或るあやかしの嫁取り:最終話 |
「……わたし、ねこさまのこどもが欲しいです」
或るあやかしの嫁取:最終話
その言葉にあやかしは青い瞳を一瞬瞠り、そうして急に声を上げてからからと笑い始めました。 小春はびっくりしてあやかしをみつめます。 迷惑だったりお嫌だったりするかもしれないとは思っておりましたが、まさかこんなに大笑いされるとは考えていなかったのです。 「おぬしは本当に面白い娘よのう」 あやかしは心底おかしそうに言い、そうして目の端に浮かんだ涙を拭いながらさらに肩を震わせました。 「あやかしを救うだけでなく、そのあやかしの子まで欲しいというか」 「え、は、はい! 」 小春はあわてて頷きました。 だってそれは本当の本当で、ゆるぎない事実なのです。 「ねこさま、あの……駄目なのでしょうか……? 」 「いや駄目ではないが」 「こどもが駄目ならこねこでもよいです」 「いやいや」 あやかしはくつくつと笑みを喉の奥に押し殺しながら、笑みの形に細めた瞳で小春をみつめます。 そして、低い声でやわらかく言葉を紡ぎました。 「本来あやかしには子ができん。何故だかそのようにできておる。永命のうえに子まで成していてはこの世はあっというまにあやかしばかりの世界になるだろう。だからそのようにできておるらしい」 「そ、そんな……」 小春は今にも泣きだしそうにその眉を下げました。 だってそれは、せっかく認識したつよいのぞみだったのです。 これまで思ったこともないくらいつよいつよいものだったのです。 そんなこどもをあやかしは、口の端に笑みを残したままみつめました。 「だが……そうだな、試してみてもよい。ひとの想いは強い。それでなんでも生み出してしまう。それでどうにかなるやもしれん」 「え……」 「だがそれには、おぬしがもっと大きくならねばなるまいて」 そういうとあやかしは大きな手で子供の頬に触れました。 いたずらっぽく青い瞳が細められます。 指でちいさな唇をなぞり、やわらかな耳朶に触れ、やがて亜麻色の髪に手を滑らせると、そのままくしゃりと撫でられました。 「おぬしが大きくなって、もしもそのときに、まだあやかしの子を成したいと思ったら呼べばよい。わしは、おぬしの声に答えようぞ」 「大きくなって……? 」 「ああ。そのときにわしのことを覚えておればの話だが」 「……え……? 」 こどもはその言葉に、はっと息をのみました。 小春は無知でしたが聡いこどもでした。だからその言葉の意味を感じ取ってすうっと青ざめたのでした。 そうして金色のあやかしが言ったことを思い出しました。 明日はもう少し走るといったこと。 小春の「のぞみ」をなんでも叶えてくれるといってくださったこと。 ――そう。 明日のあやかしには、どこか「目的地」があるのです。 そうしておそらく、そこに小春を置いていくつもりなのでしょう。 だからこそ、わかれの前に、なんでもしてやると言ってくださったのでしょう。 「ね、ねこさま……あやかしさま……」 小春の声は震え、わずかに水の色を含んでおりました。 それにあやかしも気づいたのでしょう。 けれども否定することはなく、ただやさしく微笑むばかりなのでした。 こどもは瞬きます。 そうすると目に浮かんだ水の膜が溢れて、頬を伝いました。唇をぎゅっと結んで、声が震えないようにします。 ほとんど答えはわかっておりましたが、それでも確認せずにはおれませんでした。 「あしたでお別れ、なのですか……」 「ああ」 「どうしても、ですか」 「ああ」 「……でも、わたしは……」 「おぬしは人の世界に居たほうがよい。まだおぬしはこどもだからな」 「…………」 こどもは唇を噛みしめて、そうして俯きました。 あやかしの声音はただやさしいばかりでしたので、きっとその選択は小春のためを思ってのことなのだということはわかりました。 ほんの少し動いただけで熱を出す自分。 動くことすらできなくなる自分。 とても身体の弱い、ちいさなこどもでしかない自分。 それはこのやさしいあやかしの足かせにしかならないこともわかりました。 けれども理解と感情はべつものです。 小春はこのあやかしと、やはり離れたくありませんでした。 だから両手を伸ばして金色のひとにしがみつきました。 胸に顔を寄せ、声を殺して泣きじゃくります。 