或るあやかしの嫁取り6 |
猫の傷は日に日に良くなっていきました。 ご飯ももりもり食べますし、庭を走り回れるようにもなりました。 ふっさりとした毛並みに隠され、あんなに大きかった傷も見えなくなりました。 こどもは良かったと思いましたが、やはりほんの少しさびしくも思いました。 だってそれは、別れの日が近いことをしめしてもいたからです。 こどもはいつも猫と一緒に眠ります。 最近では金色の人に会うために夜更かしをするので、お昼寝をたっぷりとることにもしておりました。 ぽかぽかと日のあたる畳は良い匂いがします。そこに寝ころんでいると、庭で遊んでいた猫がやってきてこどものわきに丸くなります。 陽の光をたくさんすいこんだ毛並みはつやつやとしていて、とてもふっかりしています。 だからこどもは毎日、そんな猫を幸せな気分で抱きかかえるように眠るのでした。 そんなある日のことでした。 こどもは、或る「夢」を見たのです。 それは、見たこともない土地での夢でした。 傍らには、庭の井戸なんかよりずっと大きな大きなお水がどこまでも広がっておりました。 上を見上げるとどんよりとした灰色の雲がこれまた驚くぐらい遠くまで広がっております。 そうして、そこからは白くて冷たいものがはらはらと零れてきておりました。
或るあやかしの嫁取6
みい、とその小さなものは声を上げました。 声は波の音と風の音、たくさんの無情な音にかき消されてしまいます。 それでも必死にか細い泣き声を出し続けるのは、身の内に潜む生きる力ゆえでした。 何が起こったのか生まれて間もないそのものにはわかりませんでした。 自我というものが芽生えたとき、気が付くとそこにいたからです。 まわりにたくさん居たふかふかとしたものは、いつのまにかすっかり冷たく、そして硬くなっておりました。そのうえには白いものが積もっていて、身を寄せ合ってもちっともあたたかくなりませんでした。 これまではみんなでくっついていれば暖かでした。そうして誰かがみいみいと鳴くと、大きなものがやってきて乳をふくませてくれておりました。 その大きなものも、ほんの少し離れたところで動かなくなっておりました。白いものがその身体をすっかり隠していきます。 みい、とただひとつ、その場で動くものは声をあげました。ちいさな身体がぶるぶると震えます。 だからそれは、みいみいと必死に鳴き続けました。 やがてその場に動くものがあらわれました。 それは黒くて大きくて、かあかあ鳴くものたちでした。 かあかあ鳴くものたちは様子を窺うようにしながら、そのちいさなものをつつきました。みい、と声をあげるとさらにつついてきました。 あまりに痛いので必死にとなりの冷たいものの下にもぐりこむと、かあかあと鳴くものは足を使ってそれをどけようとしてきました。ばさばさと羽音がします。その数はどんどん増えていきました。 みい、とそれは鳴きました。 みい、みい。 みい、みい。 それはこの世に生まれたものがもつ、純粋な本能のようなものでした。 そのときなにやら風を切る音がして、かあかあと鳴くものたちが空へ逃げていくのがわかりました。 羽音とともになんでしょう、ぶん、ぶんと大きな音がしました。 やがてあたりはしんと静かになりました。 小さなものは冷たいものの下に潜り込んでおりましたが、やがてなにやらあたたかなものにそっとつまみ出されました。 「赤ん坊猫か……。生きているのはおめえだけか……」 そんなしわがれた声に、ちいさな猫という生き物はみいと声をあげました。 拾ってくれたのは、年老いた人間の男でした。 陽にこんがり焼けていて、手足は筋張っていてひょろりとしております。 海の近くの小屋にひとりで住んでいて、朝早くから夕方まで船で魚を採っておりました。 口数は多くなく、愛想もない老爺でしたが、必ず猫のために魚を一匹多くとってきてくれました。 拾われたばかりのころは、魚の身を噛みきれない子猫のために、その身をすりつぶして与えてくれたりもしました。傍によるとそのがさがさとした手で頭を撫でてくれました。 火をつけるために壺に溜めてある魚の油を舐めようとしてひっくり返したときはさすがに叱られましたが、それでも一晩経てば許してくれました。 「もうやってはいかんぞ」 老爺はごろごろと喉をならす猫を撫でながらしかめつらに言いました。 「油を舐めすぎるとしまいにはおっぽが割れて、猫又という怖え化け物になっちまうんだからな」 老爺はその油を使って囲炉裏の中に火をつけます。それはあっというまに生み出される、不思議であたたかいものでした。 冬の寒い日など傍に寝転がるだけで暖かいし、火であたたまった老爺の膝に蹲るともっともっとあたたかいのです。 猫は思いました。 今はあのときのようなひもじさはありません。 暖かな家だってあります。 それになによりあのときに感じた、身の内を蝕むような切なさはもうどこにもありませんでした。 心細くて寂しくて、死に囲まれてみいみい鳴いていたころが嘘のようでした。 この老爺と一緒に居れば、それはずっと感じずにすむのだろうと思いました。 だから思いました。 ずっと一緒に居たいなあ、と。 猫は男の腕に頭をすりよせました。 そうすると男も乱暴にその頭を撫でてくれます。 ぶっきらぼうで、猫を呼ぶ時も「おい」としか言わない男でしたが、それでもすべてがとてもあたたかいことを猫は知っておりました。 だから猫は、とてもとても幸せだったのです。 しかし、猫が拾われて三つ季節が廻った時のことでした。 老爺の住む小屋に、ひとりの男がやってきたのです。 それは若い男でした。身体は大きくてがっしりしていて、けれどもどことなく老爺と似た臭いを持っていました。 男と老爺はなにかを話していました。 正確にいうと男がなにかを一方的に話し、時折老爺が首を振っておりました。 猫は部屋の出入り口の隅に蹲って、その光景を眺めておりました。 カネ、カネ、という言葉だけがひどく耳に残ります。 やがて男は何か叫びながら立ち上がり、出入り口に置いてあった壺を蹴り壊し、ついでに猫をも蹴り飛ばすと足音高く出ていきました。 突然の痛みに猫がびっくりしていると、老爺が慌てたように抱き上げてくれました。 そうしてすまんな、と憔悴した体でつぶやきました。 猫はどうして老爺が謝るのかなあと思いました。 猫はしばらくの間動けませんでした。 老爺は動けない猫に水を飲ませてくれたり、子猫のときのようにすりつぶした魚の身などを与えてくれました。 それすら飲み込めないときは、大切な魚の油を舐めさせてくれました。 「あいつよりもおめえはもう、儂の息子のようなもんだなあ……」 蹲っている猫の傍で、老爺がぽつりとつぶやきました。 「名を考えてやらにゃあな……」 猫にはその言葉の意味はわかりませんが、なぜだかそれはひどく嬉しいもののように思えました。 或るあやかしの嫁取り7 2012・2・26
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