「僕の太陽:18」

<あたたかな場所>





リコはうっとりと夢を見ていた。
ひどくひどく、心地の良い夢だった。

暖かい太陽の光に照らされる木造の家。
とんとんとリズム良く響いてくる包丁の音。
くつくつと絶え間なく続いている音はお味噌汁を作る音。

おはようお父さん。

小さな娘の声に台所に立っていた父親は振り向いた。
やんわりと優しい笑みを浮かべたまま口を開く。

おはよう梨子。

うんっ。お父さん、今日の朝ごはんはなあに?

子供のリコは父親に抱きつきながらその顔を見上げた。リコにとって一人きりの、大好きな大好きなお父さんだ。
父親は笑いながら節くれだったかさかさの手でリコの頭を優しく撫でる。

お父さん、お父さん。

リコは父親に抱きついたままその服に顔をうずめた。
懐かしい、大好きな父親の匂い。


お父さん。
お父さん。


「お・・父さん・・。」


「リコちゃん?」
リコはぼんやりと瞳を開けた。
明るい光が視界に飛び込んでくる。どこか懐かしい古びた天井の色と朝ごはんの匂い。
そして、懐かしいあたたかさ。
「俺、お父さんちゃうで?」
傍らで聞こえるのんきそうな声にリコは目を見開いた。
そうして見慣れた青年の顔が自分をのぞきこんでいるのを見て思わずその呼吸を止める。
「っ!」
「おはよう。」
にっこりと男は笑う。

それは朝の風景に相応しい、実に明るい笑顔だった。




あたたかな場所








赤谷さん。
あれ?どうして、わたし、あれ?

リコはぱくぱくと口を開けた。声は出なかった。


・・あれ?
あれ?そうだ、わたし昨日赤谷さんのおうちにお邪魔してお酒を・・・。

「ん?」
男は笑顔のまま首を傾げる。
濡れたまま乾いていない髪からふんわりと良い香りが漂ってきた。
風呂上りなのだろうか。赤谷から香ってくるシャンプーと石鹸の香りにさらに思考回路が動きを止める。

あれ?
赤谷さんがお風呂上り?あれ?
あれ?どうして、わたし?あれ?服が・・?

リコはそろそろと自分の着ている服に目をうつした。
よくよく見ると、昨日の服装ではなくなっている。
見たことも無い大きなTシャツにスウェット。
・・どうしてこんなものを着ているのだろう。

「・・・・・。」
その先を考えようとして、リコは完全に硬直した。
みるみるうちにその顔だけがゆでだこのように染まっていく。

いや、だって。
これって、まさか。


「ん?リコちゃん?大丈夫か?顔が真っ赤やで?」
ゆでだこのようなリコの顔を見て男はきょとんとした顔になった。
「風邪かいな。」
次いで大きな手が自分の額に伸びてきた。
大きな大きなやさしい手。だけども。
・・・男の、人の。

今度は声が出た。
「んぎにゃあああああああああああああああああああああああっっっっ!!!」




「あははははははは!リコちゃん、昨日はオーナーも小町ちゃんも一緒に飲んだやないか〜。んで、みんなべろべろに酔ってもうてここで雑魚寝しててん。覚えてへんの?」
「・・はい・・。」
リコは真っ赤な顔のまま頷いた。恥ずかしくて顔があげられなかった。
赤谷に限ってそんなことはない。リコはそう思っている。
思っていたはずなのにとんでもない勘違いをしてしまった自分がとにかく情けなくて恥ずかしかった。
けらけらと赤谷は笑う。笑いながらお盆にのせて持ってきたものをリコの前に置いた。
「リコちゃん。二日酔いで食欲ないかもしれへんけど大根の味噌汁ときゅうりの酢の物や。
なんかおなかに入れ取った方がええし、少しは気分がさっぱりするで。」
「あ、う、す、すみません赤谷さん・・・。」
リコは恐縮のあまりぺこぺこと頭を下げた。

昨日、落ち込んでいるリコに気を使ってかオーナーが呑みに連れて行ってくれたことは覚えている。
赤谷、それにパティシエの小町さんも交えて場は大いに盛り上がった。
赤谷には弟のことを話したものの、そのことは話題にはのぼらなかった。
赤谷のことだ。リコが言うまで皆に言うことはないのだろう。
だからただ騒いで、おいしいお酒とご飯を食べた。
「まあたまにはいいだろ?リコちゃんも頑張っているしな。」
オーナーは一度だけそう言って、リコに向かって笑ってみせた。
職場のみんなの気遣いが申し訳なくもあり、嬉しくもあった。
だから大酒のみで酔うと何故か裸になりたがる小町さんを止めながら、リコもたくさんお酒を飲んだ。
そして。
そして・・。


