「僕の太陽:31」

<変化>






司は弟だ。弟だと、思っていた。
父親がそう言った。司の両親だってそう言ってくれた。
それは与えられたリコの居場所だった。
司の姉。
暖かで優しい、居場所だった。





僕の太陽31






司は開いていた参考書から瞳をあげた。
長い間、街灯の光で文字を追っていたためだろう。かすかな疲労を感じた。
目頭を押さえながら息を吐く。そうして腕時計に視線を移した。
深夜0時。
リコは大抵この時間か、次の最終電車で帰ってくる。
今日は最終だろうか。そう思いながら改札口を眺めやる。
しかしそこに見慣れた姿が立ち竦んでいるのを認め、司はわずかに瞠目した。

「姉さん。」

司は腰掛けていたガードレールから立ち上がった。
古い型のダッフルコートに「着られている」、小さな姉の姿。
しかし姉は、改札口の前で立ち止まったまま何故だかぼうっとしているようだった。
どこか呆けたような表情で司を見つめている。

「・・姉さん?」

司は眉をひそめた。嫌な予感が胸を過ぎる。
昼間に赤谷からメールがあった為、リコが職場で倒れたことは知っていた。
その後は元気そうだということだったが、もしかして気分でも悪くなったのだろうか。
参考書をジャケットのポケットに押し込み、リコの元に歩み寄る。
司が目の前に来ても、リコはやはりぼうっとした表情を浮かべていた。
「・・気分が悪いのか?」
問いかけにもリコは答えない。司はさらに眉をひそめた。


いつものリコだったら、駅の前で待つ司の姿を見た瞬間に心の底から嬉しそうな笑顔を浮かべる。
そうして犬の仔のようにぼてぼてと駆けて来るのだ。
待たせてごめんね。寒くなかった?ごめんね。ありがとうね。
そうして司を見上げて、ふんにゃりと笑う。
嬉しそうに。
幸せそうに。
もししっぽがあったなら、ちぎれんばかりにそれを振っているに違いなかった。


しかし今日のリコは違った。
自分を見ているようだが何故だか視線は合わない。
ふらふらと彷徨う瞳はひどく不安定で、それにいっそう不安が募った。
だから司は、わずかに腰を屈めてリコの顔を覗き込んだ。
「姉さん?」
するとそこではじめてリコがびくりと身体を震わせた。
おそらく無意識なのだろう。司から離れようと一歩後ずさる。
そうして司を見て、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
「・・・。」
司は伸ばしかけた手を握りこんだ。
あの夜のことを、リコの唇を無理やり奪った日のことを忘れたわけではなかった。
あの時の自分が、リコに与えたのが恐怖だけだということも理解している。
自分に触れられることはあのときの恐怖を思い出すことに繋がるのかもしれなかった。
・・自業、自得だ。

「・・悪い。」
リコはその言葉を聞いて目を見開いた。泣き出しそうな表情のまま首を横に振る。
そうして口を開こうとしたが、すぐに諦めた様にその顔を俯かせた。
しんとした静寂があたりを包む。
リコは何も言わずに、俯いたままだった。


こんなことは初めてだ。司は思った。
リコは人に気を使う。
いつものリコなら、どんなに疲れていても何かと口を開いて、人一倍明るく振舞うはずだった。


迷った末に、司は口を開いた。
「赤谷さんから連絡があった。店で倒れたんだろう。大丈夫なのか。」
一定の距離を離したまま姉の顔を見る。
しかし身長の関係上、自分の位置から見えるのは姉の頭と耳ばかりだった。
ふんわりとした髪の間から覗く耳はひどく赤くも見えた。
「・・熱があるんじゃないのか。タクシーを呼ぼうか。」
「・・・。」
リコはやはり黙ったまま首を横に振る。
「・・なら、いいけど・・。」
司は小さく安堵混じりの息を吐いた。
そうして突っ立ったまま動こうとしないリコを見る。
姉の様子がおかしいのは分かるが、それが何故なのかはさっぱり理解できなかった。
「・・歩けるなら、帰ろう。」
仕方なくそう促すと、リコは救われたように頷いた。



しかしその帰り道。

結局リコは一言も喋ろうとはせず、司と目を合わせることさえもしなかった。








・・・・・・・・・・





変化








「僕の太陽:32」に続く





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