ゆるりと身体に回された腕は、強く強くこどものことを抱きしめてくれました。 ざあざあと滝の音が響きます。 小春はひとしきり泣いた後、それでもやはり震える声であやかしに尋ねました。 「……お、おおきくなったらおむかえに来てくれますか」 「ああ。……おぬしがのぞむならわしを呼べばよい」 「でも、わたしはすがたがかわっているかもしれません。ねこさまはわたしのことを、わ、忘れてしまうかもしれません……」 その言葉に、ふっと金色のあやかしは笑いました。 そうして言います。 「大丈夫だ。……おぬしは良いにおいがする」 金色のひとはすこしだけ体勢を変え、こどもの首筋に鼻をうずめました。 「すぐに、わかる」 優しい声は小春の肌を震わせ、耳にやわらかく届きます。 その声に、こどもはさらにその琥珀色の瞳から涙をこぼしました。 こどもにはもうわかっておりました。 この別れはどうやっても変えられないことを。 金色のあやかしが、どうやっても変えるつもりがないことを。 小春はぐっと唇を噛みしめます。 震える声を押し込めて、そうしてなんとかことばを紡ぎ出しました。 「では……では、大きくなったわたしはねこさまを何とお呼びすればよい、ですか……」 「なんとでも呼べ。どうせそこらのあやかしからは金猫だの五尾だの、通り名で好きに呼ばれておる」 琥珀色の瞳のこどもは、大きくしゃっくりあげました。 あやかしの胸に顔を埋めていたこどもは、やがて片手で涙を拭い、そうしてこどもの首筋に顔を埋めている金色のひとの頭にそっと触れました。 「では……では、わたしがおなまえをお付けしてよいですか」 その言葉にあやかしがはっと顔をあげました。 こどもは思い出したのです。 それは金色のひとが教えてくれたことのひとつでした。 あやかしは本当の名を生み出せない。 ひとだけが生み出すことのできるもの。 自分には名をつけてくれるものはいなかった―― 「わたしでは、ねこさまのおじいさまの代わりには到底なれないけれど……」 こどもは驚いたように自分を見つめてくる金髪の青年の瞳を覗き込みます。 そうして、涙でぐちゃぐちゃの顔をそれでもなんとか笑みの形にして、こう言いました。 「……わたしはねこさまを、ちゃんとお呼びしたいのです」 次の日、太陽が昇る前にふたりはその岩場を出立しました。 五つの尾の、巨大なあやかしの背にこどもは乗り、そうして昨日と同じように金色の毛並みに顔を埋めました。 小春は小さくなっていく岩場をそっと振り返ります。 昨日の夜は、金色のひとにくっついたまま過ごしました。 けれどもどれだけぎゅうとくっついても、その距離だけではちっとも足りませんでした。 決めたばかりの名前を呼ぶと、金色のひとの腕により力がこもります。 それは小春の呼吸が苦しくなるくらいつよいものだったのですが、それでもちっとも足りないことを、小春はもう本能で感じておりました。 風にそよぐ大きなあやかしの金色の毛並みに顔を埋めていると空の色が変わってきました。 薄い藍色から紫へ。そうして水で溶かしたような青い色へ。 きれい、と小春はつぶやきました。 大猫は西に向かって走りつづけました。 そうして行き着いた先は山の緑と田畑の金色に包まれた、なかなかに大きな集落でした。 その中でもいちばん大きな屋敷にむかってあやかしは駆け、そうしてその立派な庭先でその足を止めました。 その庭先に面した屋敷の一室のふすまは開け放されており、そこではひとりの女の子がきちんと正座をして座っておりました。 その女の子は、庭に舞い降りた金色のあやかしに向かって苦笑するふうに口を開きました。 「……五尾猫か。なんじゃ、ほんとうに連れてきたのか? 」 「ああ。頼むぞ、童子」 小春は巨大な猫の背から滑り降りると、やはり昨日と同じようにへたへたと座り込みました。 そんな小春を両手でひょいと抱えたのは、やはりいつのまにか人の姿をとった金色のあやかしでした。きちんと昨日の着物を羽織っております。 そんな金色のあやかしを、女の子は面白そうにみやりました。 「お前が誰かに執着するなんぞ、ほんに珍しいことじゃ」 金色のひとは苦笑するふうに笑いました。 「そうか? 」 「そうじゃ。わたしが退屈だから書物をもって遊びに来いと言うてもなかなか来んではないか」 「そういうても日本は広いからな。