「或るあやかしの嫁取り」

或るあやかしの嫁取り7






空が薄く曇ることが多くなり、いつもは猫の目のように青い海が黒々と見える日が多くなってきました。
吹き抜ける風も冷たくなって、猫のお気に入りの木からもはっぱがほとんど落ちてしまいました。
老爺は相変わらず朝早くから海に出ていきます。そうしてたっぷり魚をとってくると、それを売りに行ったり、干したりと忙しいようでした。
けれども時間ができると猫を膝の上にのせたまま眉間にしわをよせて、なにやら考えこんでいるのでした。
そうしてぼそりとつぶやきます。

「……名というのは難しいなあ」

猫は嬉しくて、ごろごろと喉をならすのでした。







或るあやかしの嫁取7









いよいよ空からは白いものが舞い始めました。
ずっしりと重たげな灰色の雲は、惜しげもなくそれを地上に落としていきます。
風もとっても強くて、ぴんと伸びた猫のひげをびゅうびゅうとはじいておりました。

夜になると白いものは地面に積もっていきました。
しんしんと、ささやかな音色ですべての音をくるみこんで降り積もっていきます。
猫はおさかなの匂いのするあたたかな小屋で、老爺の膝に丸まっておりました。
老爺はあいかわらず無口なので、家の中には音といえば火のはぜる音しかありません。
それはとても心地よくそうしてすごくあたたかに感じて、猫はうっとりと瞳を閉じておりました。
そうして夜も更けてきたころ、静かに老爺が口を開きました。

「……決めたぞ」

猫はぴくんと耳を動かしました。膝の上から老爺を見上げると、皺に埋もれた黒々とした瞳がやさしく猫を見ておりました。

「おめえの名はな……」

その瞬間、乱暴に家の扉が開けられました。



それから起こったことを、猫はよく覚えておりません。
ずかずかと入ってきた男に老爺ごと蹴られたのは覚えております。
猫はそのはずみに部屋の隅に転がり、魚の油の入った壺にぶつかりました。
猫の頭はくらくらしておりました。
ぼうっとした意識の中、入ってきた男が、老爺にむかってなにかを振り下ろしているのが見えました。
ぱっと赤いものが飛び散り、みるみるうちに老爺が赤く染まっていきます。
小屋の中も、赤く赤く染まっておきます。

やがて老爺は動かなくなりました。
男は手にしていたものを乱暴に放り投げます。それにもべっとりとしたもので赤黒く汚れておりました。
さらに手や服についたそれを見て舌打ちをし、そうして乱暴に部屋の隅からなにかを掘り起こすと、それを抱えました。

猫はまだ頭がくらくらして動けませんでした。
ぼうっとしたまま、動かない老爺のほうを必死に見ておりました、

男はそこでようやく猫の存在に気が付いたようでした。

「爺の飼っていた猫か」

その声は興奮のせいでしょう。熱を帯びたぎらぎらとしたもので彩られておりました。

「ちょうどいい。爺といっしょに燃えちまいな」

そういうと男は、小屋の隅に置いてあった壺に入ったものをまき散らしはじめました。
それは魚の油でした。
火を生み出す、すてきなすてきなもののはずでした。


男が外から火を放ちます。


猫の大好きだった居場所は、白い世界の中赤く赤く燃え始めました。





猫は自分がどのように逃げ出したか覚えておりません。
大好きなはずだった火が熱くて熱くて苦しくて、本能に追われるようによろよろと逃げ出したところまでは覚えております。
そうして気が付くと、山の中腹あたりの岩の陰に横たわっておりました。
あたりはすっかり白く覆われていて、猫の身体にもそれが降り積もっておりました。
目が覚めてもちょっぴり頭がくらくらしましたが、猫は立ち上がり、急いで老爺のところに戻ることにしました。
あのとき老爺は動いていないようでした。
赤いものもいっぱいついていました。
何故だか嫌な風に胸がひやりとして、だから猫は一生懸命山を下りました。

