「僕の太陽:22」

<優しい記憶>





考えてみれば司がリコに自分の力を振るうことなんてなかった。
子供の頃から、一度だって。



友達は兄弟同士でそれこそ姉弟であっても、子供の頃なら取っ組み合いの喧嘩をしていたと言っていた。
しかし司はそんなことはしなかった。
むしろ逆と言ってもいい。
いじめられているリコを助けるのは、決まって五歳も年下の弟の方だったのだ。
当のリコはどうしてよいかわからずにおろおろするばかりだったが、司は日に日に逞しくなっていった。
五歳も年下の弟がリコの同年代の少年たちに力でかなうはずもない。
けれど司は頭が良かった。
放課後になるとリコを迎えに来て、人通りの多い商店街や大通りを通って帰る。
大人の目の前ではいじめっこ達も手を出さない。
それを考えての行動であったことをリコは後から知った。
リコの手を握ったまま、ずんずんと前を歩く弟の姿は小さいのに頼もしかった。


まるで外国の絵本に出てくる、お姫様を守る「騎士様」みたいだった。






優しい記憶





「姉さん・・何してるの。」


リコは顔を上げた。
そこにはいつのまにか弟が立っていた。呆れたような表情でリコを見下ろしている。
中学三年生になった司はぐんぐん背が伸びていた。
あらかじめ大きめな学生服を買っておいたのだが、すでにそれが丁度良い大きさになってしまっている。
暑いのか、学生服の上着を脱いで肩にかけていた。
司は随分と目線が下になってしまった姉を見下ろし、そうしてその顔をしかめた。
「・・なんて顔をしてるんだよ。」
リコはあわてて両の手で顔を拭った。
どんな顔をしていたんだろう。
恥ずかしくて顔が熱くなった。

司はリコの見ていた道路に目を移す。
そうしてかすかにその表情をかえた。
リコの目の前には片側三車線の道路が広がっている。
自動車がひっきりなしに行き交っていて、いかにも危なかった。

「犬丸、どうしたんだ。」
背後から声が聞こえた。 見れば司と同じ年頃の男の子たちが不思議そうに自分たちを見ている。
おそらく司は、同級生たちとと帰宅する途中だったのだろう。
リコは慌てた。
「司くん、先に帰ってて。わたしのことは気にしないでいいから。」
司はリコの顔を見た。そうして小さく息を吐く。背後を振り返った。
「悪い。宮村、今井。先に帰ってて。」
「・・?まあ、いいけど。」
「うん、じゃあまた明日な。」
「ああ。」
司はあっさりとしていたがリコは大いに慌てた。
せっかく友達と帰ってたのに邪魔をしてしまった。
「司くん、わたしは本当に大丈夫だから・・。」
「アレでいいの?」
司は淡々とつぶやいた。
「え?」
「アレだろ。猫。」
司はリコが抱えていたタオルを手にした。かわりに自分の学生服と鞄を放ってよこす。
姉さんはとろくさいから。司は続けた。
「いつまでたってもあそこに行けないだろ。」

リコが返事をするより前に司は動き出していた。
車が途切れた一瞬の間をぬって道路に走り出る。
そうしてタオルでそれをすくいあげると素早く戻ってきた。本当にあっという間の出来事だった。
「コレどうすんの。」
司はタオルでそれを包んだ。すでに息絶えていることは明白で、白いタオルにもじわじわと赤黒いものがにじみ出していた。異臭も放っている。
「・・あ、ありがとう・・。」
リコは受け取ろうと手を伸ばしたが司は渡そうとはしなかった。
すでに背を向けてさっさと歩き出している。
リコは弟の制服と鞄を抱えたまま、慌ててその後を追った。


しばらくして司が前を向いたまま口を開いた。
「この猫、知ってる猫だったの?」
「う、ううん。」
「じゃあ、なんで。」
司の口調は怒っているふうではなかった。
それでもリコは申しわけなくてたまらなかった。
司の手にも服にも、溢れ出た赤いものがべったりと付着している。
「・・・な、なんとなく・・見ていられなくて・・。」
リコは恥じ入ったようにつぶやいた。
車に轢かれた猫を見かけて可哀想だと思った。
それは感傷で、哀れみで、同情だった。単なる偽善者といわれても仕方がない。
ただその命を失った身体のうえに自動車が無遠慮に走り抜けていくのはたまらなかった。
見ているときりきりと胸が痛んだ。苦しくて悲しかった。それが凄く嫌だった。
自分のやろうとしていたことはその痛みから抜け出すためだけだといってもいい。
つまりは結局のところ、リコの勝手な我侭だったのだ。
けれども身体能力の劣るリコは、行き交う自動車の隙をつくことができなかった。
もたもたとしているうちに一時間過ぎた。
途方に暮れているところに司があらわれたのだ。
この行為が自分の我侭だということは承知している。
だからこそ誰にも迷惑をかけたくなかったというのに。それなのに。

「・・ごめんね、司くん・・。」
「・・・。」
司は黙ったまま振り返った。
夕日のせいでその表情はほとんどわからなかったが、ほんの少しだけ苦笑したかのようにもみえた。
「・・河川敷。」
「え?」
思わず問い返すと、司は目線を逸らした。
「河川敷なら埋めてやれるかもしれない。」
リコはぽかんとした。
司はさっさと踵を返す。
冷たくなり始めた風に司の髪がなびいた。
淡々とした声がそれに続く。
「墓、作りたかったんだろ。」
「・・え、あ、うん・・。」
リコは慌ててその後を追った。
司の学生服と、鞄を持って。


司の背中は大きかった。
いつのまにこんなに大きくなったんだろう。
その背中を見ながらリコは思っていた。
もう昔のように手はつないではくれない。
だけどやっぱり司くんは変わらない。
いつだって、どんなときだって、優しい人。


・・昔、騎士様みたいって思ったっけ。


リコは次第にほこほこと暖かくなってくる胸の中で思った。


・・でもそんなことを言ったら司くんは嫌がるんだろうなあ。


だから心の中でだけ思っておこう。
リコは司の学生服を抱えたまま、こっそりとその頬を緩めた。










優しい記憶








「僕の太陽:23」に続く





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