「僕の太陽:28」

<静かな刻>






「あんなあ・・俺は『大人』なんかやないで。」

男は苦笑を浮かべた。
そうして整えられた庭を見ながら目を細める。
居間からは薄く、線香の香りが漂っていた。
それは冬の空気にほどけてゆるやかに消えてゆく。

横に居る少年が怪訝そうな表情を浮かべた。
「そんなことは・・。」


男は笑った。

「というか、弟くんの思てるような『大人』はこの世の中にはおらんと思うで。
おるのは必死に『大人』のふりしてる『子供』か『大人』になりそこなった『子供』。」

そうして琥珀色の瞳を空に向けた。


「それだけや。」






僕の太陽28






帰り道は国道沿いになる。

時折トラックやタクシーの通る道。
ぱらぱらと灯る街灯と信号機の灯りがやけに滲んで光っていた。

その中を、弟は黙ってリコの前を歩いていた。
そうしてその背中を見ながら、リコはぐるぐると思い悩んでいた。
いつもなら司と居るのは単純に嬉しい。
だけども今は違った。
ひどく居た堪れないなくてどうしたら良いのかわからない。
何か喋らなきゃ。
そう思うが気の利いた台詞など思い浮かぶはずもなかった。
「つ、司くん。」
「・・なに。」
名前を呼ぶと司はゆっくりと振り向いた。
声が震えたりしませんように。
そう祈りながらなんとか言葉を絞り出す。
「あ、あの、迎えにきてくれてありがとう、ね・・。」
「・・別に気にするようなことじゃない。」
司はリコを見る。そうしてどこかぎこちなく言葉を紡いだ。
「・・危ないだろ。」
「そんな・・だ、大丈夫だよ。」
「いいんだ。ちょうど気分転換もしたかったし。」
リコはびっくりした。
「・・へ・・。」
それは思いもよらない優しい言葉だった。
いつもの司からは考えられない言葉。
ぽかんと司の顔を見あげると、弟は困ったように視線を逸らした。
そうしてそのまま歩き出す。
リコも慌ててその後を追った。


「司くん。」
「うん。」
「き、傷の方はもう大丈夫なの?」
「・・ああ。」
「痛くない?」
「・・ああ。」
「そう。良かった・・。今日は学校に行ったの?」
「・・いや。」
「そ、そっか・・。うん。昨日の今日だもんね。」
「・・姉さんは怪我は?」
「う、うん。ないよ。大丈夫。」
「そうか・・。」
「うん。」



今日の司はゆっくりと歩く。
そうしてリコの言葉に素直に答えてくれた。
相変わらず、ぶっきらぼうな口調ではあったけれど。
それでもそれが嬉しく、そうしてこそばゆかった。
こんなこと、どのくらいぶりだろう。
お姉ちゃん。
そう呼んでくれていたころに戻ったようだった。


しばらくして司がつぶやいた。
「姉さん。」
リコはなんだか嬉しかった。
こんな風に話せること。心地よい空気が、たまらなく嬉しい。
だからほこほこした気持ちのまま頷いた。
「うん。」
知らず声が弾んでくる。
「どうしたの?司くん。」
すると司はその足をひたりと止めた。

冷たい風が吹く。司のむき出しの髪を揺らしては吹き抜けていく。
背中越しに吐く息が白くたなびくのがうっすらと見えた。

「昨日は。」
「うん。」
司は一瞬だけ言葉を止めた。
息を止めたのかもしれない。
しかしすぐに擦れた声で、こう続けた。

「昨日は、ごめん。」



「・・え。」
リコは瞬いた。
ああ、そうか。
リコはあわてて首を振った。
「そんな、いいの。男の子なんだもの。ああいう殴り合いの喧嘩しちゃうときもあると思うし。
でもやっぱり暴力は駄目だよ・・?赤谷さんがこなかったら、どうなっていたか・・。」
「・・それもだけど。」
司は苦笑を浮かべたようだった。
半身だけ振り向いてリコを見る。そうして指で自分の首を指し示してみせた。
「首?・・・あ。」

リコは思わず息を飲んだ。
そうだ。そうだった。
昔に戻れたみたいな時間が嬉しくて忘れていたけれど。
リコは思わず首筋に手をやった。
途端に心臓が跳ね上がる。
楽しかった気持ち。嬉しい気持ちが急速にしぼんでいくのがわかった。

昨日のこと。
それはまだリコの中で整理できていない事柄だった。

嫌だと思った。何故嫌なのかはわからない。
駄目だと思った。何故駄目なのかはわからない。
落ち着かないし所在無い。
そう思う理由もわからない。

わからない。
わからないけど・・。



リコは司から目を逸らす。
そうして黒々としたアスファルトに視線を落とした。
唇を噛み締める。
そうだ。自分が考えなければならないのは「そのこと」だった。

どうして司があんなことをしたのか。
そして。
そして・・?

しばらくそうしていると、司の声が先ほどと同じ位置から聞こえてきた。
それはひどく静かな男の人の声だった。
「・・乱暴なことをして、ごめん。」
いつものように苛立ちを含んだものではない。
それはまるで司の・・「弟」の声ではないようだった。

「あんなこともうしない。だから、あと少しだけ我慢してくれないかな。」



リコは思わずその顔をあげた。
あげた瞬間、弟の瞳と自分のそれが合わさった。
風のない湖のように揺らぎのない瞳。
驚くほど静かな瞳が、リコをひたとみつめていた。


「高校を卒業したら家を出る。・・少し、考えていることがあるんだ。」


リコは呆然とした。
これは本当に「司くん」なんだろうか。
これは本当に・・あの「弟」、なのだろうか。
司の声は耳から入ってくる。
しかし言葉の内容はやはり理解できなかった。
ただ、ひどく心細い気分になった。
すべてが宙ぶらりんになったような、不安定な気持ち。

「姉さんの嫌がることはもうしない。だから・・もう少しだけ、一緒にいさせて欲しいんだ。」

淡々と司は言う。
そうして続けた。

「・・ごめん。」



それは司の中ではすべて決着のついたことなのかもしれなかった
呆然とするリコを見つめたまま、しばらくその口を閉ざした。
司がリコの返事を待っているのはわかっていた。
けれどもリコは何も答えることができなかった。

しんしんした刻が過ぎていく。
静かな、静かな刻が。


どのくらい経ったのだろう。
司が軽くその首を傾けた。
そうしてかすかに柔らかな声でつぶやく。

「・・冷えてきた。帰ろう。」






リコはぎくしゃくと頷いた。

そんなことしか、出来なかった。





・・・・・・・・・・





静かな刻








「僕の太陽:29」に続く





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