「或るあやかしの嫁取り」

或るあやかしの嫁取り:エピローグ





覚えてなくてもよいのです。
心を留め置く必要もありません。
だってこれはただの、わたしのわがままなのですから。
だから、だから貴方さまは自由に生きてください。
わたしが惹かれた、大好きな貴方さまのままで。

だけれどもし。
とおい未来で、貴方さまが困られたとき。
もしくは……さびしいと感じられたとき。
わたしの血は、必ず貴方さまをお支えいたします。
きっと、きっと。


わたしはただの「ひと」です。
けれどね、これはきっと……きっと叶います。
貴方様は言ってくださいました。
「ひと」というものは実のところとても強いと。
「ひと」の想いはすべてを生み出すことができるのだと。


わたしはだから、とてもしあわせです。
しあわせなのです。



……わたしの大好きな、あやかしさま。








エピローグ






その猫の目が覚めたとき、太陽は斜めに傾きかけておりました。
 うーんと身体を伸ばし、そうして壊れかけた鳥居のうえから眼下を眺めます。
 見下ろす町並みは見渡すばかり石と鉄ばかりになり、緑の木々はほとんど見えなくなりました。
 空は鳥だけのものではなくなり、白い雲をひいて鉄の塊が飛んでいきます。
 地面とて例外ではなく、さまざまな形の鉄の塊が猪のような速さで黒く固められた地面の上を走り抜けていくのでした。
 とはいえ猫もこの状況にはすっかり慣れておりました。
 大きな戦争のあと爆発的に成長したこの国にも、いまだいくつかのあやかしはちゃんと存在しておりました。
 しかしその数は年々減ってきておりました。
 今、猫の居る神社とてそうです。
 そこに居たはずのちいさな神は消え去り、周囲の山は切り裂かれ、小さな四角い家々の連なる団地というものへと姿を変えておりました。
 残されたのは今にも朽ち果てんばかりの鳥居だけ。
 もしかしたらそこに神社があったことすら、人の記憶からは消えてしまったのかもしれません。

 相変わらず定住地を持たない猫があちこち回って思うのは、森も山も少なくなり、海が汚されていくにつれて消えていく、さまざまなもののことでした。



 金色の猫は屋根の上から降り、さて、どこに行こうかと考えました。
 今は着るものがないのでひとの姿にはなれません。
 今や六本の尾を持つ大きなあやかしの姿はそれだけで大騒ぎになるので論外です。
 だから猫の姿のまま、気の向くままにぶらぶらと歩き始めました。

 歩き始めるうちに、なにやらふとふしぎな匂いがしました。
 猫は少し足を止め、そうしてひとつしっぽを振ると、その匂いのする方に歩き始めました。
 少しずつ気が騒ぐような不思議な感じがして、なにやら妙な気分でした。

 そうしてたどり着いた先は、木で造られた随分古い一軒家でした。
 そのわきにはこじんまりとした庭があり、植えられた草花がいくつか風にそよいでおります。
 猫は塀をつたって開いていた小窓からするりとその身体を滑り込ませました。
 家の中にはだれもおりませんが、人が住んでいる気配はきちんと残っておりました。
 家のつくりもずいぶん古いようでした。畳も廊下も、猫の姿でもぎしぎしと音がなるくらいでした。
 物もたくさん置かれています。けれどもそれらは、きちんと整頓されている印象を受けました。
 壁には子供の描いたようなへたくそな絵が貼っておりました。子供が住んでいるのだな、と猫は思いました。
 たいていの猫は子供を嫌うものです。
 しかしこのあやかしである猫はそうではなかったので、ひとまずゆっくり眠れそうなこの家で一眠りすることにしました。

 日のあたる縁側に出てころりと丸まります。
 ガラスを通して降ってくる陽光は心地よく、いつもならすぐに眠りに落ちます。
 しかし何故だか今はなかなかそうはなりませんでした。
 妙にざわざわと胸が騒ぐのです。
 こんな感覚は、ずいぶん久しいことでした。


 そうしてようように眠りに落ちた夢の中、猫はひとりの少女に会いました。
 年のころは十五、六。
 最後に会った姿のまま、その綺麗な琥珀色の瞳は愛しげに猫をみつめておりました。

