「或るあやかしの嫁取り」

或るあやかしの嫁取り5






次の日の朝、目が覚めた娘は傍の座布団にいつものように丸くなっている猫を見てほうと息をつきました。
ぐるりとみわたしてみても、昨日のひとの姿は見えません。
あれは、夢だったのでしょうか。
けれど、てのひらを胸にあてると昨日の嬉しくてならない気持ちがじわじわと熱をもってそこにあるのを感じました。
あの約束は、こどもにとってとてもとてもうれしいことだったのです。
もしも夢であったとしても、やさしくてうれしい夢でした。だからそれでもよいやと思うことができました。
「猫さん猫さん、昨日はとてもよいことがあったのですよ」
そう報告すると、大好きな猫は片目を開けてどこか眠そうにぶにゃあと答えてくれました。


その日の夜、こどもはわくわくとその人が来るのを待っておりました。
月が黒い屋根のほうから昇り、そうして中天にさしかかりましたがその人は来ません。
こどもはやっぱり夢だったのかといささか肩を落とします。
しかし、そうしてうとうととしていたところに畳を踏みしめるかすかな音が身体に伝わってきました。
こどもはぱっと飛び起きました。そうして、いつのまにか部屋に入ってきていた金の髪の人を見てふにゃふにゃと相好を崩しました。

「……今日はつめとぎはしませんでした」

そういうと薄闇の中でその人は笑ったようでした。

「そうか。それは良い子だ」






或るあやかしの嫁取5









それからその人は、約束通り毎晩来てくれました。
こどもがうとうとした時に現れて、うとうととしたときに去っていきます。
足音も気配もない、とても不思議な人でした。


その人の話すことはすべてが新しくて、すべてが素敵なことばかりでした。
どこまでも広がる田んぼで暮らす人々の話、それを治めていた人の話。
遠い国に住む人たちの話。青くて大きな、塩辛い水でできているという海の話。
深い山に居る人や動物の話、不思議な力を持つあやかしや神様の話。
その人はとてもいろいろなことを知っているようでした。

そして、こどもの少しばかりの特技も見てくれました。
それはおかあさまから教わっていた文字や数の計算で、それを見ると金色のひとはたいそう喜んでくれました。


そのようにして幾晩を共に過ごすうちに、こどもにほんの少し変化がありました。


その日も、その人は色鮮やかな着物を羽織っておりました。
そうしてそれに負けないくらいの綺麗な色の瞳がやさしくこどもを見ています。
こどもは胸に手をあてました。
このごろ金色の人と居ると、なぜだか心の臓が早く打つような気がするのです。
それは苦しいような嬉しいような、いうなれば甘やかなものでもありました。

金色の人が座ったので、こどもはいつものようにそっとそのそばに寄りました。
けれどそのやさしげな瞳を見ているともっともっと胸が苦しくなるような気がしたので、その人の着物の柄に目を落とします。
するとそのとき、ふっと記憶が頭の隅をかすめました。

「この着物……」
「ん」
「おかあさまのものに似ています……」

ぽつりと言うと、その人は実にあっさりと答えました。

「ああ。そこに入っていたのを拝借したからのう」

そういって部屋の隅にある古びた棚を指差します。

「……悪かったか? 」
「いいえ」

こどもはあわてて首を振りました。その着物はこどもにとって唯一残された「おかあさまのもの」でしたが、こどもには大きすぎて、どうせ着ることのできないものだったのです。
ならばこの人が着てくださるならそのほうがずっといい。
そう、素直に思いました。

金色の人は着物の袖をひっぱりながら首をかしげ、そうしていたずらっぽく瞳を細めました。

「すまんな。けど、さすがにこの姿ですっ裸というわけにはいくまいて」
「裸……ここに来る前は、ずっと、裸なのですか? 」
「ああ。けれどおぬしらと違って毛皮があるからのう。あたたかいぞ」
「……? 」
「まあいい」

