「僕の太陽:13」

<繋がりを失うこと>





「ごめんね司くん・・ごめんね・・。」
10歳の少女はぼろぼろと泣きながら5歳の少年に謝っていた。
「ごめんね・・ごめんね・・。」
司は呆然とリコを見上げる。
膝には擦り傷ができていた。血も滲んでいる。
けれど、そんなことよりも驚きの方が強かった。
「お姉ちゃん、あの人たちの言ったこと、本当なの・・?」
「・・・・。」
リコは息を呑んだ。そうして唇を引き結んでこくんと頷く。
「・・そうなんだ・・。」
「・・・ごめんね。」
「・・・・。」
リコは蒼白の顔のまま俯いた。そうして再び消え入りそうな声でごめんねとつぶやく。
司は何も言わずに自分の膝に目を落とした。先ほどの少年たちの言葉が頭の中をぐるぐると回っている。嫌な、嫌な言葉だと思った。

シャッキン。
・・・ジサツ。

「・・ごめんね司くん・・。」
司の大好きな「お姉ちゃん」は涙を零しながらしゃっくりあげた。
何に対して謝っているのか、司にはわからない。
先ほど司が負わされた傷のことなのかもしれないし、父親のことに対するものなのかもしれなかった。
リコは顔をくしゃくしゃにして、ただただ拙い謝罪を繰り返す。
「ごめんね・・・。」





繋がりを失うこと










赤谷吾郎という人物は人並み外れて鈍いところがあった。


彼は自分ではそうとは思っていなかったのだが、彼を知る人物は皆一様に口を揃えてこういうのだ。
すなわち。


「お前は鈍感だからなあ・・。」


そして昨晩、赤谷が勤めている店のオーナーにもため息まじりに言われてしまった。
「だれが見たってリコちゃんはお前にべた惚れだったじゃねえか。気づかなかったのはお前ぐらいのもんだ。」
「う、嘘や・・。」
「・・お前ねえ、もう少し女心ってのわかってやれよ。」
「オーナー・・知っとったなら教えてくれてもええやないですか・・。」
赤谷はごつんとテーブルに額を落とした。騒々しい居酒屋の中、それでもかなり痛そうな音が響く。
「アホかお前。あのころのお前は希望ちゃんひきとったばかりで生活のことに手一杯だったし、希望ちゃんの手がかからなくなった後は涼子ちゃんにぞっこんだったじゃねえか。」
「う・・。」
「職場でもにやにやにやにやでれでれでれでれしやがって。正直かなりうっとおしかった。あんな美人とお前このクソ野朗ぶっちゃけうらやまし・・。ごほん。まあいい。
・・お前ね、リコちゃんがずっとどういう気持ちだったって思うんだ。馬鹿。」
まあ、とオーナーは首筋を掻きながら続けた。
「・・リコちゃんは隠してたみたいだから皆何も言わなかったんだけどな。」


「・・・。」
赤谷は項垂れる。
赤谷にとってリコは可愛い後輩だった。
兄弟のいない自分にとっては、それこそ妹のようでもあった。
自分と似た境遇であった少女はいつでも一生懸命で前向きだった。
自分は男で。ある程度は大人で。
それでも生きていく為に大変な事がまったくなかったと言えば嘘になる。
今となってはよくわかる。
仏頂面の少女と一匹のデブ猫。そうしてたくさんの優しい人たち。
何よりも大切なものができたからこそ、自分がここまで来ることができたのだということに。

初めて出会った時、リコは子供で女の子だった。
自分と似た境遇。しかしリコにとってそれは自分以上に大変なことなのではないかとすぐに悟った。
未だに日本の社会において、女性であるということはかなり不利になる。
それでも必死に頑張っているリコは彼にとって妹分であると同時に、尊敬すべき同志でもあったのだ。


