「或るあやかしの嫁取り」

或るあやかしの嫁取り12





はじめて見る外の世界は、こどもの目にはあまりに広く感じられました。
四方に広がる空はどこまでも青く、そうしてあやかしが地を蹴るたびに眼下に広がる町並みは大きなものでした。
小さな建物がぎゅうぎゅうと寄せ集まって、子供の目にはまるでひとつの大きな生き物のようにも思えるのでした。

「これがトウキョウだ。あちらの海に黒船が来た。わしはそれを見物しにきたんだがな、ヤコに会うてしもうてあのザマだ」

ふいに頭の中に金色のひとの声が響きました。
こどもは巨大なあやかしの背中に乗せられておりました。

「ヤコ? 」

ふかふかとした首周りの毛並みにぎゅうと掴まっていたこどもは、陽光にきらめく金色の毛並みをすかしてあやかしの顔をみようとします。
しかしそれは大きくぴんと立った綺麗な耳にさえぎられて叶いませんでした。

「あれが、おぬしの居たところだな」

とんと屋根を蹴って空へと飛びあがり、眼下を見下ろしながら金色のひとはこどもの頭にことばを伝えてきます。
飛び上がった一瞬に見えたものは、その中でもひときわ大きなものでした。
その左寄りの真ん中に、奇妙に壁に囲われたちいさな空間がひとつありました。
何故だかそこに目を惹きつけられたこどもは、そこではっと息をのみました。
見覚えのある木と小さな井戸。
こどもの居た部屋の外のちいさなちいさな庭に違いがありませんでした。
そこにひとつの黒い影がぽつんと立っておりました。
それは去っていく巨大な猫の姿のあやかしと、その背に掴まっているこどもをいつまでも見ているようでした。

こどもは迷い、しかしすぐにその影に向かって大きく手を振りました。
ついでほろりと涙が零れます。
しかしそれは、もう悲しいばかりのそれではありませんでした。






或るあやかしの嫁取12








金色のあやかしの足はそれは素晴らしく早いものでした。
姿は大きく、お家ひとつ分はあるように思えます。
猫の姿であったときはふわふわとした丸みを帯びていましたが、あやかしの姿になるとすらりとした印象の体躯になり、大きな尾は五つに別れておりました。
背中にいるこどもは、そのふかふかとした毛並みに顔をうずめながら、うっとりと流れゆく景色を眺めておりました。
青い空に流れゆく白い雲。緑に広がる山々に金色の田畑。
それは金色のひとから教わった通りの、いえ、それ以上にすてきなすてきな光景であったのです。


やがてあやかしは山の中の小さな岩場で足を止めました。
そばには滝つぼがあって、上の方からはごうごうと音を立てて水が落ちてきておりました。
こどもはあやかしの背中から降りましたが、すぐにへたへたと座り込みました。
思った以上に疲れているのか、膝にちからが入りません。なぜか身体もぐったりしております。
するといつのまに変化したのか、見慣れない着物を羽織った金色のひとがこどもの傍らに膝をつきました。そうして額に手をやります。

「疲れたか。ああ、熱が少しあるようだな」
「いえ、そんなに……」
「半日は駆けていたからな、無理もない……もうすこし早く休めばよかったの」
「だ、だいじょうぶです」

こどもはあわてて首を振りました。
こどもをその場に横たえた金色のひとは苦笑し、そうして滝つぼのほうに歩いて行きました。
そうして戻ってくるとその身体を抱え上げ、こどもの唇に自らのそれを合わせます。するとそこからはちょうどよいあたたかさのお水が流れ込んできました。
こどもはぱあっと頬を赤らめましたが、すぐに素直にこくこくとそれを飲み干しました。やはりとても疲れていて、熱のある身体はお水を求めていたのでした。
そうしてこどもは思い出しました。
猫さんと会って間もないころ、同じようにお水を与えてくれたひとが居たことを。
あのころはわからなかったけれど、あれもこのあやかしだったのでしょう。
ますます真っ赤になったこどもを抱えたまま、金色のひとは不思議そうに首を傾けます。

「どうした」
「い、いえ……」

あまりに恥ずかしくてその青い瞳から目をそらすと、金色のひとが苦笑する声が聞こえました。

「なにか悪いことでもしたかの。なんせ猫の雄は子育てというものをせぬ生き物だからな、このようなときどうすればよいのかよくわからんのだ」
「子育て……」
「うむ。猫の雌は働き者でな。産むも育てるもすべてひとりでやりおる」
「……」

こどもはそのことばを静かに聞いておりました。
木漏れ日から降りかかる陽光のすじは天からのかけはしのように岩場を彩っております。
ごうごうと音を立てる滝も白い水しぶきを空に舞い上げ、光の粒をあたりににふりまいておりました。
こどもは金色のひとの胸に赤く染めあがった顔をうずめました。そうして瞳を閉じます。
金色のひとはこどもの意を汲んでくれたのでしょう。
その体勢のままじっとしていてくれました。




やがて金色のひとが抱え込んだこどもの耳元で、そっとささやきました。

「さて、小春」

こはる。
その響きはこどもの――小春の胸にすうっと溶け込んでくるように染みいりました。
ひどくうれしくて、くすぐったいような、そんな気分でした。
小春はふんわりと笑って答えます。

「はい」
「……明日はもうすこし走らねばならん。ついでにおぬしの行きたいところにいってもよい。行きたいところはあるか? 」
「……行きたいところ」
「なにかやりたいことでもよい。欲しいものでもよい。できるかぎりなんとかしてやろう。なにかあるか? 」

小春はその言葉に金色のひとの顔を見上げました。
その声はやはり低くて優しげで、そうしてそれを見るだけで胸が苦しいほどに嬉しいのでした。
小春は自らの襦袢の胸元をぎゅっと握りしめます。
そうして、かすかに瞳を潤ませました。

「……なんでも、いいのですか」
「ああ」
「でも……どうして、そこまでしてくださるのですか」

すると金色のひとは小春の心の臓が壊れてしまいそうなほどやさしく笑いました。

「おぬしはわしの一番欲しかったものをくれた」
「わたしが……? でも、わたし、なにも……」
「くれたのだ」

こつんと額と額があわされます。
それは金色のひとが猫の姿の時によく見せていたしぐさでもありました。
甘える時に、見せるしぐさ。
金色のひともそれを思ったのでしょう。少しばかり照れくさそうに瞳を細めるとすぐに額を離しました。
そのようすを、小春はぼうっと頬を赤らめたまま見つめておりました。
そうして強く、強く思いました。


ああ、やっぱりほしい。
おかあさま。わたしも、欲しいです。


あの夢の中で、おかあさまが欲していたもの。
この世に生きるもののすべてに、生まれながらにすりこまれているつよい本能。
そのつよい気持ち。
それがいま、ちいさな小春にも痛いくらいよくわかったのでした。


「ね、ねこさま」
「ああ」


だから小春は両手を握りしめて言いました。
近い位置にある青い瞳をみつめて、頬を真っ赤に染めたまま、ひとのこどもは自らの望みをあやかしに向かって口にしました。



「……わたし、ねこさまのこどもが欲しいです」







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2012・4・14










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