その人はくすくすと笑います。
そうしておもむろにあぐらをかいた状態の自分の膝をぽんと叩きました。

「今日は冷える。ほら、ここに座るがよい。話をしよう」


こどもがおずおずと近づくと、その人はこどもの身体をひょいと抱え上げて自分の足の間に座らせてくれました。そうして両腕でこどもの身体を包んでくれます。
それはとてもゆったりとあたたかくて、こどもはふいに「おかあさま」のことを思い出して泣きたくなりました。おかあさまも時折、こんなふうにしてこどもを抱きしめてくれたのです。

どこか嬉しげなこどものようすを悟ったか、金色の人が優しい声で問いかけてきました。

「気に入ったか」
「はい」

こどもはこっくりと頷きます。
それに、この体勢のほうが金色の人の瞳を見なくてすむので、胸が苦しくならずにすむなあとも思いました。

「そうかそうか」

けれども頭の上のほうで響く低い声を聴いているだけでもどきどきと心の臓はうるさく、ちっともおさまる気配はありません。
こどもはひっそりと首を傾げました。
また「病」なのでしょうか。
けれどもそれはなぜか嫌なものには思えなかったので、こどもは頬を染めたまま黙って金色の人の胸に身体をあずけるのでした。


「そういえば」

そのようにしていつものようにお話を聞いていると、ふいに金色の人がこう尋ねてきました。

「おぬしには名はないのか」
「名? 」

こどもはきょとんとしました。
身体を捻って金色のひとを見上げます。そうしてそっと口を開きました。

「名とは、なんでしょう……」

金色の人はその言葉にわずかに瞳を見開きました。
しかしすぐに優しく笑い、ふうと息を吐きます。
そうして腕に力を入れてぎゅっとしてくれました。

「まあよい。どうせわしにも名という代物はない。呼び名ならあるが、あれは名としての効力はないから論外だしのう」
「……? 」
「名はひとが誰かに向かって生み出すものだ。その相手を決定付けるもの。縛るもの。……形を定めるもの。神とひとにしかできん、生み出しの技だ」
「……おかあさまが、昔わたしを呼んでいた言葉が「名」なのでしょうか……? 」
「だろうよ」

こどもは俯きました。
おかあさまが昔、こどものことを呼んでくれていた「言葉」。
しかしいつか「おにいさま」がそれを聞いて激怒し、だからそれからは呼んでくれなくなったもの。
はるか、はるか昔の記憶はこどもの頭をかすめはします。しかしそれをくっきりと掴み取ることはできませんでした。

「忘れてしまいました……」
「まあ気にするな」

しょんぼりとするこどもの頭を力強い手が撫でてくれます。

「わしには名づけてやることはできんが、なくても別に困りはせん。むしろ縛られなくてよいものだぞ」
「あの、あなたさまにも名が、ないのですね……」
「ああ」
「…………」
「わしには名づけてくれるものはおらんかったからな。拾ってくれたものは居たが、なんせ頑固爺じゃった。名なんぞつけずにおい、おい、と呼ばれていた」
「そうなのですか? 」
「ああ。しかし」
「はい」
「なんの気紛れかつけてくれようとしたことはあったのう。何日も考えておったようじゃ。だが……」

金色の人はこどもの頭を撫でながら、あいかわらずの低くて優しい声でそっと続けました。

「その前に、死んでしまった」




朝になると金色のひとは消えていて、こどもはいつも布団の上で横になっておりました。
こどもの大好きな猫は最近はなぜだか夜になると姿を消すのですが、朝になると帰ってきていて、こどもに寄り添うように一緒に居てくれます。
だからこどもは起きてすぐ、横でごろごろしている猫に前日の晩のことをすべて報告しておりました。

来てくれる金色のひとがとてもやさしいこと。
とても物知りなこと。
ぎゅうと抱きしめてくれたこと。
慰めてくれたこと。
名のこと。
最近一緒に居るとどきどきと胸が苦しいこと。
でも嬉しいこと。


そして、昨日のそのひとはほんの少し悲しそうであったこと。



ちょっぴり緊張しながら打ち明けると、猫は寝ころんだままふさふさとしたしっぽを揺らすのでした。








或るあやかしの嫁取り6


2012・2・19










或るあやかしの嫁取り









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