「僕の太陽:19」<軋み> |
その日、司は機嫌が悪かった。 神崎という少年は他人のそういう機微には疎い。 そんな神崎少年にもわかるほど、今日の友人の様子はおかしかった。 「お前、どうかしたの?」 頬杖をついて窓の外に広がる青空を睨んでいた司はちらりと神崎を見る。しかしすぐに目を逸らし、別にと答えた。 と、そのときに机の上に放り出していた携帯が震えた。 「お、司。メールみたいだぞ。」 「・・。」 司は黙したまま携帯を手に取る。神崎はそれを見ながら手にした紙パックにストローをさした。この友人が今日に限ってやたらと携帯を気にしていることは気づいていた。 何かあったのかな。 じうう、と牛乳を吸っていると目の前の友人の表情がますます険しくなった。携帯の画面に目を落としたまま微動だにしない。 クールといえば聞こえがいいが、実のところ無表情なだけの司がここまで表情を表すのは本当に珍しかった。 と、いうことは、だ。 「リコさん?」 司はじろりと神崎を睨んだ。その瞳に神崎は自分が正解をひきあてたのだと知る。 「まさかリコさんになにかあったのか?」 リコ、とは司の姉の名前だった。司の家に遊びに行った時に会ったことがある。 司とは全然似ていなかった。童顔で小柄。まるで子供みたいなお姉さんだった。 5歳も年上だと聞いて驚いたのをよく覚えている。 終始にこにこ笑っていて、神崎の話をとても楽しそうに聞いてくれた。 司は相変わらず無愛想だった。しかしリコの話をする時だけほんのかすかに表情が変わる。 そのことに気づいた時、神崎はなにやらおかしくて仕方がなかった。 なんだ、こいつにも可愛いところがあるじゃないか。そう思った。 「まさか、病気か?」 そういうと司は携帯を乱暴に畳んだ。ばちんと音が鳴る。 「違う。」 「え?」 「・・ただの朝帰り。」 吐き捨てるように司は答えた。 神崎はきょとんとする。あの子供みたいなリコさんが朝帰りなんて驚きだけれど、それでも22歳の女性なのだからそういうこともあってはいいのではないだろうか。 「お前、それで怒ってんの?」 さらりと言うと司は神崎を睨んだ。 「怒ってない。」 「怒ってるじゃん。」 「なんで俺が怒らなきゃならないんだ。」 そういうものの友人は完全に苛立っている。よくよく見るとその目は赤く、顔色だって悪かった。 もしかすると一睡もしていないのではないだろうか。 ・・姉を心配して。 「・・お前ってホントにシスコンなんだなあ。」 笑い話のつもりで神崎が言うと、ふいに司はその瞳を伏せた。 その表情が暗くかげる。 「・・それならどれだけ楽だったか・・。」 「え?」 「・・くそ・・。」 神崎は慌てて聞き返したが、司はそれきり黙りこんでしまった。
軋み
司くんへ。 昨日はごめんなさい。今、赤谷さんの家にいます。 服が乾いたらもうすぐ帰ります。 昨日は連絡も入れずに本当にごめんなさい。 朝ごはんはちゃんと食べましたか? もし食べてないならお昼ご飯だけでもしっかり食べてね。 今日は仕事が休みなのでお夕飯は司くんの好きなハンバーグを作って待っていますね。 それでは授業中にメールをごめんなさい。 学校とバイト、頑張ってね。 梨子 リコが家に帰ってきたのは昼の2時前だった。 ほんの少しばかり二日酔いは残っていたが、案外元気があったので一人で帰ってきた。 掃除に洗濯。 その後にはメールで宣言していたとおりにハンバーグを焼いた。 子供の頃から司の好物はハンバーグだった。荒みじんのたまねぎがたっぷり入ったハンバーグ。 大きくなった今ではおいしいと言わなくなってしまったが、それでも心なしか嬉しそうにハンバーグを食べる司の顔は可愛くて、見ているこちらのほうこそ幸せな気分になってしまうのだ。 早く帰って来ないかな。 リコはハンバーグを捏ねながらふふ、と笑みを浮かべた。 司が帰ってきたのは夜の9時を回っていた。 バイトのあとだからだろう。どこか疲れたような顔をしていた。 「お帰りなさい、司くん。」 リコが出迎えると司はよそを向いたままただいまと言った。 「司くん、昨日はごめんね。」 「・・別に。」 そうしてそのままリコの隣をすり抜けようとする。 「司くん、ごはんは・・。」 「・・いい。食べてきた。」 「そ、そっか。」 リコは慌てて頷いた。それはそうだ。バイトがあるなら途中で何か食べてくることだってあるだろう。 司は居間を通り過ぎ、そうして自分の部屋のノブに手をかけた。 そこで居間の様子を見て顔をしかめる。 「姉さん。メシ・・食ってないのか。」 「・・あ。」 リコは慌てた。 居間にあるテーブルには司と食べようと思って用意しておいた夕食が手付かずのまま残されていた。 「う、うん。これから食べる。あ、でも気にしないで。この司くんの分は明日のお弁当にすればいいだけだから・・。」 言いかけたリコは、しかしそこではたと気がついた。 「あ、でもそうか・・司くんにはあかりちゃんのお弁当があるんだったね。