「僕の太陽:23」<大人と子供と> |
気がついたときには、目の前で司は立ちすくんでいた。 呆然とした顔でリコを見下ろしている。 その瞳は先刻までの奇妙な光はすっかり消え去っていて、ただ大きく見張られていた。 いつの間にかリコは弟の手から開放されていた。 だから床にへたりこんだ姿勢でリコは盛大に咳き込んでいた。 酸素が欲しくて喉がひゅうひゅうと音を立てる。 涙は止めようにも止められなかった。 しゃっくりあげながら司を見上げる。 視線が、合った。 「・・・。」 司の顔は蒼白だった。先ほどまでの激しさがまるで嘘のように静かにそこに立っていた。 リコは言葉をかけようとする。しかしやはり声は出せなかった。 呼吸が出来なかった時間は長かった。 酸素を求めて身体は勝手に反応する。 喉が奇妙な音をたてて、気管が震えた。 「・・・。」 司がゆっくりと膝をついた。 どこかぎくしゃくとした動きで、咳き込んでいる姉の背中をさすろうと手を伸ばす。 掠れた声がその喉から洩れた。 「・・姉さん・・すまな・・。」 しかしその言葉を最後まで言い終えることはできなかった。 リコの身体が大きく震えてその手から逃れようと身を引いたのだ。 弱い動物が身を守る為にするような、完全に怯えた動作。 それはおそらく反射的なものだったのだろう。 その証拠に当のリコの方がそんな自分の身体に驚いていた。 司の顔がいっそう蒼ざめる。 リコはそれを見て、慌てて何か言おうとした。 違うのだ。今の司が怖いわけじゃない。 怖かったのは先ほどまでの司で、今の蒼ざめた、何かにひどく傷つけられたような司じゃない。 なのに勝手に身体が反応した。傷つけられると思って逃げようとした。 「・・つ、司くん・・。ご、ごめんなさい・・。」 謝ろうと声を絞り出すと司はかすかに目を見張った。ひゅう、と息を飲む音が聞こえた。 「あの・・。」 口を開いたはいいものの、何を言えばいいのかリコにはわからなかった。 頭の中はいまだに真っ白のままで何も考えられない。 けれども今のままでは司が可哀想でたまらなかった。 「あのね、司くん・・あの・・。」 ふいに司は蒼白の顔のまま立ち上がった。 音はしなかった。ひどく静かな所作だった。 リコは司を見上げる。 しかしその目は合わなかった。かける言葉も見当たらない。 司が目を逸らす。 そうしてリコの横をすり抜けて玄関へと向かった。止める間もなかった。 静寂の中、扉の閉まる音だけが響き渡った。
大人と子供と
残されたリコはしばらくの間呆然としていた。 何が起こったのかさっぱりわからなかったが、脳に酸素が行き渡って来るとようやくゆるゆると思考が動き始めた。 なんとか呼吸を整える。 頬に伝わる感触は冷たかった。手でそれを拭う。 そうして気づいた。 先ほど、司が触れた場所は依然として熱かった。 「・・・。」 あれは、何だったんだろう。 リコはぼうっとした頭のまま思った。 このような経験をリコはしたことがない。 初恋が5年前。それからずっとひとりの人を馬鹿みたいに想い続けて5年。 そうして想いは叶わぬまま失恋して数日。 そんなリコに、これまで異性と付き合う経験など一度としてなかったのだ。 リコは頭を振った。 今は弟のことの方が心配だった。 いつかの、母親に叱られて飛び出して行った小さい頃の司の姿が蘇る。 涙を目に一杯ためて走っていった小さな弟。 もちろん今の司はそんなことはしない。 だけどもリコには昔の、子供の頃のままの司の姿が見えたような気がした。 「よいしょ・・。」 リコは力の入らない足を叱咤しながら立ち上がると、よろよろと司の後を追った。 ・・司くん、多分・・泣いてる。 そんな予感をひしひしと感じて、居てもたってもいられなかった。 鍵だけ握りしめて外に出る。コートを羽織ることさえ忘れていた。 だからリコは気づかなかった。 廊下に放り出されたままの司の携帯電話が震えていたことに。 俺は何をしてしまったのだろう。 司は思った。 リコを傷つけたかったわけじゃない。無理矢理手に入れたかったわけでもない。 とにかく苛立った。 リコが何ひとつわかっていないことに。 嫌われているのは知っているとリコは言った。