「僕の太陽:26」

<首筋>





「・・・はっ!」
ちゅんちゅん。
雀のさえずる声に目を覚ましたリコは慌てて立ち上がった。
その拍子に肩から毛布が滑り落ちる。いつかもこんなことがあった。
泣き疲れて眠ってしまった自分に毛布を掛けてくれて・・。
「つ、司くん・・っ。」
ばたばたと司の部屋を覗くが、そこにすでに弟の姿は消え失せていた。

昨日の夜。 赤谷に連れて帰ってもらった時には、司は気を失っていた。
ベッドに寝かせて出来うる限りの手当てをする。すべてが終わった後に赤谷は言った。
「もしお腹とか痛むようやったら、明日にでも病院連れていったほうがええと思うよ。」
赤谷は手馴れているようだった。
まあ大丈夫やとは思うけど。そう言ってリコを安心させるように笑う。
一息ついたときには既に午前3時をすぎていた。
赤谷にも手当てをしようとしたが平気だと言って笑い、そうしてあっさり帰ってしまった。
もしかしたら赤谷にとってはこのようなことも、日常茶飯事のひとつだったのかもしれない。



「・・・あ。」
壁に掛けられている時計を見ると時刻は午前11時を過ぎてしまっていた。
学校へ行く時間はとうの昔に過ぎている。
よくよく見ると部屋には、学生服も鞄もなくなっていた。
学校に行ったのかな。あんなにひどい怪我だったのに。大丈夫かな。
休んだってよかったのに。どうしよう。メールで確認しようかな。
とはいえリコの出社時間も近づいている。
リコは大慌てで身支度を始めた。


このとき既にリコの頭の中には、弟の怪我の心配しかない状態だった。






首筋







西園寺小町は「LE PASSAGE(ル・パサージュ)」の裏口を開けた。
「おはよーございまーす。」
「おはようございます小町さん。」
「ん〜リコちゃん一人?」
「はい。」
フロントを掃除していたのは小町より5歳年下の従業員だった。
22歳という実年齢よりはるかに幼く見える顔はいつものように柔和な笑顔を浮かべている。
この娘は手を抜くということをしらない。
毎日始業時間の30分前に入っては全力で店を磨き上げている。
そのためだろう。汗で前髪が額にぺったりと張り付いていた。
「小町さん、二日酔いは大丈夫ですか?」
小町はああ、と眠そうな声を出しながらリコを見た。
「もう平気平気〜。リコちゃんは?」
「わたしも全然大丈夫です。」
「楽しかったね〜飲み会。ただ酒ほど楽しいものはないよね〜。」
小町は酒が三度の飯より好きだった。んふふ、と笑うと目の前の幼い顔が困ったような表情を浮かべる。
「でも小町さん気をつけたほうがいいですよ・・。この間も服を脱ごうとしてました・・。」
「ん〜?あたしまたやったの?」
「はい・・。」
「ん〜でも居たのはリコちゃんとオーナーと赤谷さんでしょ?問題ない問題ない。」
「ええええ・・・。」

小町はこの「LE PASSAGE(ル・パサージュ)」でパティシエとして働いている。
10年前に雑誌で紹介されて以来なかなかの評判を持っているこの店に就職したのが3年前。
結構な変人揃いの職場だったが、小町にとっては実に良い就職先だった。
シェフは腕が良いし、偉ぶらないし、従業員の態度も接客も考え方も気に入った。
加えてオーナーは若いくせになかなか見所があったのだ。
そう思うのもただひとつ。
腕は良いが変人として名高い小町を「お前面白い」の一言で雇うことに決めたからである。


3年前に就職した時には、目の前のリコも既にこの店で働いていた。
17歳の頃から働いてきたというのだから、実のところ小町より先輩ということになる。
しかしリコという娘は実に腰の低い娘さんだった。とはいえ卑屈というわけでもない。
のんきという言葉があまりにぴったりくる性格だが、のんきなりに努力家でもあった。
小町は口ばかりで努力もせずに評価を欲しがる者が嫌いだった。
アレが欲しいコレが欲しい。俺を見ろ。俺は頑張っている。ほら凄いだろう。偉いだろう。
そういう人間は大抵こう言う。
「こんなに頑張っている俺を評価しないなんて、あの上司の目は節穴だ。」
「評価をしてもらえない程度のことしかしてないじゃないのよこのスカタン。」
思わずぽろりと口に出してしまった本音のせいで彼氏を失ったことも数知れず。
しかしそれでも小町はちらりとも反省していなかった。
「本当のことを言われて怒るなんて狭量な男ねえ。まあいいや〜。もう関係ないし。」
つまりのところ、小町は実にマイペースな女性だったのである。