しかし数日前。
赤谷はその同志から、自分に対する恋心を告げられた。



翌々日のリコの顔色も冴えなかった。
「リコちゃん、大丈夫かいな?」
「・・・・え、あっ、赤谷さん・・だ、大丈夫です。」
ぼうっとした顔で清掃用具の入っている扉に激突した妹分に声をかけると、リコは額を押さえたままあわてて首を振った。
「ご、ごめんなさい・・あの、全然平気なんです。大丈夫ですから・・。」
「・・・・。」
赤谷は首を傾げた。
リコは良い子だ。贔屓目を抜きにしてもそう思う。
落ち込んでいてもそれを他に悟られないように我慢するような少女で、それは赤谷に対してでもそうだった。
自分を振った男にまで気を使ってくれているのは痛いほどよくわかる。
「・・リコちゃん・・。やっぱ、俺の・・。」
「う、あ、ち、違うんです!あの、赤谷さんのせいで眠れなかったとかじゃなくて・・違うんです。昨日は良く眠れて、あの、赤谷さんが気にするようなことじゃないんです・・。」
リコはさらに慌てたように手を振る。
「・・・・。」
「違うんです。あの、目、目が腫れてるのはですね、そうじゃなくて・・。」
リコはそこでつと言葉を途切れさせた。
「弟、を・・怒らせてしまって・・。それで・・私・・。」
リコの顔にみるみるうちに影が落ちた。
眠れなかったのが本当のことなのか、それとも赤谷を気遣っての嘘なのかはわからなかったが、それでも弟と喧嘩したことだけは真実のようだった。
「弟君・・司君のことやね?」
「・・はい。」
リコはしょんぼりと肩を落とした。しばらくそうやって床に目を落としていたが、やがてぽつりと言葉を洩らした。
「・・司君が、私の名前を呼んだんです。」
「へ?」
「お姉ちゃん、じゃなくて私の名前を呼び捨てにして・・。」
赤谷はきょとんとした。名前を「呼び捨て」にするということ。
それは彼とその家族にとっては出会って以降もずっと日常茶飯事のことであったので、リコが何にこだわっているのかいまいち分からなかった。
姉として、何かこだわりがあるのだろうか。
「・・・?ええと、リコちゃんはそれが嫌やったん?」
「いいえ。その、嫌、じゃなくて・・その・・。」
目の前の妹分はいまにも泣き出しそうにその眉を下げた。
その感情をどう言葉にすればいいのか、自分でもよくわからないかのように言葉を詰まらせる。
「その・・」
やがて俯いたまま、リコはその肩を小さく震わせる。
そうして絞り出されるように紡がれた言葉は、囁くようにかぼそいものだった。
「・・・くて・・。」
「?」
赤谷はきょとんと瞬く。
「・・・わたし・・怖くて・・怖くて・・。」
「リコちゃん・・?」
「か、家族じゃないみたいで・・他人みたいで・・つ、司くんが離れていっちゃうみたいで・・。多分、わたしの気持ち、み、見抜かれてて・・。」
俯いたままのリコの瞳から、ついに堪え切れなかった透明な雫がぽろぽろと零れ落ちる。
「・・わ、わたし、司くんしかいなかったんです。わたしと家族で居てくれたの、司くんだけだったんです・・。」
赤谷はぎょっとして立ちすくんだ。この男はひとの涙というものに滅法弱い。
しかも泣き虫のようでいて、実のところ自分の前では一度として泣いたことなどないリコの涙にはいっそう衝撃を受けた。
そう。
2日前だって。
自分に想いを告げてくれた時にだって、自分の答えを聞いたときにだってリコは無理にでも笑ってくれたものだ。


そのリコが、泣いている。


リコは小刻みにしゃっくりあげた。
手の甲で瞼を押さえながら、堰を切ったように言葉を連ねていく。
「わたし、勝手で・・司くんにわたしの家族で居て欲しいって思ってて・・つ、司くんはわたしなんかと家族になるの、い、嫌だったのかもしれないのに、そう思ってて・・。でもわたしは司くんのお姉さんで居たくて・・か、家族で居たら、家族で居る限り、どこか遠くに行ったって、本当のさよならだけは、ないって、そう、お、思ってて・・・。」
「・・リコちゃん・・。」
「・・わ、わたし、司くんにひどいことをしていたのかもしれない。でも、司くんは優しいから言い出せなくって、だから、今までわたしと家族でいてくれて・・。」
ぽたぽたと、手の間から零れる雫が床の上に落ちていく。
「・・あ、謝らなきゃいけなんです。わたし。司くんにごめんねって。もう自由に生きていいんだよって、言ってあげなきゃいけないんです。でも、怖くて・・もう、ひとりは、怖くて・・。」
「・・・。」

子供のように泣きじゃくるリコを見ながら人並み外れて鈍感な男は、途方にくれたように立ち尽くしていた。






繋がりを失うこと








「僕の太陽:14」に続く





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