「或るあやかしの嫁取り」

或るあやかしの嫁取り9







――わたくしは兄のことを慕っておりました。




或るあやかしの嫁取9









わたくしには兄が一人おります。
わたくしより六つも上。随分と年の離れた兄妹でありました。

わたくし共の家は尊き方々の血筋を組む旧家であります。
女のわたくしにはよく分かりませんが、兄はきちんとした勉学を受けておりました。
兄は美しく品行方正であり、そのうえ優秀な人間でありました。
そうしてわたくしのような妹にもとても優しい、慈悲深い人間でもありました。


わたくしが物心つくころには既に、両親のわたくしに対する関心は失われていたようでした。
わたくしは女です。
しかも醜い外見でありました。
兄や両親のような黒々とした髪や瞳ではありませんでしたし、肌の色もどことなく違っておりました。
青白く、病的ですらありました。
だからでしょう。
特に母はわたくしに目を向けてくれることはありませんでした。
時折向けられた目線は冷ややかなものであり、何の感情も写してはおりませんでした。
父はそもそも家族に関心がないようでした。


だから幼い頃のわたくしに話しかけてくれる家族といえば兄だけでした。
兄はわたくしの頭を撫でてくれました。
わたくしも黒い髪になりたい。
そう言って泣くわたくしに兄は優しく教えてくれました。

「この髪の色は亜麻色というのですよ」

わたくしは自分の髪の色がたいそう嫌いでした。
父も母も兄も。
それどころか乳母も使用人も。ひとりもこのような髪の色の人間はおりませんでした。
気味の悪い薄い色でした。わたくしはそう思っておりました。
けれど。

「わたしはこの色がとても好きです」

兄は、兄だけはそう言って綺麗な瞳を細めてくれました。
わたくしの気味の悪い髪の毛や瞳を綺麗だと言ってくれました。
そうして髪をそのうつくしい指でやさしく梳いてくれました。
幼いわたくしはその言葉と仕草に、心の底から救われておりました。


兄は時折わたくしにお土産を買ってきてくれておりました。
わたくしはほとんど外には出してもらえません。
ですから兄の買ってきてくれるものは本当に嬉しいものでした。
……いえ。そればかりではありません。
正直に言うと、わたくしは兄に会えること自体が嬉しかったのです。
きらきらとした甘い砂糖菓子や異国の本。
それを携えて来る兄の背は会うたびに伸びておりました。
少年から青年へ。
けれども優しい声も、視線もそのままでした。
やんわりといろいろなお話を聞かせてくれ、手毬の歌を教えてくれ、そうして髪を撫でてくれます。

そのころには既に、わたくしは兄を慕っておりました。


兄は立派な男性でした。
ですから成人となった兄に、すぐさま婚姻の話が出たのは当然のことでした。
いえ、正確に言うと兄には幼い頃より許婚の方がいらっしゃいました。

わたくしも一度だけお会いしたことがあります。
黒い髪に黒い瞳の、たいそう綺麗な女の方でした。
わたくしは偶然その方と兄が庭園で談笑しているのを見ました。
ふたりはとても仲睦まじく、そうしてお似合いでした。
お互いに隣に居るのが相応しい。
生まれた時から決まっているかのようなその光景は、わたくしには辛いものでした。
ええ。
その時にわたくしは気づきました。

わたくしは兄を慕っておりました。
しかしそれは兄として、ではなかったのです。
それは禁忌の想いでした。
決して口に出せない類のものでありました。

わたくしはぼんやりとお二人を眺めておりました。
胸の痛みに身が引き裂かれそうでした。
そのときです。
兄の隣に居た綺麗な女性がふいにわたくしに気づいたのです。
驚いたように見開かれた瞳は、しかし次の瞬間、汚らわしいものをみたかのように歪められました。
そうして兄に何事かささやきました。
兄もわたくしに目を向けました。
いつも優しい端正な顔。
しかしこのときには兄の顔にその表情はありませんでした。
冷淡ですらありました。
まるでわたくしを観察するかのように。
わたくしがどうするか、見定めるかのように。
女性はそんな兄の手をひきました。
兄は頷きます。そうして女性に向かって微笑みました。
女性は最後にちらとわたくしを見やりました。
その瞳は嫌悪と侮蔑の色が混ざっておりました。


