「或るあやかしの嫁取り」

或るあやかしの嫁取り10






 こどもが目覚めたとき、もう猫は傍にはおりませんでした。
 身体のしたには金色のひとがいつも羽織っていた着物が敷いてありました。
 こどもが身を起こすと、目からはほろほろと涙が零れました。
 それは猫が旅立ったこと、そうして昨日の夢のためでありました。
 金色の人は言葉通り真実の過去の夢をみせてくれたのでしょう。


 おかあさまと。
 そしておにいさまの。





或るあやかしの嫁取10







 こどもは袖で目をこすり、そうしてほうと息を吐きました。

 幼いこどもに夢のすべての内容の意味はわかりません。
けれどもひとつだけわかったことがありました。

 それはおかあさまもおにいさまも、きっとお互いのことを大切に思っていたということでした。
 そうして、それなのにお互いにお互いのことを嫌い合っていると思いこんでいるということでした。

 おにいさまのあのときの言葉の意味もなんとなくですがわかりました。
 こどもを産んだからこそおかあさまの身体は弱くなりました。
 つまりそれは、こどもがおかあさまを殺したということになるのでしょう。

 自分はきっと、生まれてきてはいけない存在だったのでしょう。
 けれどおかあさまは愛しているとおっしゃってくださいました。
 だれよりも愛している、と。
 おかあさまはもういないけれど、それだけはたしかに真実のことでした。

 こどもはいつも猫が寝ていた座布団を手に取ると、それをぎゅっと抱えました。猫のからふんわりと香っていたおひさまの匂いがします。
 こどもはそれに顔をうずめてちょっとだけ泣きました。
 けれどもその香りは、それだけで勇気が湧いてくるような気がしました。


 それから幾日か過ぎました。
 こどもはずっと考えて考えて、おかあさまの気持ちをおにいさまに伝えなければならないという答えにたどりつきました。
 そうしなければおにいさまもおかあさまも、ひどくひどく哀れに思えたのです。


 こどもは猫にたくさんのことを教わりました。
 いろいろな思いを知りました。
 相手を大切に思っている思いを伝えることの喜びを知りました。

 だから勇気を出して小さな扉に向かって声をかけました。



 おかあさまのことで、おにいさまにお話があるのです、と。




 おにいさまがやってきたのは夜半でした。
こちらから閉ざされた扉を開け入ってきたおにいさまは、夢の中より幾分か年を重ねておりましたが、それでもやはり端正で綺麗な人でした。
 けれども夢の中のような瞳ではなく、やはりぞっとするような冷たい瞳を持っておりました。
こどもに向ける視線は凍えつきそうなほどに冷ややかで、しかしその中には激情を潜ませているようにも思えました。

 こどもは恐怖のあまり身を震わせましたが、伝えなければならないことを必死に言葉に乗せました。


 おかあさまの思いを、感情を、すべて。



 しかしこどもは最後まで伝えきることはできませんでした。
おにいさまは突然腕を伸ばし、その掌でこどもの首を抑えつけたのです。
 背中を床に押し付けられ、首を絞められて呼吸ができずに呻くこどもを、おにいさまはぎらぎらと憎しみで彩られた瞳で見下ろしておりました。


嘘をつくな。

あやつは私を憎んでいた。そればかりだった。
愛していたなどとあるはずがないだろう。

それなのに嘘を。
あやつと同じ顔で、よくもそのような嘘を。



 おにいさまの掌に力が入ります。
 呼吸もできす、馬乗りに乗られているため逃げ出すこともできません。
 呼吸のできない苦しさと、伝わらない悲しさでこどもの瞳からは涙が零れました。


 おにいさまはどろどろと身内に渦巻くものを、すべて吐きだすかのように叫びました。



「お前がそれを言うか。あやつを死へと追いやったお前が……! 」


 次第に意識が遠くなるのがわかりました。
 もう眼前にあるはずのおにいさまの顔すらよく見えません。


……ごめんなさい。


 こどもはこころのなかでおかあさまに謝りました。
そうして、目の前のおにいさまにも。

 ごめんなさい。
 おかあさまの思いを伝えることができませんでした。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。


「何故あやつが死んでお前などが生きている。お前こそがいらなかったのだ。いらないものだ。この世から、私の前から、消えるべきものだったのだ……! 」


 おにいさまのまるで泣きじゃくる子供のような叫びに必死に恐怖は感じませんでした。
 ただただかわいそうで、ひたすら哀れに思いました。


 ごめんなさい。
 わたしがここに居てしまって。
 わたしがここに生きてしまっていて。
 おかあさまじゃなくてごめんなさい。

 ……わたしは。

 わたしなど、生まれてこなければよかったのに。


 こどもはその悲しい現実の中で、ああ、もういちど猫さんに会いたかったなあとふうっと思いました。
 ふわふわとした金色の毛も青い瞳も。
 あたたかな声もやさしい言葉も。
 こどもの閉じられた悲しい生の中においては、なによりもなによりもすてきな宝物だったのです。


 おにいさまの叫びが、閉じられた悲しい空間に響きわたりました。


「お前など……お前などいらぬのに……! 」


そのとき、おにいさまの言葉に答えるものがありました。



「ならば、わしがもらおう」



しんと涼やかに流れた声。
それはひどく、懐かしい響きをしておりました。









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2012・4・7










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