じゃ、じゃあわたしが明日の朝に食べるから、大丈夫。」 「・・・。」 司はゆっくりと振り向いた。 廊下に突っ立ったままのリコを見て、そうして口を開いた。 「・・日比谷とは別れた。」 「え?」 リコはぽかんとした。 会ったのはほんの1日前だ。可愛い女の子だった。司と良くお似合いだった。 「どうして・・。」 「・・俺に好きな女がいるから。」 「・・え?」 リコはさらにぽかんとした。疑問符しか頭に浮かばない。 司が好きなのはあかりだと思っていた。だから付き合っているのだと、そう思っていた。 「つ、司くん、二股、かけていたってことなの・・?」 「・・・・。」 「それは、駄目だよ。あかりちゃんが可哀想だよ・・。」 司は振り向いたままの姿勢でリコを見る。その視線は強く、ほとんど睨むようなものに近かった。 「・・・姉さんだって同じようなものだ。」 「え?」 司は酷薄な笑みを浮かべる。 「赤谷ってやつとうまくいったんだろ。」 「良かったじゃないか。」 リコは目を見開いた。司は声を荒げない。 それでもいつもと同じ淡々とした口調のなかに、何か苛々したものが見えるような気がした。 「・・え?」 「寝たんだろ。赤谷と。」 リコは顔色を変えた。 司の口からそんな言葉が出たことだって驚きだった。 「そ、そ、そんなことあるわけないでしょう・・。」 「なんで。」 「なんでって・・。」 今朝の状況からリコとて勘違いしてしまったが、よくよく考えると赤谷がそういうことをしないことは明白だった。 「だって・・赤谷さんには好きな人がいるのよ。」 リコが告白したあのとき、たしかに赤谷には恋人はいなかった。 しかし心底惚れた相手がいるのだと、そう言った。だからリコの想いには答えられない。赤谷はそう言って頭を下げた。 馬鹿みたいに誠実な人間なのだ。彼は。 だからこそリコは赤谷を好きになった。 「そんなこと理由になるかよ。」 しかし司は吐き捨てるように言った。 「姉さんは男のことをわかっていない。」 「そんなことないよ。」 「どこが。」 司の言葉はそっけなく、そして刺々しかった。 自分を見上げるリコから目を逸らし、そうして小さく舌を打つ。 そのまま自分の部屋に入ろうとする司の腕を、リコは慌ててつかんだ。 「司くん、待って。」 弟の身体が強張ったのがわかった。 そうして振り向き、リコを見据える。 切れ長の瞳は苛立ちを含んで光っていた。リコは思わずひるみそうになったが、それでもその手は離さなかった。 「す、少しでいいの。司くんの、話をきかせて。」 「・・話?」 「司くんがわたしのことを嫌いなのは知ってる。」 司は瞳を見開いた。蒼白な顔でリコの顔を見る。 「でも、でもね、わたしは司くんのこと好きなの。大好きなの。 司くんがわたしのこと嫌いでも、お姉さんでいたいの・・。」 それは司が、リコが出ていったときに聞いた台詞とほとんど同じだった。 扉越しに聞いた台詞。 「でもわたし、鈍いから、やっぱり鈍いから、司くんの思っていることがわからないの。 だから、教えて欲しいの。嫌なこととか、本当の気持ちとかあったら教えて欲しいの。」 リコは司の瞳を見上げたまま、ひたすら言葉を続けていた。ただ、必死だった。 多分これを逃せば司の気持ちは聞けない。 このままこの関係を曖昧のままで終わらせてはならない。 優しい弟に甘えて、「家族」のふりをすることしかできなくなってしまう。 司を苦しめることになってしまう。 それだけは嫌だった。 怯みそうな自分を叱咤して、だから続けた。 「こんなよくわからないことで喧嘩なんてしたくないの。 ねえ、だから話そうよ。たくさん話したいよ。 だって・・だってわたしたち・・いつまで一緒に居られるかわからないんだよ?」 すっ・・と。 司の顔色が、変わった。 「居られない・・?」 ぼそりとつぶやかれた声にリコは慌てて頷いた。 「そ、そうだよ。司くんだって、いつまでもわたしと一緒に居なくてもいいんだよ。 そんな義務、どこにもないんだもの。だから、せめて今だけでも・・」 「何を、言ってるんだよ。」 抑えられた声は低く乾いていた。 「何でそうなるんだよ。」 「だ、だって・・。」 リコは思わず掴んでいた司の腕を放した。しかしすぐにその手は捕らえられる。 今度は司に手首を掴まれた。 「司くん、い、痛い・・。」 司は答えなかった。リコは弟の瞳を見る。 弟の瞳は氷のような冷たい光を湛えていた。本気で怒っている。 「苛立ち」ではない。それは「怒り」だった。 リコは震えた。 ・・怖い。 それは昨日も覚えた感情だった。 けれどそれは司に名前を呼ばれたことに対する恐怖だった。 司を失うかもしれないということに対する恐怖の感情だった。 けれど今は違った。似ているようで、まったく違った。 「司」という人物に対して、そう思った。
軋み
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