或るあやかしの嫁取り3 |
その黒い髪の男の人の名前をこどもは知りません。 おかあさまは「おにいさま」と呼んでおりました。 しかし自分にとってそのひとはどういう存在なのか、まったく知らないのです。
或るあやかしの嫁取3
次の日の朝目が覚めると身体が大分楽になっているように感じました。 ぼうっとした頭のまま、こどもは昨日の夜のことを思い出しました。 おかあさま、と掠れる声で呼んでみましたが返事はありませんでした。目を開けて頭をまわしてみても、あの月の光のような髪の人はどこにも居ませんでした。ひとが居た形跡さえありません。 居るのは傍らの大きな猫一匹だけでした。 こどもは起き上がり、片手で目をこすりました。朝の冷たい空気にかすみがかったようにぼんやりしていた頭が少しずづはっきりしてくるのを感じます。 夢でおかあさまが助けてくれたのでしょうか。 それとも本当におかあさまが来てくれたのでしょうか。 とてもやさしく触れてくるひとの手を思い出すとこころのそこから温かいものが溢れてくるようで、こどもは知らないうちにそうっと頬を緩めました。 隣を見ると、猫が身を起こして昨日と同じように一生懸命その毛並みを舐めていました。不思議なことに、からだについてある血も傷さえもほとんどなくなっております。 「おはようございます。猫さん」 こどもはそっと声をかけました。 「昨日、すごくよいことがあったのです。猫さんはいかがですか? 」 そういうと猫はほんの少しだけ目を上げて、ぶにゃあと可愛くない声をあげました。 あくる日もその次の日も、猫はみるみるうちに元気になっていきました。 太陽のひかりを集めたかのような色の毛並みもだいぶきれいになり、いかにもふかふかと気持ちよさそうでした。 元気になった猫は娘の差し出すごはんをもりもり食べます。 そうしてゆっくりゆっくり歩いてみたり、庭の木で爪を研いでみたり、ごろんと転がっては気持ちよさそうにお昼寝をしておりました。 こどもはその様子を嬉しく見ておりました。この場所に自分以外の生き物がいて、のびのびと動いていることが、なぜだかすごく嬉しかったのです。 やがて猫はこどもの側にもやってくるようになりました。 その毛並みを撫でさせてもくれるようになりました。 ふっかりとした金の毛は優しい手触りを指に伝えてきます。 あごの下や耳の裏を撫でると猫はごろごろと満足そうな声を洩らしました。 「猫さん、猫さん」 こどもは嬉しくて、たくさん猫に話しかけました。 「おからだが良くなってよかったですね」 「ごはんはおいしいですか」 「猫さんはどこから来たのですか」 おかあさまが居なくなって以来、こどもはすっかり言葉を使うことを怠っていたのですが、猫のおかげで少しずつ話すということを思い出していきました。 はじめは単に「話す」ということがすごく楽しかったのですが、こどももひとりの人間ですから、やがてほんのちょっぴりだけ思うようになりました。 「猫さんの言葉がわたしにもわかればよいと思います」 猫はどうでもよさそうにぶにゃんと鳴きました。 おかあさまはあの夜以来、やってきてはくれませんでした。 だけれどこどもはさびしくはありませんでした。 今は金色の毛並みの猫が側に居てくれるからです。 怪我もだんだんと良くなっております。 もうすこしで本当によくなるのでしょう。そうしておそらく自分のもと居たところへと戻るのでしょう。 それをこどもはちょっぴり寂しく思いました。 それでも猫がよくなってくれるのは嬉しく思っておりました。 からだが痛いのも苦しいのも、凄く大変なことなのです。 それをよく知っているこどもは、だから素直にそう思っておりました。 ごはんを少し多くしてくれませんか。 とびらの向こうの人にそうお願いした次の日、この小さな居場所にひとりの人物が突然やってきました。 それは、いつかおかあさまが「おにいさま」と呼んでいたひとでした。 こどもはびっくりしました。 あわてて猫を隠そうとしますが間に合いません。猫はこどもの膝のうえで丸まっておりましたが、ほんの少しだけ顔を上げてちらりと「おにいさま」を見ました。 こどもは何も言わずに立っている男の人の目から猫を少しでも隠す為に、ぎゅうと猫を抱きしめました。この猫が、いつかの子猫のようにように壁に叩きつけられるなんて嫌だと思ったからでした。 しかし男の人は目の前の小さな生き物にも娘にも、まるで顔色を変えませんでした。 白い顔の中にある黒い瞳もさえざえとした光を宿したまま揺るぎもしません。ちらりと部屋の中を見渡すさまも、まるでまっしろな陶器で出来た表情のない人形のように思えました。 かつてこの部屋に来ていたこの男の人はこんなふうではありませんでした。言葉は少なかったのですが、おかあさまに対するときの様子はもっと「動くもの」を感じました。 