そうして猫が見たのは、黒こげになった小屋のあとでした。
すかすかになったその中には、ひとつの黒い影が横たわっておりました。

猫は首を傾げました。
あのときは赤にまみれていたけど、今は真っ黒です。
それを不思議に思いながらも横たわっている老爺を呼びました。そうして腕に頭をすり寄せます。こうすると、老爺が頭を撫でてくれることを猫は知っておりました。

みゃあ。みゃあ。

しかし黒い腕は少しも動きません。それどころか少しもあたたかくありませんでした。
でもこれはたしかに老爺なのです。
猫はごろごろと喉をならしながら身体をつついてまわりました。


にゃあ
にゃあ

……にゃあ

しかしいくら呼んでも、身体をつついても老爺は起きませんでした。
空からはまた白いものが落ちてきて、少しも動かない老爺のうえに降り積もっていきます。
猫はあわててそれを鼻先でどけようとしました。
動かないものの上にそれが積もると、もっともっと冷たくなってしまうのです。
そう。
老爺と出会った時、猫のまわりにいたものがそうであったように。


それを思い出した瞬間、猫の頭からしっぽの先までがぶるりと震えました。
嫌な予感で胸がいっぱいになります。それは冷たくて冷たくて、胸の奥のほうから凍えていくような感覚でした。

猫は一生懸命鳴きました。
猫は一生懸命呼びました。

けれども老爺は起きません。
もう二度と、起きてはくれないのです。



にゃあ

にゃあ

……にゃあ



―…………



――じい、ちゃん……



何度も何度も呼んで、声も枯れてしまって。
そうして老爺の傍で夜が五回ばかり過ぎたころ、猫はふうっと顔を上げました。
それは突然の変化でした。
頭の中が妙にすっきりしていて、いろいろなことが急にわかったような、不思議な不思議な気分でした。


―そうか。じいちゃんは「しんだ」んだ。


猫は立ち上がりました。
立ち上がった際に揺れたしっぽが何故だかふたつに分かれていましたが、そんなこと猫にはどうでもよいことでした。
ただこれまでにない、妙な力が身の内にあることを感じました。
これまで以上にいろいろなことが考えられるようになりました。
だから猫は、ぽかんと穴が開いたような気がする胸を気にしないようにしながら考えました。


―じゃあ、じゃあ……ねこは、じいちゃんを、うめないと……


猫は老爺がいっていたことを思い出したのです。家の裏には病で死んだ奥方を埋めている、と。それを墓というのだと。猫とともにいた兄弟や母猫も、そこに埋めたのだと。
そうして老爺はそこに時折、花を摘んできては供えておりました。

猫が望むと、妙な力は簡単にそれを叶えてくれました。
金色の髪の少年の姿になった猫は時間をかけて穴を掘り、そうしてそこに老爺を埋めました。
一晩かけて山を探しましたが、花はなかったのであきらめました。

そうして次は、その前に座り込んでぼうっと考えました。


―じゃあ、つぎは、あいつを、さがさないと……


また望むと、今度は身体が小屋よりも大きくなりました。
姿は猫と似たのまま。けれども爪も牙もぎらぎらとしていて、毛皮もひときわ強くなったような気がしました。

脳裏に浮かぶのは、老爺を「死」に追いやった男のことでした。
猫は、猫であった「それ」はそこではじめて思ったのです。
それは動物であった時には感じたことのない感情でした。

どろどろと暗くて、熱くて。
ただ苦いばかりで生産性のない。
純粋に生きるものには不必要な感情。

けれどもおそらくは今、それが一番叶えたいことでもありました。



―さがして、そうして……じいちゃんとおんなじめにあわせてやらなきゃ……



ひとつの生き物はこうして消え、
ひとつのあやかしは、こうして生まれました。







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2012・3・3










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