「僕の太陽:30」

<男として>





「ごめんな。」
頭を下げたままの少年に向かって男は続けた。

「…俺はリコちゃんとはつきあわれへん。」


コップの中にあるサイダーが日差しに反射し、地面に綺麗な文様を生み出している。
こんな時だというのにそれはひどく綺麗で、同時に羨ましくも思えた。


「俺はリコちゃんのこと、好きやで。リコちゃんはええ子やし、可愛いもんな。
けどそれとこれとは話が別やねん。俺には…惚れた女がおるから、司くんの頼みは聞けへんのや。」
男は照れくさそうに頭をかく。
そうして頭を上げようとしない少年に向かって苦笑を浮かべた。

「司くんはリコちゃんのことが好きなんやな。」
「俺は…。」
「せやから俺にそないなことを頼みにきたんやな。」
「……。」
「自分、格好悪いなあ。」
「…………。」
司は唇を噛んだ。
そんなこと分かっている。格好が悪い。悪すぎる。
だが、自分にどうしろというのだろう。
リコのために出来ることなどわからなかった。

「格好悪いわ。」
悔しくて思わず伏せていた瞳をあげる。
すると男の琥珀色の瞳がやんわりと自分を見おろしているのが目に入ってきた。
言葉の内容は辛辣であるのに、何故か馬鹿にするような気配は感じられなかった。

「リコちゃんに幸せになって欲しい思てるから俺なんかに頭まで下げとる。
そこまで思とるならなんでも出来るんちゃう?」

どこか懐かしいような、深い声で男は言う。

「相手を幸せにするために今の司くんができることは、たっくさんあると思う。多分、な。」




僕の太陽30








「あ、気がついた?」
リコはぱちぱちと瞬いた。
「・・小町さん・・?あれ、わたし・・。」
ぼんやりとつぶやくと目の前の先輩は安堵したように溜息をついた。
「リコちゃんフロアで倒れたのよ。赤谷さんがうまくキャッチしたから頭とかは打ってないと思うけど・・。
気分はどう?吐き気とかは?」
「え・・?」
リコはきょとんとした。
倒れた。わたしが?
「だ、大丈夫です・・!あ、あの、今何時ですか・開店は・・。」
「いいから寝てなさい。」
慌てて起き上がろうとすると小町にぴしゃりと叱られた。
いつものんびりしている女性が怒っている。リコはさらに慌てた。
「あ、あの、でも・・わたし御迷惑を・・。」
リコが寝かされていたのはスタッフルームのソファーだった。
その横にやってきた小町はリコの上の乱れた仮眠用の毛布を掛けなおす。
そうして真剣な顔でリコを覗き込んだ。
「倒れたのに、心当たりはあるの?」
「い、いえ・・あ、あの、ここのところ少し眠れなかったからだと。思うんですけど・・。」
「他には?」
「おなかが少し痛くて・・あ、でも、わたし、生理痛がひどいから、それで・・。」
「・・自己管理はちゃんとしとかなきゃ駄目じゃない。」
小町は眉をひそめた。
「仕事に影響が出るでしょう?」
「はい・・すみません・・。」
リコは頷いた。小町の言うことはもっともだった。
社会人として働かせて頂いている以上、体調の自己管理も自分の責任だというのに。
「リコちゃん22歳だっけ?年に一回は産婦人科で検診ぐらい受けといたほうがいいよ。
生理痛だって馬鹿にできないんだから。」
「は、はい。」
「わかったらちゃんと行きなね。リコちゃんはちょっと自分のことを疎かにしがちなんだから。」
小町の真剣な表情は実のところ珍しいものだった。
いつもはのんきでぽやぽやしている先輩だが、今日はやけに言葉が刺々しく感じられる。
リコは身を縮めた。それはそうだろうと納得する。
職務中に倒れるなんて、社会人失格だ。


