「僕の太陽:35」<決意> |
自分は何をするにも遅いのだ。 足も遅いし頭の回転だって遅い。 動作も遅いし喋りかただって早いほうじゃない。 だから自分の感情に気づくのだって、凄く、凄く遅いのだ。 初恋の時だってそうだった。 優しい人に恋をした。 それはとても嬉しくて暖かくて、その人のことを考えるだけで心がぽかぽかしてくるような恋だった。 でも、自分が行動に移したのはそれから5年も経ってからのこと。 勇気が出なかったのがひとつの理由。 そして「このままでもいい」と思っていたのもひとつの理由。 その片想いは心地よかった。見ているだけでもいいと思っていた。 だけど5年目にしてようやく気づいたのは、それとはわずかに違う感情だった。 5年もの間考えて、悩んで出した結論だった。 だけども全ては遅くて。遅すぎて。 ・・そうして、失恋。 自分は何をするにも遅いのだ。 だから、今の、自分の感情に気づくのだって・・きっと、遅かったのだ。
僕の太陽35
その日リコの仕事は休みだった。 最近では新しい友人ができたらしく、楽しそうに出かけることも多くなっていた。 「桜井正美さんっていうの。それでね、今日の夜は桜井さんと食事に行きたいんだけど・・。」 リコは朝食の席でそう言っていた。 「桜井さんはね、小町さんに紹介してもらったの。」 リコは嬉しそうに笑う。 「穏やかでね、とてもいい人なの。今度司くんにも紹介するね。」 司が家に帰ってみても、やはりリコは居なかった。 帰り道に見かけたのはリコだったように思う。 出かけるといっていたから、行く途中だったのかもしれない。珍しく綺麗に着飾っていた。 その姿に自分の反応が一瞬だけ遅れた。 何故だかはわからないが自分を見て、逃げるように去っていった姉。 今にも泣き出しそうだった表情に、じりじりと胸がざわめいていた。 結局リコが帰ってきたのは9時過ぎだった。 帰り道にみかけたときの格好に、やはりあれはリコだったのだと思う。 リコは帰ってきてからもぼうっとした表情でテーブルの前に座り込んでいた。 「おかえり。」 声をかけるとリコはびっくりしたように司を見て、そうして慌てたように腰を浮かした。 「え、あ、た、ただいま・・!そうか、ご、ごめんね司くん、ご飯、今から作るから・・。」 「もう作って食べたからいい。」 「・・司くん、自分で作ったの?」 「ああ。」 「・・火は・・?」 「大丈夫。もう、かなり平気なんだ。」 「そう・・。」 リコはほうっと息を吐いた。そのまま座布団の上に座り込む。 そうしてぽつんとつぶやいた。 「・・司くんは凄いね・・。」 「・・?何が。」 「ううん。」 リコは首を振る。珍しくほどいたままの柔らかな髪がゆるゆると揺れた。 司は黙ってリコをみつめる。 「・・なあ、今日は桜井さんと食事に行くっていってたよな。」 昼間の神崎の言葉が蘇る。 司は迷った末に口を開いた。 「・・もしかして・・桜井さんって、男なのか?」 リコはきょとんとしたように司を見上げた。そうしてあっさりと答える。 「うん。そうだよ。」 「・・・。」 司は片手でこめかみを押さえた。 桜井、正美。 ・・くそ。紛らわしい名前をしやがって。 「・・あのね、司くん。」 司は慌ててリコを見下ろした。表情にその感情は出さないようにゆっくりと答える。 「ああ。何。」 リコは座り込んだ姿勢のまま、顔だけを司に向けている。 その瞳は真剣そのものだった。 「司くんはわたしのことは気にしないで自分のことだけ考えてね。」 「急に何・・。」 「わたし、しっかりするから。頑張って大人になるから。だから大丈夫だからね。」 テーブルの上に置かれた手はその決意を表すかのように拳型に握られている。 もっとも何の決意なのかはわからなかったが。 だいたい「大人になる」とはどういうことだ。司は思った。 これ以上「大人」になってどうするというんだ。 ・・こっちは必死に追いつこうともがいているというのに。 「大丈夫だからね。」 リコは同じことを繰り返した。 「・・そう。」 司はだから、静かに頷いてみせた。 いま口を開いてしまうと、実に子供じみた言葉が出てくるような気がしたからだ。 想っているだけで良いと決めたのは自分だ。 だから、これ以上は何も言えなかった。 リコは次の日、桜井正美に電話をかけた。 そうして先日の答えを告げた。 「あのお話、お受けします。」 「・・いいんですか?」 桜井の声は驚愕の色を濃く表していた。 「はい。わたしでお役に立てるなら。」 「・・・。リコさん。」 「はい。」 「・・ありがとうございます・・。」 それは受話器の向こうで深々と頭を下げているような声音だった。 リコは慌てて首を振る。 「そ、そんな・・わたしこそ、お父様にうまく挨拶できるかどうか・・。」 携帯電話を握り締めたまま、リコは自分の居る部屋をぐるりと眺めた。 司は学校に出かけている。がらんとした部屋はひどく寂しく感じられた。 ・・だけど・・。 リコは思った。 それでもこれは「遅かった」自分が、受け入れなければならないことなのだろう。 ・・だったら少しでも司くんが安心できるような「わたし」にならなきゃ。 受話器から流れる優しい声を聞きながら、リコは強く強く、そう思った。 ・・・・・・・・・・
決意
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