「僕の太陽:27」<子供の自覚> |
司がこの、古びた家に来たのは実は二度目になる。 一度目は三年前。 姉に連れられて正月の挨拶に来たときだった。 お世話になっている人のところにきちんとご挨拶をしておこうね。 そう言って姉は退院したばかりの司をこの家に連れてきた。 「司くん、この服変じゃないかなあ。」 「大丈夫だと思うよ。」 「本当に?うう・・髪型とか乱れてないかなあ?」 インターフォンを押す直前まで、姉はそわそわと上着の襟をいじってみたり前髪を整えたりせわしなかった。 傍から見ていて気の毒になるくらい緊張した面持ちの姉の横で、司はそのときはじめて赤谷という男に会ったのだ。 姉の恩人という男。 どんなおじさんかと思っていたが、その男は想像以上に若く、そうして想像以上に軽薄に見えた。茶色の髪にへらへらした笑顔。 当時の司はその茶色の頭が生まれつきのものだとは知らなかったから、余計に軽薄そうな印象が拭えなかった。 それ以来まともに顔を合わすことはなかったような気がする。 いや、違う。 姉と一緒の時に一度だけこの男に会った。 その時の姉の表情を司はよく覚えている。 思えばあのときには既に、リコはこの男に恋をしていたのだ。
子供の自覚
縁側に入るとそこは狭い庭になっていた。 しかしきちんと庭木は整えられており、どこか居心地の良い空間に作られていた。 薦められるがままに縁側に座る。 随分古びた日本家屋だが、それでも縁側から覗く居間は綺麗に掃除されているようだった。 そうして開け放された襖のその奥には小さな仏壇がひとつあるのが見えた。 その前には写真が並んでいる。そうしてそのひとつには自分と同じ年頃にみえる茶色の髪の少女の姿が映っていた。 「・・・。」 「おーい、弟くん、柿の種食べる?」 のんきそうな声と共に、奥から茶色の頭がひょいとあらわれる。 「サイダーには柿の種やで。そう思わへん?」 「い、いえ・・おかまいなく。」 司は困惑しながらあわてて立ち上がった。 赤谷はにこにこと笑いながら縁側にやってくると手にしたサイダーを司に渡し、袋菓子の封を開ける。 ばりりと小気味の良い音がして、その拍子に三日月型のかけらがひと粒落ちた。 「あっ。」 「・・・。」 「・・五秒ルールで全然セーフ。」 赤谷は畳の上に落ちた菓子を素早く拾うとひょいと袋の中に入れる。そうして子供のように明るく笑った。 「弟君は知っとる?五秒ルール。俺は腹が丈夫やねんから全然いけるんやけどな。 あ、そういえばまだ寒いっちゅうのにサイダーはあかんかな。お茶のほうがええかな。」 司はにこにことつぶやいている男の姿を眺めやった。 いかにものんきそうな表情で気負いというものが全くない。 しかしこれが男のいつものようすなのだろう。 自然体。それがこの男には良く似合っている。そう思えた。 「・・・。」 「ねえ司くん、わたし決めたの。」 ほんの数日前。 リコが緊張した面持ちで司にこう言った。 「あ、あのね、あ、赤谷さんにね・・。」 その手の中には綺麗にラッピングされている箱があった。 「告白しようと思うの。駄目だとは思うけど、これが最後のチャンスだと思うから・・。」 「そう。」 司はつい先ほど手渡された箱に目を落とした。同じようにラッピングされた小さな箱。 その中には、リコが1日かけて手作りしたチョコレートケーキが入っている。 本命と義理。傍目からはその差異はほとんどわからなかった。 「・・姉さんは。」 「うん?」 「姉さんは、そいつの何処がいいんだ?」 リコは瞬いた。一瞬を置いてその頬が赤く染まっていく。 「え、ええとね・・ううん、何処が、というとね・・。」 リコは困ったようにつぶやきながら、それでもふんわりと微笑んだ。 「いろいろあるんだけど・・やっぱり一番は・・人のことを思いやれる人、だからかなあ・・。」 そういうのって本当に凄いと思うの。司の目の前でリコは言う。 「誰だって自分が一番可愛いのに、それを良しとはしない人なの。 ・・うん。多分、すごくすごく「大人」なんだってわたしは思う。そういうところ、かなあ・・。」 「赤谷さん。」 司は立ち上がったまま年上の男の名前を呼んだ。 第一印象は最悪だった。 茶色の髪の、へらへらした若い男。 この男と話す時の姉が妙に嬉しそうなのも気に入らなかった。 二度目も、三度目もそうだった。 姉がこの男のことを話す回数は多かったが、その度に数かにいらだつものを抱えていたような気がする。 ・・しかし昨日。 「ん?どしたん、真面目な顔して。」 赤谷がきょとんと瞬く。