「あの、赤谷さん・・。」
「ん?」
「わ、わたしの服は・・。」
リコはおずおずと切り出した。赤谷は青く晴れ渡った外を指差す。
庭には物干し竿が一本。そうしてそこには見慣れた服がはたはたと風に揺らいでいた。
「ほら、最後はここでみんなで飲んだやろ?そしたらいきなりリコちゃんものすごい吐いてなあ。もう服がどろどろやってん。で、洗濯したんやけど・・あ、着替えは全部小町ちゃんがやってくれたから問題ないで?俺もオーナーも誓って見てへん。いや、ホンマ。むしろ小町ちゃん自身が脱ぎだして大変やった。」
「・・す、すみません・・。」
リコはさらに縮こまった。
赤谷さんだけでなく先輩の小町さんやオーナーにまで迷惑をかけてしまった。
ふたりはリコが起きる30分前に帰ってしまったのだと聞いた。
時計を見ればすでに10時を過ぎてしまっている。リコは本日は休みの予定だったが、オーナーに小町、そして赤谷は通常出勤のはずだった。
そう思うとさらに申し訳なくて肩身が狭い。
「あ、そういえばちゃんと弟くんにも連絡しといたから、心配はいらん思うよ。」
「・・・!」
リコはどきりとして赤谷を見あげた。
赤谷はにっこりと笑う。
「リコちゃん記憶ないかもしれへんけど、べろべろになりながらも司くんところに帰らなきゃ〜帰らなきゃ〜いうてすごかったんやで。
そんで這ったまま玄関から出ようとしたはいいけど、何しろ這ったままやろ?上がり框からズデンと落ちてそのまま寝てしもてん。
せやから俺が弟くんに電話したんや。でも寝とったみたいで、何回かけても電話に出えへんでなあ。仕方ないんで留守番電話に伝言残したんや。」
「・・司くん・・。」
リコはつぶやいた。そうだ。帰らなきゃ。司くんが待ってる。
弟の呆れきった顔が目の前に浮かんだ。
頭が急に覚醒していくように感じた。
それにつれてどきどきと心臓が高鳴っていく。

朝ごはんはどうしただろう。司くんはああみえて雑なところがあるから、用意をしていないと食べずに学校に行ってしまうかもしれない。
それは駄目だとリコは思った。育ちざかりの男の子なのに朝食を抜かせることになるなんて。ああもう、わたしの馬鹿。
「あ、赤谷さん、あの、わたし帰ります・・っ!」
リコは立ち上がった。あたふたと自分のバックを探すリコに向かって、この家の主である青年は時計をしめしてみせる。
「リコちゃん。もう10時の25分やで?帰っても弟くんは家には居てへんよ。高校で授業中やろ。携帯にメールでも送った方が弟くんは安心するんやないかな。」
「え、あ・・。」
リコは動きを止めた。今日は平日。赤谷のいうことは実に理にかなっていた。
思わず赤谷の顔を見ると、当の本人はのんきそうな顔で笑っている。
リコは思わずへなへなと肩の力を抜いた。ほう、と息が洩れる。
「・・はい。」


何度も文面を書き直しながらメールを打ち、ようやく送信したときにはたっぷり20分は経っていた。基本的にリコは何をするにも遅い。
携帯画面から顔をあげあわてて赤谷を探すと、その姿は居間からはなくなっていた。もうすぐ11時。おそらく出勤の支度をしているのだろう。
かわりにいつのまにか一匹の猫がリコから少し離れた場所で大の字に伸びていた。
むき出しのお腹はふかふかした白い毛に覆われていて、ゆるやかに動いている。
猫の規則正しい寝息のたびに銀色のひげがゆらゆらと揺れていた。
あまりにのんきな姿に、メールのせいで強張っていた身体の力が抜けた。
差し込む太陽の光はぽかぽかと暖かい。
ふと見るとちゃぶ台のうえには20分前に赤谷が持ってきてくれた味噌汁と酢の物が手付かずのまま置かれていた。
リコは小さくいただきますとつぶやいて味噌汁に口をつける。それはすっかり冷えてしまっていたが、それでもとても美味しかった。
そうして、懐かしかった。
ゆったりと時間が流れていく。
この家はすべてが懐かしく、ほんのりとした暖かさで満ちているようにリコには見えた。
それは今朝見た夢のせいかもしれなかったし、この家に住む者がもたらすものなのかも知れなかった。

・・司くんにもこんなあたたかい家で、ご飯を食べさせてあげたいな。

リコはぼんやりと思った。
昨日喧嘩をしてしまった弟。たぶん、自分のことを疎ましいと思っている弟。
それでもリコは司のことが大切だった。
小さな頃から優しかった司。こんな自分を姉と慕ってくれ、リコは家族だからと大切にしてくれた。そんな司のためになることをしたかった。
だから司と一緒に住むことを決めた。無理かもしれないなんて思いたくなかった。
両親を一度に亡くして。住む家も、頼るべき人も居なくて。
だったらわたしが司くんの家族にならなきゃ。そう思いながら職を探した。


・・でも、わたしの気持ちだけ押し付けるのは駄目だものね・・。

自分では駄目なのだ。
自分では、こんなあたたかな家はつくれない。与えてあげられない。だから。

だから話そう。そう思った。
怖いけど。本当に怖いけど。
もしかしたらひとりになるのかもしれないけれど。
ひとりは怖い。寂しい。・・だけど。


・・例え嫌いだときっぱり言われたとしても、「弟」に嫌な思いをさせるよりはずっといい。

そう、思った。




あたたかな場所








「僕の太陽:19」に続く





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