「オ、オーナーと赤谷さんだって男の人ですよ・・。」
顔を真っ赤にして自分の脱ぎ癖をたしなめるリコを見ながら、小町はあくびを噛み殺した。
いつものようなのんびりと間延びしたような口調で手を振る。
「オーナーも赤谷さんも本命がいるもん〜。本命が居るやつは男じゃないの。もうホモみたいなもんなの〜。だから平気平気〜。」
「えええええ・・・。」
あまりもの極論にリコは絶句する。
その困ったような顔を見ていた小町は、その白い首筋に目をやって変な声をあげた。
「んんん!?」
「え?な、なんですか・・??」
リコは思わずぎょっとしてのけぞる。
小町は大きく息を吐きながらにやりとした。
「リコちゃんもやるねえ〜。どしたのそのキスマーク。」
「キ・・・。」
目の前の娘さんは大きな目をさらに丸くして絶句した。
小町が自分の首筋をさしてみせると、慌てて自分の手をそこに持っていく。
そうして何かに気づいたかのように小さく息を飲んだ。
「あれ?もしかしてリコちゃん赤谷さんとうまくいったの〜?」
「・・・っ。」
リコは慌てたように首を振った。みるみるうちにその顔が真っ赤に染まっていく。
「え?じゃあ誰なの〜?」
「・・・。」
リコは首を横に振ったまま答えない。
頭から湯気が出そうなほどに赤くなったまま俯いている。

小町はそんな年下の娘さんを見下ろした。
うーんと唸りつつ鞄を探る。
「リコちゃん、とりあえずこれで隠した方がいいよ〜。あたしらは客商売なんだし、そういうとこは気をつけなきゃね〜。」
「・・・は、はい・・。」
肌色のコンシーラーを渡すと、リコは救われたように何度も頷いた。






赤谷吾郎は大きく伸びをした。
爽快な気分でさらに息を吸う。




「お、きなこさんお出かけか?」
縁側から庭先に大きなきなこ色の猫がどすんと飛び降りるのを見て声をかける。
猫は庭で爽やかな顔をしている男を見上げてひげを揺らし、そうしてのそのそと竹で作られた扉の下をくぐって出て行った。
まるで貫禄のある力士の出勤風景のようである。
「はーでっかいなあ・・。」
しみじみとそうつぶやくと、扉の先、玄関の前の道路に立っている人影が見えた。
ちらと見えたそれは見覚えのある学生服で、赤谷はにやりと笑みを浮かべる。
「おはよう、弟君。」
声をかけるとそこに立ち、今にもインターフォンを押そうとしていた少年はびくりと身体を震わせた。
次いで振り向いたその顔は無残にも腫れ上がり、あちこちに絆創膏が貼られている。
「あれ?もしかして学校サボリなん?」
時計はすでに10時をさしている。 咎めるつもりはなかったのだが少年の顔は強張ったままだった。
真面目な表情で赤谷を見て、そうしてその頭を下げた。
「・・昨日は、ありがとうございました。」
そうしてそのまま言葉を続ける。
「・・いきなりすみません。実は姉のことで頼みがあって・・。」
赤谷はきょとんと瞬いた。
「俺に?」
「はい。」
赤谷は頭を下げたままの少年を見下ろした。
腫れ上がった顔。
見慣れた学生服。
それがひどく懐かしく思えたことに齢30を迎えた男は苦笑を浮かべる。
「・・何か?」
「いんや。」
赤谷は怪訝そうな表情を浮かべる少年に笑って見せ、自分のいる庭に向かって手招きをした。
「まあ、こっち来いへん?縁側で話そか。」
少年は強張った表情のまま顔を上げる。
男は実に上機嫌な笑顔を浮かべたまま更に続けた。


「ほれ、サイダー出したるから。」





首筋








「僕の太陽:27」に続く





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