うろうろしているうちにすぐに時が経ってしまう。それに、少し前に持ってきてやったろう」 「お前の『少し』は十年か。もうよい、猫のお前に期待はしとらぬ。まったく。数日前に来たと思いきや頼みごとだけしていきおって」 女の子は呆れたように言いましたが、しかしすぐに小春に瞳を向けると、とたとたと近づいてきました。 「ほう。この子は異国の血をひいておるのかの。これはきれいな瞳じゃ。琥珀色か」 近くで見ると、その女の子は小春よりもうんと幼く見えました。 しかし発せられる言葉は、まるでずいぶん年を取ったひとのようでした。 「五尾、その子は文字と計算ができるのじゃな? それならば身体が弱くてもなんとかなろうて」 その言葉に金色のひとは頷きます。 そうして、腕の中に居る小春に目をやりました。 「小春、これは座敷童子というあやかしだ。前に話してやったのを覚えておるか」 こどもはこくんと頷きました。 それはあの閉じた部屋で、夜な夜なお話してくれたたくさんの物語の中のひとつでした。 住みつく家に幸運をもたらす、こどもの姿のあやかし。 「これはとくに強い座敷童子でな。この家の者もこの周囲の人々も、かなりの恩恵を受けておる。だからたいがいはこいつの言うなりだ。おぬしをここに置くことを承諾してくれてな」 「はい……あ、あの、よろしくお願いします」 金色のひとの腕の中からなんとか頭をさげると、座敷童子と呼ばれた女の子はにっこりと微笑みました。 「まあわたしもその猫には恩があるでな、気にするでない」 「そんなことあったか? 」 「お前はほんに猫頭じゃのう」 座敷童子は呆れたように首を傾げた金色のひとを見やります。 しかしすぐに小春を見上げて、こう続けました。 「わたしの姿が見えるうちはわたしがいろいろと教えてやる。こう見えても昔はひとだったのじゃ。まあ、その猫よりはひとについては詳しい。じゃが座敷童子の姿は大きくなるにつれて見えなくなる。その前に仕事を探し、ひとりで生きていけるようになっておかねばならん。よいか? 」 「は、はい」 「うむ。良い子じゃ」 話が終わると、金色のあやかしは小春を縁側に座らせました。 しかし自分は座らずに立ち上がります。 さあ、と風が金色のひとの髪の毛を流しました。陽光にも、月の光にも冴えわたる金色の髪はそれはそれは泣きたくなるほどきれいでした。 それは自由で大きくて、とても凛としたうつくしい立ち姿でした。 小春を見下ろし、青い瞳が優しく細められます。 「……では、わしは行く。元気でな」 小春はそのことばに、ぎゅっと唇を噛みしめました。瞳がかってに潤んできます。 昨日あれだけ泣いたのに、小春の中のお水はきっともなくなってはくれないようでした。 「ねこさ……いえ」 小春は唇を開き、昨日生み出したばかりの「名」でそのひとを呼びました。 うん、とそのひとは微笑んだまま頷きます。 「わたし、わたし、きっとすぐにおおきくなります。ちゃんと付いていけるくらいじょうぶになります。だから、だから。きっと、約束、忘れないでください」 「ああ」 「ちゃんとおなまえを呼びます。ぜったいです」 「……ああ」 「……い、いままで」 小春は涙をのみこみます。そうしてしずかに三つ指をつき、ふかくふかく頭を下げました。 「……い、いままで、たくさんたくさん、ありがとう、ございました……」 たくさんのことを教えてもらいました。 あの閉じられたお部屋から外に連れ出してくれました。 そしてそれ以上に。 たくさんのきもちをおしえてもらいました。 頭を下げた小春の頭に大きな手が降りてきました。 それは幾度か頭を撫でてくれます。 そうしてその手が離れるとともに、ひとつの優しい言葉がそっと降ってきました。 その言葉に、小春ははじかれたように顔を上げました。 しかしすでに、その金色の姿はもうどこにもありませんでした。 小春は止まりそうもない涙を、それでもこしこしと拭います。 そうして空を見上げした。 その海よりも透みきった透明な色は、大好きな大好きなひとの瞳の色によく似ておりました。 だから小春は青い空に向かって「はい」と答え、そうしてちいさく微笑むのでした。 エピローグへ 2012・4・18
或るあやかしの嫁取り
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