「僕の太陽:36」

<水滴の指輪>






「小町ちゃん。ちょっとええ?」


西園寺小町が同僚である赤谷吾郎に呼び止められたのは5月のある日のことだった。
「はい〜。なんですか赤谷さん?」
小町が素直にスタッフルームに入ると、赤谷は辺りをきょろきょろと見渡して扉を閉めた。
密室に男女二人きり。
「うわ〜赤谷さんったら何をする気?このロリコン〜。変態〜。」
態と身体をくねらせると赤谷は慌てたように首を振った。
「あ、あほう!そんなんやないわ!しかもロリコンってなんやロリコンって!」
「え〜だって赤谷さんってロリロリのくそ変態じゃないですか〜。あんなぴっちぴちの女の子をたぶらかしおって〜。もう犯罪ですよ。この万年銃刀法違反〜。」
「じ、銃なんかもってないわい!」
「何言ってるんですか〜?赤谷さんはいつもフェイファー・ツェリスカを装備・・。」
「わー!!こら!女の子が下ネタなんぞ言うたらアカン!!」
赤谷は顔を真っ赤にして叫んだ。
小町はそれを見てけらけらと笑う。
まったくもってこの先輩はからかうと面白い。


「で、なんですかあ?」
小町が切り出すと、赤谷はほっとしたように頭をかいた。
「いや、リコちゃんのことなんやけど・・。」
「リコちゃん?」
「リコちゃんが最近なんか、変な気がしてなあ。変わったことでもあったんかな。」
小町は瞬く。そうしてまじまじと背の高い男の顔を見上げた。
「赤谷さんって、自分に関わらないことだったら妙に鋭いんですねえ〜。」
「へ?」
「いんや、いいです。」
小町は鈍感極まりない男の問いかけに首を振る。
当のリコが5年もの間抱いていた想いにまったく気づいていなかったくせに、この男は時折妙に鋭いところを見せるのだ。
でも、と小町は首を捻る。
「うーん・・。あ、そういえば少し前にあたしが友達を紹介しましたけど・・。」
「友達?」
「そうです〜。桜井正美っていう男で。それから凄く仲がいいみたいですけど・・。」
「・・・。」
赤谷はそれを聞いてわずかにその表情を曇らせた。
「・・まさか、その桜井くんと付き合っとるんかいな?」
「いやそういうことは絶っっ対ない・・って。なんで赤谷さんがそんなこと気にするんですか〜?
まさか振った後で惜しくなったとか?きゃ〜!このド変態の最低野朗〜!」
いつもの小町の軽口に今度の赤谷は乗ろうとはしなかった。これはこの男にしてはとても珍しい。
小町はきょとんと神妙な表情の同僚の顔を見やった。
その視線を受けて赤谷は苦笑を浮かべる。そうして口を開いた。
「そんなんやないねん。けど、リコちゃんのことを大事に想っとる少年がおってなあ・・。」
「少年?」
「ああ・・。」
赤谷にしては歯切れの悪い物言いだった。
「リコちゃんが幸せならそれは嬉しいんやけど、でも、なあ・・その少年のことを考えると複雑や・・。ほんま、恋愛って難しいなあ・・。」
「いや、桜井とリコちゃんが付き合うなんてことはないですって〜。だってそいつ・・。」
「俺な、見てしもうてん。」
「へ?何をですか?」
「指輪。」
「は?」
「今日職場に来たらな、フロントのところでリコちゃんが床に這いつくばって必死に何かを探しててん。大切なものを落としてしもうたゆうてな。半泣きやってん。」
「はあ。」
「せやから一緒に探したってんけど、それがな、宝石のついた高そうな指輪で・・。」









僕の太陽36







最近、前にも増してリコの様子がおかしい。


司は隣を歩く姉の姿をちらりと見ながら思った。
司がリコに想いを告げてから、しばらくリコの様子はおかしかった。
挙動不審というのだろうか。司が側に寄るだけでそわそわとせわしない様子をみせていた。
それはそうだろうと司は思う。
リコは途方もないお人よしだから、自分に好意を寄せている弟のことをリコなりに気にしてくれていたのだろう。
想いを告げた以上元のような姉弟の関係に戻れるとは思っていない。
司自身は後悔などしていなかった。
姉と弟では嫌だった。
男として見てもらいたかった。
だから後悔などしない。後悔だけは、していない。
しかしそれが、リコを戸惑わせる結果となっていることだけには罪悪感を抱いていた。