わたくしは息を飲みました。
汚らわしい外見。
そんな妹を持った兄に対する心証が悪くなってしまったらどうすればよいのでしょう。
わたくしはあわてて身をひるがえしました。
足ががくがくと震えました。
兄の冷淡な眼差しが胸を抉ります。
兄にだけは迷惑をかけたくはありませんでした。
それなのに。
わたくしは。



兄はその晩もわたくしの元へやってまいりました。
そうしてもうじきあの女性と婚姻を結ぶのだと言いました。
わたくしは深く頭を下げました。

「おめでとうございますお兄様」

そのときのわたくしの演技は見事でした。
心の底から祝福するかのように微笑みました。
そうして言いました。

「お兄様。
もうわたくしのことはお気になさらなくて結構です。
ここへも、来ないほうが良いと存じます。
これからは奥方のことだけ考えて下さいませ」

ええ。本当のところはわたくしの心は苦しくてなりませんでした。
けれども仕方のないことなのです。
そのころにはわかっておりました。
わたくしは父と異国の女性との不義の子であったのです。
妾の子。
しかもわたくしは異国の風貌を色濃く残しておりました。
だからこそわたくしはこの家の深くの離れで、人目につかないよう育てられたのでしょう。
家から放り出されないだけましであるのはわかっております。
いずれわたくしはどこぞに嫁にだされるでしょう。
いえ。
もしかしたら嫁の貰い手も見つからぬまま、この家で朽ち果てゆくのかもしれません。
そんな役立たずのわたくしでしたが、それでもわたくしは兄を愛しておりました。
ですからせめて、これ以上兄の足枷にはなりたくなかったのです。


兄は黙っておりました。
頭を下げたわたくしを、ただ静かに見ていたようでした。
やがて兄は何も言わずに出て行かれました。
そうしてそれ以来、何年もここに足を運ぶことはなかったのです。



兄は婚姻を結び、そうして子を授かりました。
わたくしは屋敷の奥、自分に与えられた離れでそれを喜びました。
兄に対して抱く気持ちはまったく変わりませんでしたが、それでも幸せな姿を見ていることは至上の喜びでもありました。



やがて私は十六の齢を数えました。
そうしてその年にはじめて、縁談の話が舞い込んで参りました。
父は嬉々としてその話を持ってまいりました。

わたくしも喜びました。
屋敷に居るわたくしのことを、言葉は交わさずとも優しい兄が気遣ってくれていることはわかっておりました。
ですから本当に嬉しかったです。
これで兄の気がかりをひとつ消せる。
それだけがわたくしの喜びでもありました。



しかし縁談の話を承諾し、夫になる人と顔を合わせた日の晩のことでした。
兄がわたくしの部屋へとやってきたのです。

「婚姻を承諾したというのは本当ですか」


そう問う兄の顔はこれまで見たこともないような表情でした。
蒼ざめ、強張っておりました。
わたくしはそんな兄の状態を心配いたしました。
どこかお具合でも悪いのではないのだろうか。
そう問うと、兄はそれには答えず先ほどと同じ質問をなさいました。
ですからわたくしは頷きました。


「はい。喜んでお受けいたしました」


それは本当の気持ちでした。
だって、わたくしのような女を娶ってくださる方がいらっしゃるとは思いもしませんでしたから。


「……何故」


兄はつぶやきました。
それはかすかすに乾いた声でした。


「あなたは何故わたしからはなれて行こうとするのですか」


わたくしは呆然と兄を見上げました。
何故兄がそのようなことを言うのかわからなかったからです。
けれども答えなら決まっていました。
愛しているからです。
しかしそんなこと告げるわけにはまいりません。
わたくしは兄の、尊敬する兄と同じ血を持つ妹でありました。
ですから兄のように立派になりたかったのです。
考えた末にわたくしはこう答えました。


「わたくしがあなたの、妹だからです」



それからのことは正直よく覚えておりません。
ただ、兄が。
あの優しかった兄がわたくしに痛みを与えたことは覚えております。
闇のなかでくらく光る瞳を覚えております。
兄は言いました。

