「僕の太陽:42」

<タイムリミット>







小町はその家を出て大きく息を吐いた。
「まったく…」
呆れ返った声が唇から零れ出る。そうして振り返り、その家を見上げた。
随分古めかしい日本家屋は彼女の友人である男がなによりも大切にしているものだった。
正確に言えばこの家の主を、だが。
もう一度息を吐く。さてどうしよう。
そう考えを巡らそうとした所で目の前の扉が小さく開いた。
ぎい、と軋んだ音と共に現れたのは優しげな顔をした10歳前後の男の子だった。
「あの、小町さん…」
「ん?」
「あんまり、桜井さんを怒らないで下さいね…」
「んー」
小町の曖昧な声に、男の子は眉毛を八の字に下げた。この男の子の心底困り果てた顔はとても可愛い。
そう考えたところで小町は小さく声をあげた。
「あ」
「え。な、なんですか?」
「いや〜ああ、そっかあ。なんで桜井がリコちゃんに目をつけたかがなんとなくわかったような気がする〜」
「え?」
小町はひとりでうんうんと頷いた。
「リコちゃんってなんとなく君に似てるのよ〜。こう、お人よしそうでふにゃふにゃしたところとか」
「ふ…ふにゃふにゃ…」
「あいつが心を許してるのって、本当に少数だもんねえ〜。あいつ、君の事は信用してるみたいだし〜」
「えっと、それは…嬉しいですけど…」
男の子はぱっと頬を染めた。やっぱり凄く可愛い。だけどそれとこれとは話は別だ。
「でもリコちゃんの件に関してはきっちり怒るけどね!」
「ええー……」
小町の言葉に男の子は再度困り果てた顔になった。
「まあ、あいつが…人のことを思いやれるようになったってのはいいことだと思うけど」
「はい。ああみえて桜井さんはお優しいんですよ」
男の子はあくまで必死に桜井を弁護する。
小町はその様子をほんの少し嬉しく思った。





小町が桜井正美と出会ったのは小等部の頃だ。
同じクラスになったのは3度ほど。高等部まではさして親しくもなかったが仲が悪いわけでもなかった。
高等部になると共通の友人を通して会話することも多かったように思う。
小等部の頃から頭の良い子供だったことは覚えている。
くわえて顔も良く運動もそこそこ出来るうえに家柄も良かったので女の子の人気は高かった。
中等部、高等部とそれは変わらなかったように思う。
しかしそんな男にしては、彼にはほとんど女性の噂がなかった。
ちらちらと流れてくる噂によると、付き合いだしてもすぐに別れてしまうらしい。
「実は性格が悪いのかしら〜」
小町は昔からそう解釈していた。
桜井は人当たりも悪くはなかったが、その笑顔はどうにも胡散臭く見えていた。
ふと見せる冷徹な表情は他人などどうでも良いと考えているようにも見えたからだ。
そんなふたりが最後に話したのは、小町が学園を辞めてフランスに行くことを決めた時のことだった。
小町や桜井が通っていたのは有名なエスカレーター式の学園だった。そのこともありほとんどの生徒が大学に進学する。
そんな中、中退しかも留学という形ですらないフランス行きを決めた小町は完全に浮いていた。
口さがない噂も立てられたし、変人扱いもされた。
それでも小町は構わなかった。他人の言うことなどどうでもよい。
そう考えているという点では桜井と小町は似ているといってもよかった。
だからだろうか。珍しく桜井のほうから声をかけてきた。
「西園寺」
「なに?」
最後の登校の日だった。上履きを脱いでゴミ箱に放り込んでから小町は振り返った。
見上げた先には珍しく笑みを消した桜井が立っていた。
「お前、将来のこととか……世間体とか他人の目とか、気にならないのか?」
「気にならないわ」
小町は首を振る。小町にはなりたいものがあった。
そうしてそのためには今のままでは駄目なのだということを知っていた。
金持ち学校に通い続け、系列の大学に行き、親の決めた男性と結婚する。そんなことは嫌だった。
「自分の人生だもん。あたしはあたしの好きなように生きる。あ、あたしが立派なパティシエになったら食べにきてね。歓迎したげる」
「好きなように…か。そうだな」
何故だか桜井は嬉しそうに見えた。小町の答えが気に入ったのかどうか、それは桜井にしかわからないことだった。

そうして再会したのは2年前。
小町の現在の勤務先に、突如、客として現れた時だった。



小町は肩をすくめた。
もしかしたら今の「桜井」はあのときの小町の言葉に影響されたことによる結果の「桜井」なのかもしれない。
だとしたらやはり小町と桜井は似たもの同志で、そうして良い友人だった。

…けれど。
いや。だからこそ。

小町は心配げに自分を見上げる少年にむかってにっこりと笑って見せた。
「わかったわ〜」
少年の顔が安堵したように緩む。
しかし小町はその言葉のあとに直ぐに付け足した。

「今は我慢する。でも、『時期が来たら』怒ることにするわ。桜井もリコちゃんも、あたしの友達なんだもん。当然でしょ」











僕の太陽42









時期が来たら。
しかしその「時期」はすぐに訪れた。
6月に入ったばかりの、火曜日のことだった。



司はその日、一睡も出来ないまま朝を迎えていた。
寝ようとしたが眠れなかった。情けないと思いながら身支度をする。
リコはやはり帰っていなかった。
昨夜、リコは帰ってこなかった。短いメールで帰らないという旨の連絡はあったがそれきりだ。恋人と一緒なのだろう。
司は頭を振る。

最近は姉の帰りが遅い。休日もずっと出かけていることが多かった。
避けられているわけではないと思う。けれども最近のリコはひどく大人しく、悲しげにみえた。物思いに沈んでいることも多いようだった。
真夜中の部屋の中でひとり。着替えもせずにぼんやりとしている様子をみかけたことは少なくない。

昨日の朝のことだった。
「司くん…」
「なに」
「…ううん。なんでもない」


リコが悩んでいる。それはもしかしたら自分の所為なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
しかし自分の所為である可能性がある以上、詮索することは出来なかった。
そうしてじりじりと会話も減っていく。
司は大きく息を吐いた。
リコのためになることをしたいのに出来ない。そんな自分に苛立った。
恋人が出来て、本当なら嬉しいはずだ。
なのにリコは喜んでいない。楽しそうに笑うこともない。
赤谷に恋していたときとの違いに違和感を覚えた。
しかし手放しで喜べないのは、やはり「彼女に片想いをしている弟が側に居る」からなのだとも思う。
けれど…。

司は小さく息を吐いた。


つらづらと考えていると、ふいに激しい音がその思考を破った。
打ちつけるように連続で鳴らされるチャイムの音。
慌てて玄関に出た司は、そこに見覚えのある女性の姿を認めてかすかに瞳を見開いた。
ぜいぜいと肩で息をしてる女性の髪は盛大に乱れてぼさぼさになっている。
アパートの前には車輪がいまだ回転を続けている自転車が、無造作に転がっているのが見えた。

「おは〜…弟くん」
「西園寺さん…」
「久しぶり〜」

姉の同僚である女性は司の顔を見あげ、そうしてにやりとした笑みを浮かべた。







タイムリミット






「僕の太陽:43」に続く



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