 そうして娘は、最後に口にした言葉を再び紡ぎました。







「……まだ起きないのかな」

 聞きなれない子供の声に、猫は瞳を開けました。
 その目の前にはちいさな女の子がちょこんと座っていて、不思議そうに猫を覗き込んでおりました。

「あ、起きた。吾郎、起きたぞ」

 女の子はぱっと立ち上がり、奥の部屋へと駆けていきます。
 猫はぱちぱちと瞬きをして、それからうーんと伸びをしました。
 とても懐かしい夢でした。
 いつまでもひたっていたい夢でした。
 だからここまでぐっすりと寝入ってしまっていたのでしょう。

「おっ、侵入者が起きたか」

 やがて奥の部屋から、女の子とともにひとりの背の高い男がやってきました。
 女の子の親にしては若すぎる、まだ少年のような顔立ちの若者でした。

「はー。しかしほんまデカイ猫やなあ」

 妙な言葉遣いの若者がひょいと猫を覗き込みました。
 若者の瞳と、猫の瞳が真正面からかちりと合います。
 その瞬間、猫は青い瞳を見開いて思いきり硬直してしまいました。

 娘の声が脳裏に蘇ります。


――だけれどもし。
とおい未来で、貴方さまが困られたとき。
もしくは……さびしいと感じられたとき。
わたしの血は、必ず……


 若者の匂いはあの娘のものによく似ておりました。
 そして。、それと同じくらいに自分とよく似た臭いも混じっておりました。
 金色に似た髪に琥珀色の瞳。
 髪の色はどちらかというと娘のものより自分のものに似ているような気がしますが、長い年月の中この国の人間の血も入ったのでしょう、いくつかの束は、やや黒みがかってもいるようでした。
 しかし瞳の色は――この国のものには珍しい、きれいな琥珀色の瞳はあの娘のものにそっくりでした。


「……なんだかびっくりしているようだぞ。吾郎が怖いのだろうか」
「えー。それはないわ。こんなやさしい兄ちゃん捕まえてどこか怖いっちゅうねん。なあ、にゃんこ」

 驚きで硬直している猫の頭に、女の子のちいさな指がそっと触れます。
 それをゆっくり動かしながら、女の子は噛んで含めるように言いました。

「……猫、吾郎は無駄に身体が大きいけど怖くはないぞ。大丈夫だ。この家には怖いものなんていないからな」

 それはひどくやわらかくもあたたかい、いつかのちいさな指の感触を思い出させました。
 そんな猫の前で、女の子はかすかに首を傾げます。

「吾郎、この猫は野良猫なのかな」
「そうやなあ、首輪もしてないみたいやしなあ」
「…………そうか。ひとりぼっちなのか……」

 ぽつんとつぶやかれた声はちいさなちいさなものでしたが、あやかしである猫の耳にはきちんと聞こえました。
 ふつうの人間では聞こえないほどの声音。
 しかしそれは知らずあやかしの血をひいている若者の耳にも聞こえたのでしょう。ほんの少しばかり女の子と猫をみつめ、そうしてその両の手を女の子と猫のあたまのうえに伸ばしてきました。

「……うん、そうやな」

 そのままがしがしと乱暴に撫でられます。
 そのたびに女の子と猫のあたまがふらふらと揺れました。

 そんなふたりの耳に、若者の笑みを含んだ明るい声が飛び込んできました。


「そんならこいつも、今日から俺らの家族や! 」




――だけれどもし。


とおい未来で、貴方さまが困られたとき。
もしくは……さびしいと感じられたとき。
わたしの血は、かならず貴方さまをお支えいたします。
きっと、きっと……。


わたしはただの「ひと」です。
けれどね、これはきっと……きっと叶います。
貴方様は言ってくださいました。
「ひと」というものは実のところとても強いと。
「ひと」の想いはすべてを生み出すことができるのだと――




……ああ、そうだな小春。
そうしてお前はわしの欲しいものをなんでもくれていた。
ずっとそうだった。
言葉も、名も。そうしておぬし自身さえも。
どこまでもわしに甘い、甘い娘だった。


だがまさか、死してまでそうだとは思わなかったぞ――。



金色の猫は再び得た「家族」の腕の中で、その青い瞳を閉じます。
そうしてまぶたの裏の娘に向かってそっと語りかけました。





だが――そうだな。


こんな未来も……悪くない。










『或るあやかしの嫁取り』:完

2012・4・21










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