「あなたは愚かだ」




実際のところ、わたくしには正確に何が起こったのかわかってはおりませんでした。
ただ、痛くて苦しくてたまりませんでした。
このまま殺されるのだろうか。
そうとさえ思いました。
兄はわたくしの痛みになど関心がないようでした。
目はぎらぎらと光り、ただ獣のようにわたくしに痛みを与えておりました。
永遠に続くかと思われる激痛。
それはまるで、嵐のようでした。


それが終わったことを知ったのは兄が耳元で優しくささやいたからです。
それはいつもの優しい兄の声でした。
けれども。
その言葉は。


「あなたはわたしを苦しめました。
異端の娘。
初めて会ったときにわたしの心の臓を奪っていったくせに。
それなのに今更離れていこうとする。
それは罪ではないのですか」



わたくしは目を瞠りました。
その言葉の、半分以上は意味のわからない言葉でした。
けれども最初の言葉の意味だけはわかりました。
苦しめた。
それはそうでしょう。
わたくしは異端で、この家にとっても兄にとっても足枷でしかありませんでしたから。
ごめんなさい。
涙が零れました。

ごめんなさい。ごめんなさい。


「謝ってももう遅い。あなたはわたしにその罪を償わなければならない。そうでしょう? 」


兄の声はひどく優しく響きます。
しかしその言葉は重いものでした。
罪。
おそらくわたくしは兄に嫌悪されていたのでしょう。
一方的に痛みを与えられるほどに憎まれていたのでしょう。
その事実に涙が止まりませんでした。



兄は優しいと言っても良い手つきで、乱れたわたくしの髪を梳きます。
幼き日、あのころのように、目を細めて。

そうしてわたくしから零れ出た涙を舐め取ると、優しく、優しく微笑みました。


「……永遠に、わたしの側で」






わたくしはそれから屋敷の奥深くに作られた小屋に軟禁されることになりました。
生活そのものに不自由はありません。
けれどそこから出ることも、兄以外の人と話すこともできなくなりました。

外ではわたくしは死んだことにされているようでした。
けれどもそうされたとて、誰も困りはしないことをわたくしは知っておりました。
夫となる予定だった方も悲しんでなどいない。わたくしの父の威光を得たかっただけ。
兄にそう教えられました。

その小屋は四方を壁に囲まれておりました。
元々生まれながらに病のものを入れるために作られていたのでしょう。内側からは出られない造りになっておりました。
もしくは殺せない罪人のためなのかもしれません。
外に続く扉はふたつ。
こちらから開くのは食事や物資を差し入れるための、腕がやっと通りそうな扉がひとつきり。
もうひとつは兄が入ってくる扉がひとつ。
しかしそれは、こちらからは開かないようになっておりました。



兄は時折やってきます。
しかしかわす言葉は少なく、ただわたくしをみつめていることも多くなりました。
そして時折、痛みを伴う暴力を振るわれました。
痛みを伴うものばかりだったそれは、しかし次第に甘やかになっていくのをわたくしは感じておりました。

兄ならばよいと。
兄にならばなにをされても……殺されてもよいと。
わたくしはそう思ってさえおりました。


ああ。
ひょっとしたらわたくしはもう、とうに狂いはじめていたのかもしれません。

 


しかし狂い散る前にわたくしはひとつの命を授かりました。
それはわたくしが狂うのを留めてくれる、たったひとつの大切なものでした。


兄はこどもを殺すように言いましたが、わたくしは断固として首を横に振り続けました。
兄は苛立ったようでした。時折縋るように懇願もされました。


赤子を産むのは危険を伴う。
そなたはもともと身体が弱い。
命を落とすかもしれないではないか。



――貴女はそこまで私が憎いのか。


首を横に振り続けるわたくしに、やがて兄はそれ以上なにも言わなくなりました。



そうして生まれた子供は、わたくしの髪や瞳の色より幾分濃いものの、わたくしにそっくりな女の子でした。
けれども鼻や口元はどことなく兄のものに似ていて、わたくしは心底この子を愛しく思いました。

兄の言ったように、出産は困難なものでした。
わたくしの身体はぼろぼろになり、そうして生まれた子もひどく身体の弱い子供でした。


哀れな子。


けれどもわたくしはこの子と兄を、誰よりも愛しておりました。




本当に本当に。
命の火の消える最後の最後のときまで。




――愛しておりました。








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2012・4・1










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