「或るあやかしの嫁取り」

或るあやかしの嫁取り4






こどもはずっと、座布団のうえに横たえている猫のそばにおりました。
とはいえできることなどほとんどありません。こどもが傷に触れようとするとひどく嫌なお顔をするので、お水をもってきてごはんを目の前においておくぐらいしかできませんでした。
それでもそばを離れなかったのは、怖かったからでした。
「おにいさま」がまたやってきたたき猫を守れるのは自分だけです。
それに、一瞬でも目を離すと猫が「おかあさま」のようになってしまう気がしたのです。
猫の傷はとてもひどく見えました。
しかし三たびおひさまがのぼっておちるころには、すっかりふさがっているようでした。
座布団から起き上がってこどもを見上げてにゃあと鳴きます。
「……猫さんはすごいのですね。わたしならもっともっと寝込んでいると思います」
猫と目を合わせてしみじみとそういうと、猫はちょっぴり誇らしげにふさふさとしたしっぽをもちあげました。

「おにいさま」はあれから一度も顔をみせませんでした。
けれどもこどもはずっと気になっていることがありました。
「おにいさま」が言ったことばのこと、そして肌が粟立つような、ぞうっとするくらいくらい瞳の色のことでした。





或るあやかしの嫁取4









こどもは無知でした。
生まれてこのかた言葉をかわしてきたのはおかあさまだけでした。
しかもそのおかあさまはもうこどもの側にはおりません。
だからひとりぼっちのこどもは、とてもとても無知だったのです。


「おかあさまは、死んだそうなのです」
娘は膝の上にのぼってきた猫に話しかけました。猫は素知らぬ顔で額をすべるこどもの指に目を細めております。
けれど、次にこどもの口から滑り出た言葉にほんの少しだけ片耳を動かしました。
「……『しんだ』って……『ころした』って、いったい何なのでしょうか……? 」


それからこどもはしばらくぼうっとしておりました。だれもこどもの問いに答えてくれませんし、一生懸命考えても考えても、やっぱりわからないことでした。
やがて猫がこどもの膝から降りてゆき、よっこらよっこら庭の木で爪とぎをはじめました。
こどもはその様子もぼうっと見ておりましたが、やがて自分も庭におりると猫の側に立ちました。
木で爪をとぐようすがとても気持ち良さそうに思えたのです。
「猫さん」
今のこどもには、何もすることがありませんでした。
しかし、かつてはおかあさまの真似をしていろいろなことを覚えておりました。自分が「殺した」という、おかあさまのことを思い出しているうちにそのことを思い出したのです。
そうして何かを「知る」ことが、とても楽しかったことも。
「わたしもやります」
こどもはだから猫の真似もしようと思い、木で爪をひっかいてみました。
二度、三度。
するとばり、と音がして人差し指の爪がはがれてしまいました。
ついでずくずくとした激しい痛みが襲ってきます。
ぽとりと落ちた白い爪のうえに指から赤いものがぱらぱらと零れ落ちました。
「……あ、いたい……」
猫はその蒼い瞳を丸くしてこどもを見上げておりました。



その夜のことでした。
こどもはなかなか寝付けませんでした。
昼間にはがれた爪が痛かっただけではありません。
「おにいさま」のことばがやはり気になっていたからでした。
こどもは「殺した」ということがわかりませんでした。
けれども、その言葉にひそむ不穏な気配を感じ取ってはいました。すごくすごく嫌なものだということはわかっておりました。たぶん「おかあさま」にはもう会えないことなのだろうと漠然と感じておりました。
そのことを考えるだけで、わけもなく涙が流れてくるのです。
おかあさま。
おかあさま。
ぐすぐすと布団をかぶって長いこと泣いておりますと、ふいにあたたかなものがこどもの頭に撫でる様に触れました。
こどもはびっくりしました。
猫さんでしょうか。
頭にかすめた答えを、けれどもこどもは振り払いました。
なぜならそれは、金の猫のようにふかふかの毛並みなどないようだったからです。
大きくてあたたかなそれは、猫ではない、すべすべとした「人」の手であるようでした。

こどもは布団の中で目を瞠りました。
この感触に覚えがあることに気づいたのです。
それはほんの少し前の夜に、自分を撫でてくれていた手に間違いありませんでした。
おかあさま。
その答えが頭の中にひらめきました。

「おかあさま……! 」

名前を呼びながら布団をめくったこどもの目に飛び込んできたのは、しかしおかあさまの姿ではありませんでした。
おかあさまよりもっと明るい髪の色をした、それは知らない「人」でした。