「・・姉さん。」
「うん。なあに?」
「何か・・あったのか?」
だから駅からの帰り道にこう尋ねたのも、純粋な心配と罪悪感からだった。
「えっなっ、何が・・?」
リコはびっくりしたように目を見開いた。そうして横を歩く弟を見上げる。
司は言葉を続けた。
「最近、いつにもまして鈍臭いだろ。」
「・・。」
途端にリコが傷ついたような表情を浮かべた。その顔に司はしまったと思う。
どうにも自分は「優しい言葉」というものがかけられない。
そうしてそれがリコに対する子供っぽい虚栄心だということもわかっていた。
誰よりも心配なのは本当のことだというのに。
「・・そんなに・・鈍くさいかな・・。」
「何を今更。」
「・・・。」
ぽろりと零れ出た言葉にリコは更に眉を下げる。
しまったと再び思った。しかし慰めるための言葉なんて出てこない。
リコは顔を俯けて小さく息を吐いた。
「そう・・だよね。今日も赤谷さんに迷惑かけちゃったし・・。」

そのときだった。
ふいに冷たいものがふたりの上に降り注いできたのは。

「・・雨だ。」
司は頭上を仰いだ。
真っ暗な空から、街頭の光に照らされた光の粒が落ちてくる。
「天気予報は外れたな。」
「本当だねえ。」
リコはのんきそうにしていたが、このまま雨に濡れさせるのは忍びなかった。
さてどうしようと思案していると、ふいにリコが慌てたように司に顔を向けてきた。
「あ・・つ、司くんが濡れたら大変・・っ!受験前の大事な時期なのに・・。」
「いや、別に俺は・・。それより・・。」
受験は9月だ。まだ随分と間が或る。
そんなことよりもリコの身体の方が心配だったが、司にはその言葉を口にすることは出来なかった。
勿論そんなことに気づかないリコは慌てたように自分の鞄を探り始める。
「ま、まってね、もしかしたらもしかしたら折りたたみ傘があるかも・・!」
「・・。」
司は立ち止まったリコを見下ろした。雨足は強くなってくる。
5月の今、司は薄手のジャケットしか羽織っていなかった。
・・まあ、ないよりましか。
ジャケットを脱ぎ、それをリコに渡そうとしたところでふいにリコが素っ頓狂な声をあげた。
「あっっ!また!!」
「!・・何?」
リコはそれには答えずに地面に屈みこんだ。
そうして顔を地面にくっつけるようにしてきょろきょろと首を動かし始めた。
「姉さん?何か落としたのか?」
司も屈みこむ。そうするとリコは慌てたように目の前の弟を見上げた。
困ったようなその表情の中で大きな瞳がかすかに揺らいでいる。
「え、あ、えっと・・な、なんでもないの。」
「なんでもないって態度じゃないだろ。」
「・・ほ、本当にいいの!」
リコは珍しくきっぱりと言い切ると立ち上がった。
そうして何かを気にするようにちらりと後方を見やる。
しかしそれも一瞬のことだった。
司の腕を取り、縋るような瞳を向ける。
「か、帰ろう、司くん。ね?」
「・・・。」
司はかすかに眉をひそめたが、黙ったまま頷いた。