嬉しさや悲しさ。 そしてもっとたくさんの感情をぐちゃぐちゃにかきまぜたような、そんな瞳でおかあさまを見ておりました。 こどもはそこで思い出しました。昔、男の人は動かなくなったおかあさまを連れて行ってしまったことを。そうして、そしてそれきりおかあさまが戻ってこなかったことを。 「あ、あの」 こどもは気力を振り絞って男の人に震える声をかけました。しかし男の人は答えてはくれません。 部屋と庭を一瞥すると、一言も口にすることなく踵を返そうとしました。 こどもは慌てました。 おかあさまは帰って来てはくれないのでしょうか。 それだけは、どうしても知りたかったのです。 だからこどもは、そのまま去っていく男のひとの背中に続けました。 「あの、あの、お、おかあさまは……」 その言葉に男の人はひたりとその足を止めました。しんとした静寂が訪れます。 うしろむきなのでその表情はみえません。きれいな紋様のびっしりと刺繍された着物のうえでは、束ねられた黒い髪の毛が流れておりました。 こどもの目には、その黒い、つややかな髪の毛がひどく珍しく映りました。おかあさまもこどもも、こんな髪の色ではなかったからです。 ぼうっとそれを見ていると、男の人がゆっくりとこちらを向きました。髪の毛と同じような黒い瞳が娘のそれと合います。 その瞬間、なぜだかこどもはぞうっとするものを感じました。 「おかあさま、だと……? 」 さえざえとした瞳の奥になにかぎらぎらしたものが宿るのをこどもは見ました。 膝の上にいる猫がぴくりと身を揺るがせます。そうしてわずかにその毛を逆立てました。 「お前が殺したくせに何をぬけぬけと……」 ぼそりとつぶやかれた低い声は、どろどろとしたくらい闇を伴っておりました。 「ころした? 」 こどもはぽかんとつぶやきました。 「ああ。お前があやつを殺した」 男の人の声も瞳も、凍えそうなほど冷たく、そのくせひどい激情を内包しておりました。 「お前が生まれなければ、ここにいなければ、あやつは死ぬことなどなかった」 ぎしりと畳が音をたてました。 男の人がこどもに一歩近づいたのです。そうして、さらに一歩。 怖い。 はじめてこどもは思いました。 怖い。怖い。 しかしぞっとするほどの身をすくませる気配にこどもは動けませんでした。 その凍える空気の中動いたのはこどもの膝の上にいた動物でした。 のそりと膝の上からおりると男のひとからこどもを守るように立ちふさがります。 そうして毛を逆立てて大きな唸り声をあげました。 男のひとのぎらぎらとした目が、こどもの目の前の猫に移ります。 そのようすに今度はこどもが我に返りました。脳裏にあのときの子猫の姿がよみがえります。 だからふるえそうな身体をなんとか動かして、大きな猫をあわててかばおうとしました。 しかし間に合いませんでした。 猫は男の人の足に蹴り飛ばされてしまったのです。瞬間、赤いものがぱっと畳に飛び散りました。 それはようやくふさがりかけた猫の傷であることはすぐにわかりました。どすんと壁にあたってそこで蹲っている猫のしたからはじわじわと赤いものが染み出ておりました。 「あ……」 こどもはそのとき、心臓がえぐられたかのような感じがしました。ばくばくと心臓が苦しくなって、頭がなにも考えられないくらいくらくらしました。 「や、やめて……! 」 こどもは叫びながら立ち上がりました。男の人は大きく、こどもはその腰ほどの背丈しかありませんでしたが、それでも男の人の黒い瞳を必死にのぞきこみました。 「やめてください、『おにいさま』……! 」 こどもは男の人の名前を知りません。 しかし、「おにいさま」というのがその男の人の呼び名ということだけは知っておりましたので、そう呼んだのでした。 それはどうやら、正しかったのかもしれません。 男の人はそれにはっとしたように動きを止めました。 目を見開き、こどもをみやります。その黒い瞳にはさきほどまでの激情はなく、なにやらぐちゃぐちゃとしたさまざまな感情の色が宿っているように見えました。 男の人はしばらくこどもを見下ろしておりましたが、やがて踵を返して小さな扉から出て行ってしまいました。 こどもはがくがく震える足を動かしてなんとか猫のそばまでくると、膝まづきました。 猫さん。猫さん。 祈るように呼ぶと、猫は小さくみじろぎをして、弱弱しいながらも声を上げてくれました。 「よかった……」 こどもはつぶやいて、両手を畳についたままぽろぽろと涙をこぼしました。 この猫にはぜったいぜったい、「動かなくなってほしくない」。 そう、はじめてとも思えるくらい強く思ったのです。 或るあやかしの嫁取り4 2011・11・20
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