「小町ちゃんそろそろ交代するでー?リコちゃんの様子はどうや・・って、ああ、リコちゃん目が覚めたんやな!」
そのとき。硬い空気を蹴散らすように入ってきたのは赤谷だった。
小町はそれを見ると立ち上がる。
「んじゃ、赤谷さん。あとはお願いします。」
「おお、ご苦労さん。」
赤谷は小町の代わりに来たようだった。
となると今まで小町がずっとついていてくれたのだろう。さらに申し訳ない気持ちが募った。
「じゃね。」
小町は手早くエプロンをつけると、リコが礼を言う暇もなく出て行った。
赤谷はそれを見送り、そうしてリコの顔を見てその表情を曇らせた。
「リコちゃん大丈夫なん?顔が暗いで。」
「もう大丈夫です。ごめんなさい・・御迷惑をおかけして・・。」
「別にええよ。けどみんな心配してんで。なかでも小町ちゃんが凄く心配しとった。
あんなに慌てた小町ちゃんは初めてみたわ。感謝せんとあかんよ。」
「・・・。」
「ここでの女の子は小町ちゃんとリコちゃんだけやもんな。
もっと気い付けとけば良かったゆうてしょんぼりしてたで。」
「・・小町さん・・。」
リコは瞬いた。
胸の中がじんわりと暖かくなってくる。
本当に、自分が出会う人たちは皆良い人たちばかりだ。
「けど、本当に大丈夫なん?」
赤谷はさらに顔を曇らせた。
「顔色、真っ青やってんで。」
「だ、大丈夫です。多分、寝不足なだけですから。」
それは本当のことだった。
考えることは沢山あるのに何一つわからない。
けれどもそれを考えなければならない気がして結局寝付けない日が多かった。
「具合でも悪いん?」
「い、いえ!そうではないんです。ただ・・なんだかいろいろなことが分からなくて・・。」
赤谷は瞬いた。
「いろいろなこと?」
「・・ええと・・。」
「?」
「・・男の子はどうして変わっちゃうんだろう、とか・・。」
そういうと赤谷は一瞬だけきょとんとしたが、すぐに明るい笑みを浮かべた。
「ああ、司くんのことか。」
リコは頷く。しかし何をどう言えばいいのかわからなかった。
平たく言うなら、自分が勝手に悩んでいるだけだ。それだけなのだから。
本当なら喜ばしい、弟の成長。
リコは鈍い。
それでも司が変わった事には気づいていた。
それがあの日の、夜の出来事以来だと言う事も。


「なんだか急に・・大人になっちゃったみたいで・・。」
「ああ、うん。せやね。」
赤谷は頷いた。そうしてにやりとした笑みを浮かべてみせる。
「なんや、リコちゃん寂しいんか?」
「え、ええ・・?」
リコはぱちぱちと瞬いた。
寂しいという言葉を反芻する。そうなのかな。
「そう・・なのかもしれません。でも・・。」

司は小さな頃から大人っぽい子供だったように思う。
ほんの幼い頃より頭が良かったし、機転も利いた。
外見の愛らしさも伴って近所でも評判の神童だった。
あの火事のあとからは、いっそうその「大人っぽさ」に磨きがかかってきたようにも思う。
両親を一度に亡くすという経験は、リコには想像出来ないくらい悲惨なものに違いなかった。
他の子供は当たり前のように与えられている、両親の保護の下の安心して過ごせる時間。
それを一瞬にして全て奪われて、どれだけ辛かったことか。
ましてや司の保護者として名乗り出たのがこんなふにゃふにゃした自分だったのだから、尚更司は子供のベールを脱ぎ捨てなければならなかったのだろう。
それを思うとリコは自分が情けなくなる。
自分がもっとしっかりしていれば、司はもっと子供らしく自由に、青春を過ごせたはずなのに。
リコは司のことが好きだった。
司は優しい子で、リコの自慢の弟なのだ。子供の頃から、ずっと。
だから司が司らしく過ごせるためなら、なんだってしてあげたかった。
それなのに。
「・・わたしが不甲斐ないから・・司くんは急いで大人になるしかないのかもしれなくて・・。」

消防官になる。
司はそう言った。
だから試験を受けさせて欲しい。
そう言った。

そんなことは当たり前だ。
リコは不思議でならなかった。
どうして、そんなことをいちいち承諾しなくちゃいけないんだろう。
司はリコの家族だ。たったひとりの、弟だ。だからもっと甘えたっていい。当たり前だと思って欲しい。

「わたしにまかせて、ね?」
火事のあと。白い壁に囲まれた病室でリコは司に向かってそう言った。
なんの根拠もなかったけど、司の為にならなんだってできる。そう思った。
守りたいものがあったからそう思えたのだ。司が居たからこそ此処までやってこれた。
リコはそう思っている。

だから。
・・なのに。

どうしてそんなに遠慮をするんだろう。
不甲斐ないかもしれないけど、家族なのに。
家族でいたいのに。
・・一緒に、いたいのに。


高校を卒業したら家を出る。

司は言った。
ひどく、ひどく静かな瞳で。

「姉さんの嫌がることはもうしない。だから・・もう少しだけ、一緒にいさせて欲しいんだ。」



「・・なあ、リコちゃんは。」
そのとき赤谷がふいにぽつりとつぶやいた。
笑みを消し、ひどく真面目な表情でリコを見る。
「司くんのことどう思てるん?」
「え・・。」
リコはぼんやりと瞬いた。
どうって、そんなこと今更言うまでもなく当たり前だった。
大切な、大切な・・。
「自慢の弟です。子供の頃から凄く優しくて・・。」
「いや、そうやなくて。」
赤谷は静かに首を振る。
「司くんは男やで。リコちゃんと血の繋がりのない、ひとりの男や。」
ぶうんと暖房の音が室内に響く。静かな部屋に満ちる静かな音とやわらかな低い声。
静かな空間の中、しかし赤谷は現実をつきつけた。

「男として、どう思っとるん?」





・・・・・・・・・・





男として








「僕の太陽:31」に続く





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