リコはそろそろと出かける準備をしていた。
隣の部屋で寝ている司を起こさないように洋服に着替え、ゆっくりと立ち上がる。
安普請のアパートの壁は薄い。
ほんの少しの音でも起こしてしまうだろうことはわかっていたから、細心の注意が必要だった。
時計を見るとデジタルの数字は午前5時を示している。
カーテンから覗く空は暗く、そうして昨夜からの雨も降り続いているようだった。
(真っ暗・・。これじゃああんな小さなもの見つからないよ。懐中電灯を持っていかなくちゃ・・。)
そろそろと戸棚に近づいて探すが、しかしそれは見つからなかった。
(あれ・・おかしいな・・いつもなら、ここに・・。)
焦りながら戸棚に腕と頭を突っ込んで探していると、背後からふいに声をかけられた。
「姉さん。」
「え?あ、きゃあ!」
慌てて身を起こそうとしたリコは頭にひどい痛みを感じて悲鳴をあげた。
がつんと鈍い音がして目の前を星が舞う。
棚というものは案外硬い。
なんとかして戸棚から頭を出したが、あまりの痛みに頭がくらくらとしていた。
「・・何をやってるんだか・・。」
顔を上げると声の主が屈みこんでくるのが目に入った。
「あ、司くんごめんね・・起こしちゃった・・?」
くらくらと揺れる頭をなんとかしようと振っていると、大きな手が打ったばかりの頭に触れてきた。
「・・鈍臭すぎ。」
言葉とはうらはらな優しげなその動作に、知らず心臓が音を立てる
「・・凄い音だったな。」
「う、うん・・。」
心臓の音が五月蝿かった。近くに居る司に聞こえるのではないかと不安になるほどだ。
しかし司の手はすぐに離れた。
それにほっとしながら瞳を挙げる。
すると司は、胸ポケットから出したものをリコの手に握らせてきた。
髪越しでないその手は、ひどく冷たい。
「これだろ。・・帰りに落としたの。」
「あ・・。」
リコは手の中のもの認めて瞳を見開いた。
硬質なそれは、室内灯を反射して鈍く輝いている。
「さ、探してきてくれたの・・?」
「眠れなかったから散歩に行っただけ。そうしたら、偶然な。」
司はさらりと答えたが、外が雨であることはリコだって知っていた。
よく見れば、司の髪も服も水滴を含んでじっとりと濡れている。
リコは言葉を失った。手の中のものを握り締める。
まじまじと司を見て、そうしてぽつんとつぶやいた。
「・・司くん・・懐中電灯、ポケットから出てるよ・・。」
「・・・。」
その言葉に司は顔をしかめた。
ほんの少しばかり怒ったような表情で懐中電灯を取り出し戸棚の定位置に収める。
そうして何事もなかったかのような口調で続けた。
「それより頭冷やした方がいいんじゃないか。これ以上鈍くさくなったら困るだろ。」
「・・・。」
司は立ち上がった。
その拍子に髪についていた水滴がぱらぱらと落ちる。
その水滴のひとつがリコの手の中に落ちてきた。
銀色の指輪はそれを受けとめる。
それはまるで、宝石がひとつ増えたようにも見えた。
「・・それ。」
司はそのまま自分の部屋に行こうとしていたが、リコに背を向けたままぽつりとつぶやいた。
「もしかして婚約指輪?・・ただの指輪じゃ・・ないよな。」
「・・・。」
リコはぎくりとして司の背中を見やった。司は振り向かない。
リコの沈黙を肯定と受け取ったのだろう。
濡れた背中を見せたまま、司は淡々と続けた。
「・・大事にしろよな。いくら桜井さんって人が優しくても、婚約指輪を失くすのはさすがに許してくれないかもしれない。」
「あ、あのね、こ、これは確かに婚約指輪なの・・。で、でもね・・。」
「でも?」
「・・・。」
リコははっとしたように言葉を飲み込んだ。
駄目だ。これ以上は言えない。
今は、まだ。


「姉さん。」
その沈黙を破ったのはやはり司だった。
リコを呼び、そうして今度は振り向いた。
振り向いたその顔は驚くほどに穏やかなものだった。
「・・俺のことは気にするなって言ったろ。」
「・・う、うん・・。」
「今度、桜井さんを紹介しろよな。・・俺たちはたったふたりの姉弟なんだから。」
「・・うん。そう・・だね。」


リコは頷きながら自分の手の中のものを握り締めた。
姉弟。
そう。それは自分が望んでいたものだった。
子供の頃から欲しかった弟。そうして・・家族。
それなのに。

リコは俯く。


嬉しいはずの司の言葉が、今は胸を貫く氷のように思えた。









・・・・・・・・・・





水滴の指輪








「僕の太陽:37」に続く





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