は小さく苦笑を浮かべた。
「また椿さんに叱られるな。…軽蔑、されなければいいが…」



―その時。

「桜井さん」
不意に地面に散らばっている砂利を踏む音が聞こえた。
目線を挙げると、その声と同じように硬くも若々しい顔が視界に飛び込んできた。
学生服を着た、ひとりの少年。
その顔には覚えがあった。
「…君は…リコさんの…」
浮かんだその言葉を彼は言い切ることができなかった。
少年は弾丸のような勢いで近づいてくると桜井の襟首を掴み上げ―。


そうしてその拳を桜井の右頬に叩き付けた。







桜井正美






「僕の太陽:44」に続く



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