縁側に座ったまま、立ち上がった少年をまじまじと見上げた。 司はその男に向かって頭を下げる。 こんなこと、少年にとっては始めてのことだった。 「お願いがあります。」 男からの返事はなかった。その表情は伺えない。 だけども司は頭を下げたまま言葉を続けた。 昨日一晩考えた。 情けない子供の自分と、それと正反対の大人達。 普段はふにゃふにゃしているくせに。へらへらしているくせに。 実のところは違う「大人達」。 認めなくなくて、目を逸らし続けていたことをまざまざと見せつけられて。 本当に、本当に。自分の情けなさでいっぱいになった。 「俺にこんなことを頼む権利はないことはわかっています。だけど・・。」 脳裏に浮かぶのはリコの顔だった。 自分をずっと、支えてきてくれていたひとりの女性。 「お願い、します。」 司はさらに深く頭を下げた。 リコの為になら自分はなんだってしよう。 そう思った。 リコの頭は器用にはできていなかった。 だから昨日のことを考えるとすぐに頭が沸騰しそうになった。 仕事をしているうちはまだ良かった。 リコは手先だって器用なほうではなかったから、仕事に没頭しないとすぐに失敗してしまう。 だから仕事のことだけを考えて、忙しく立ち回っているうちは昨日のことで頭を占拠されるということはなかった。 けれどもそれが終わって、制服から私服に着替える時に鏡を見たときに再び頭が沸騰しそうになった。 小町から借りたコンシーラーのおかげで誰にも気づかれることはなかったが、それでも近くで見るとその跡はうっすらと残っている。 それを見るとなんだか泣きそうになった。 悲しいとか悔しいとか、そのような感情ではない。 だけども胸が詰まった。 どうすればいいのかわからない。 知らない場所にぽつんと置いていかれたようなそんな心細い気持ちでいっぱいになる。 だからただ、途方に暮れた。 今日は赤谷は休みの日だったから、リコはひとりで帰路についた。 駅までの道を歩きながら、それでも考えるのは昨日の出来事だった。 司が怪我をしたことばかりに気を囚われていたけれど、よくよく考えてみれば大変なことが自分の身にも起きたような気がする。 はじめは喧嘩、だった。 多分あれは兄弟喧嘩だった。 だけどもその後。 司が自分を引き寄せて、そして・・。 「・・う、わあ・・。」 リコは両手で顔を覆った。心拍数が一気にあがる。 耳まで赤くなっているのが自分でもわかった。 多分、あれは、リコの勘違いでなければキスというやつだった。 男性と付き合ったことなど一度もない。 だからそんな経験など一度としてなかったから比較など出来ないが、おそらくあれは世間一般で言うキスという代物だったように思う。 熱くて、息をするのが苦しかった。 そうして・・怖かった。 司が司でないようで怖かった。 肉食動物の前の草食動物はあんな風になるのかもしれない。 身体がすくんで動けなかった。 そのくせ逃げなきゃという本能だけが働いて、ただただ怯えた。 「・・・。」 リコは大きく息をつく。 深呼吸を繰り返すが心臓の音はおさまらなかった。 怖かった。怖かったけれど、考えなければならないのはその前だ。 世間一般の兄弟はキスというものはしないに違いがない。 だからリコが考えなければならないのはきっとそこだった。 ・・司はどうして、ああいうことをしたのだろう。 悩みながら改札口を出る。 終電から降りる人の数は多い。 タクシー乗り場に殺到する人々の足は速く、考え事をしていたリコはあっというまにその波に飲まれてしまった。 よろよろと端に避けて人並みがおさまるのを待つ。ぼうっとしているのは自覚できたが、それでも頭がいっぱいで思考が働かなかった。 リコはふいに目の前に立つ人影にゆっくりと顔を上げた。 途端に心臓が跳ね上がる。 「・・つ、司くん・・。」 目の前には弟の姿があった。 ジャケットを羽織って、ポケットに手を突っ込んでいる。 顔にはやはり痛々しい傷が残っているが、それでもその立つ姿勢はいつものようにとても綺麗だった。 吐く息はいかにも寒そうに白い。 「ど、どうしたの、こんなところで・・。」 リコはぱくぱくと口を開いた。 なんとなく目線は合わせられなかった。知らず頬が熱くなる。 居た堪れない気持ちになって目線を下げた。 「どうしてって。」 俯いたリコからは司の表情は見えない。 だからリコは頭の上から司の答える声を聴いた。 「・・迎えにきたんだ。」
子供の自覚
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