娘はぽかんとその人を見上げました。
今まで見たことのないひとです。軽く羽織ってある色鮮やかな着物だけはどこかで見たような気がしましたが、長い手足は着物の端からすらりと伸びておりました。
「おかあさま」のようにほっそりとはしておらず、どこかがっしりとした身体はどちらかというと「おにいさま」に似ているようにも思いましたが、そのひとは黒い髪に瞳ではありませんでした。あのぞうっと身のすくむような、怖い気配を持ってもいません。
闇月のあかりの元でも陽光のように輝く綺麗な髪の色をしておりました。白い顔のなかにあるすうっと整った切れ長の瞳は、晴れ渡った空のような蒼色をしております。
その瞳をふいに細めて、びっくりするほど綺麗な男の人は口を開きました。

「―――おぬしは哀れな娘よのう」

その声はおかあさまのそれよりうんと低くて、それなのに同じようなあたたかな響きをしておりました。
思わずぽかんとするこどもを見て、その人はふうっと風がそよぐかのように微笑みました。

「さて、おぬしには礼をせねばな。……おぬしの願いをひとつだけ叶える、というのはどうか」

深い闇の中、きれいな蒼い瞳が不思議な光をはなっております。
男の人はあたたかな声のまま続けました。

「ここから出たいか。それとも……」

その言葉は甘やかに闇の帳にながれました。


「おぬしを此処に閉じ込めている男に復讐してやりたいか」



こどもは無知でした。
だからしばらくはただただぽかんとその人を見上げておりました。
障子の隙間からこぼれる月の光が男の人の輪郭を金色にかたどっております。
おかあさまのものよりも明るい色の髪の下で、どこかで見たことのあるような色の蒼い瞳が静かに娘を見下ろしておりました。
やはり何度見てもおかあさまではありません。
しかし娘は気づきました。
がっしりとしていながら伸びやかな身体に羽織っているのは箪笥の中にしまっておいたおかあさまの着物でした。白い生地に大きな赤花の絵柄が散りばめられているそれは、なぜだか男の人にも奇妙によく似合いました。
綺麗な瞳を見て、そうして見慣れた着物を見て。
それでようやく心がほっとしたのでしょう。
ようやく、その人の言葉が娘の頭の中に染み渡ってゆきました。
「……いいえ」
娘は無知でした。
しかし一生懸命考えて、やがて言葉を紡ぎました。
「わたしは何も知らないのです。殺した、の意味も。ふくしゅうの意味も。外に出るってことも。外ってどういうものなのでしょう」
その人はほんの少し驚いたようでした。驚いて蒼い瞳を瞠ったさまも、とても綺麗なものに娘には思えました。
「だから知りたいです。ねがいを叶えてくださるというのなら、わたしは、わたしにいろいろなことを教えてくれる……おはなししてくださるひとが欲しいです。そうでないと、わたしはこのまま物のようになってしまう気がするのです」
「……」
綺麗な人は少しの間娘をみつめておりました。
しんとした静寂が部屋の中に満ちていきます。月の光は白く、その静寂を彩っておりました。
そうしてその人は、やがてそうっとその唇に笑みを浮かべました。
「……ふうむ。なるほど、おぬしは思っていたよりも聡明な娘のようだ」
そうして、こどものあたまにそのてのひらが伸ばされました。それはやさしくこどもの頭を撫でてくれました。
「わかった。わしが教えよう。ここに居る夜の間だけでも」
「夜のあいだ……」
「ああ。毎夜、おまえの話し相手になってやろう。昼は無理だ。まだ長いこと人の姿はとれんでな」
こどもはきょとんとしました。最後のことばは何を言っているのかはっきりとはわかりませんでしたが、それでも毎日会えるということだけは理解できました。
「今日はもうよいだろう。寝たほうがよい」
「は、はい」
こどもは素直に頷きました。
けれどじわじわと胸のおくからわきでてくる嬉しい感情はおさえきれませんでした。いまだ頭にある手のゆくもりも離れがたいものであるように感じました。
こどもは布団の中から、傍らに座ってあるその人をおずおずと見上げました。
「本当に、あしたの夜も来てくださいますか」
「ああ」
「ありがとうございます」
「ああ」
「本当に、ありがとうございます」
「ああ……」
綺麗な男の人は薄闇の中で苦い笑みをうかべたようでした。
「かならず来てやるから、寝るがよい」
「はい……」
もういちど頭を撫でられると、ふうっと眠気がおそってきました。
とろとろとしたまどろみの中、その人がああそうだ、という笑い含みの声がかすかに聞こえてきました。


「おぬしに爪とぎは無理だ。あれだけはやめておけ」











或るあやかしの嫁取り5


2011・12・10










或るあやかしの嫁取り









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