だから話をしようと。共に居られる時間は短い。だからせめて、共に居られる時間だけでも姉弟として仲良くしたいのだと。 嫌われている。どうしてそう思うのだろう。 リコは血の繋がりも無い子供を養ってくれている。 それだけで司はリコに恩がある。それなのに。 そこまで考えてそれもそうかとも思った。 自分はリコに優しくなどしたこともなかった。最近は特にそうだ。 口を開けば棘のある言葉しか出てこなかった。 リコとまともに顔を合わせることが嫌だった。 リコは不平や不満を口にすることはない。 仕事で疲れて帰ってきても、司のことを心配ばかりして愚痴のひとつ零すこともなかった。それに気づいてからさらに司は苛立った。 自分が子供であることを見せ付けられるような気がしたからだ。 子供みたいな姉が実のところ大人であることを認めるのが嫌だった。 遠い存在で居ることに耐えられなかったのだ。 だから斜に構えて、大人のふりをした。 素直にありがとうもごめんなさいも言えない。 それが子供であるということの証明でもあるというのに。 共に居られる時間に限りがあることもわかっていた。 理解していたのにその事実をつきつけられて血の気がひいた。 共に居られなくなる。 それは叫びだしたいほど耐えられないことだとそのとき気づいた。 考えることを無意識のうちに放棄していた。 それなのにやはりリコは大人で。 そのことをきちんと踏まえて考えていた。 それの事実がさらに自分を突き落とした。 何も考えられなかった。 リコは甘美だった。 あっという間に司の理性は消え去って、ただ、それにのめり込んだ。 やわらかく、甘い。 リコの力を失った身体も、苦しげな声も、すべてが司を興奮させる要素としか成りえなかった。 自分はただの男だ。 動物の牡。それ以外の何者でもなかった。 助けて。 だからリコはつぶやいたときも、司は胸中で笑った。 誰も助けに来ない。父親も、好きな男・・赤谷も。 誰も助けに来ないのに助けを呼ぼうとするリコが哀れで憎くて、そうして愛しかった。 ・・馬鹿な女。 リコは絶対に自分を見ない。弟だから男とは認めない。司を司としては見ない。 思い切り目の前の女をぐちゃぐちゃにしてやりたいと思った。 ・・自分しか見えなくなるまで、徹底的に。 弟が男でしかないということを知らしめたら、この女は一体どんな表情をするのだろう。 しかし名前は紡がれた。 助けて 「司くん」 なんでだよ。 司は右手で顔を覆った。 なんで「襲われている」最中に「襲っている」奴の名前が出るんだよ。 俺は最低のことをした。 それなのに。 くそ、と声が洩れた。 「・・つ、司くん・・。ご、ごめんなさい・・。」 何で謝るんだ。 我に返ったあともリコはリコのままだった。 心配そうな瞳で自分を見上げる。 しかし身体だけは正直に恐怖を示した。 それは無意識のうちにリコが司を拒否している証だった。少なくとも、司はそう思う。 情けない。 少年は泣きたい気分で歩いていた。 こんなこと久しぶりのことだった。 手に入らないと思っていた。こんなことをしたってリコの心は手に入らない。 わかっていたはずなのに。 ・・俺は弟として・・「人」として最低だ。 ふらふらと歩いていると肩がぶつかった。 ぎらぎらとした繁華街の中で男が吼える。 この場に似つかわしい、いかにも柄の悪そうな男達だった。 謝れと言われて司は笑った。ぶつかってきたのは相手のほうだ。 誰が、と思った。 本当に謝りたい相手に謝れない。それなのにどうしてこんな奴らに謝らなきゃならない。 その笑いが気に入らなかったのだろう。 あっさりと殴られて、路地に引きずり込まれた。 いつのまにか男たちは数が増えていた。 幾度となく殴られ、蹴られる。 意識が朦朧としていた。口内に鉄の味が溢れた。 そんなとき声を聴いたのだ。 いつかのときのように。 母親に叱られて家を飛び出したとき。 公園に隠れて泣きじゃくっていた司を見つけ出してくれた。 たったひとりの、その声を。 「つ、司くんっ・・!?」
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