或るあやかしの嫁取り11 |
涼やかな声とともに鈍い音がして、首を絞めていたおにいさまの手が外れました。 その瞬間のどが空気をもとめてひゅうと音を立てます。 必死に空気を吸っていると、自然に涙がぽろぽろとこぼれてきました。 そんななか、こどもはわずかに目線を動かして声の主を探しました。 別れたのはほんの数日前。 それでも会いたくて会いたくてたまらなかった、そのひとの姿を。
或るあやかしの嫁取10
はたしてその姿はこどもの目の前に背を向けて立っておりました。 すらりとした体躯に金の髪が流れております。紺色の着物を羽織り、手には細長い棒を持っておりました。かすかな動きにより、それはしゃらりと音を立てます。 金色のひとは目の前で腹をおさえて呻いているおにいさまを一瞥し、そうしてかすかにこどものほうに目線をやりました。 こどもはけほけほと息を吸いながら、そのあいまにつぶやきました。 「ねこ、さま……」 かすかすに零れた声に、金色のひとはわずかに瞳を細めました。 きれいな青い瞳は数日前のまま、そこに浮かぶ色もひどくなつかしいものでした。 しかしおにいさまに視線を戻した金色のひとが発した声は、ひどく飄々としてきこえました。 「いちどは人の手に返そうと思ったものだが」 金色のひとはかすかに笑ったようでした。 「おぬしがいらぬというのであれば、わしが攫っていっても文句はあるまい」 「あやかしか……」 蹲っていたおにいさまが目線を上げます。 そうして金色のひとを見てわずかに顔を歪めました。 「館の守りに亀裂があったと守り人からしつこく聞いている。やはり入り込んでいたか」 「ああ。しかしここは本来無いはずの場所。この世からは隠された場所。 ここだけには捜索の手が入らなかったからな。充分休ませてもらった」 「貴様……」 「ああ。その守り人というのはおそらくはヤコだ。食いつぶされんうちに追い出した方がよいぞ」 「この、あやかし風情が……! 」 「ああ、あやかしだ。しかしおぬしはなんだ。妹を殺し子を殺す。おぬしは人か。それとも狂った人は鬼となるのか」 「私は……」 「まあいい。さて、娘よ」 その声とともに、金色のひとは片手でおにいさまの首をつかみ空に持ち上げました。 ぐうとおにいさまが呻きます。 金色の人は涼やかな声のまま、けれどもおにいさまの首元からはぎりぎりと鈍い音がしておりました。 背中をみせたまま、金色のひとはこどもに言いました。 「おぬしには礼がある。この男を食い殺すも引き裂くも、おぬしの好きにしてやろうぞ」 こどもははっと息をのみました。 きっと、金色のひとにはそれが簡単にできるのでしょう。 あの夢の中で、「じいちゃん」を殺した男をそうしたように。 だからこどもはあわてて立ち上がりました。 ふらつく足取りのまま、金色のひとの背中に抱きつきます。 「や、やめてください……! 」 金色のひとは振り向きません。 「おねがいします、やめてください。おにいさまはおかあさまの大切なひとなんです。おかあさまは、おにいさまが不幸になることなんて望んでいないんです。だから、だから……」 叫んでいるうちに自然に涙が零れてきました。 喉がしゃっくりあげてうまく声になりません。 けれどもこれは、これだけは言わねばならないことでした。 「それ……っに、ねこさまも、もう人を殺してはならいんです。ねこさまのこころが悲鳴をあげているから、すごくすごく悲しんでいるから、だから……」 過去の夢の中で、猫は育ての親の仇をとりました。 けれどもその血糊の中、残ったのは満足感でも達成感でもなく、ただむなしさだけでした。 猫は怒っておりました。 その怒りは激しく、強く、だからこそ仇をとったのです。 それなのに残されたものはただ空虚なもので、ほんの少し前まで獣であったあやかしは戸惑いました。 しかしそれは考えてはならないこと、考えても仕方のないことであることをぼんやりとではありますが悟っておりました。 だからあやかしはそのことを奥底に押し込めました。自分でも忘れてしまうくらい深いところに押し込め、蓋をしたのです。 そうして今まで。 ふたつであった尾が五つに分かれてしまう長い長い年月のあいだ、誰にも触らせることなく、しかしそこに在りつづけたのです。 「……」 どさりと音がして、金色のひとがおにいさまから手を離しました。 さきほどのこどもと同じようにげほげほと苦しげにしておりますが、それでも生きているようすにほっとしていると、今度は頭にあたたかな感触がふわりと乗せられました。 それは金色のひとの大きな手のひらでした。 目を上げると、その青い瞳が自分を見ているのに気づきました。 それは優しくあたたかく、そしてうっすら熱を帯びているようでもありました。 「まったく、おぬしは……」 苦笑するふうにつぶやき、そうしてこどもの腰に手を回し、片手で抱き上げます。 そうして蹲っている男に目をやりました。 「本当にもらっていくが、よいか」 おにいさまは荒い息をしながら金色のひとと、そうしてその腕に抱かれたこどもを見上げました。 その瞳にはさまざまな感情が一瞬のうちにうずまいたようでした。 何かを言いかけ、そうして口をつぐみ。 そうして再度口を開いたおにいさまの顔には例えようもないほどの苦い笑みが浮かんでおりました。 「……その呪われた子を嫁にでもするつもりか」 「それもよかろうよ」 金色のひとはあっさりと答えました。 「わしはあやかしだからな。呪いなどという些事、どうでもよい」 おにいさまはその言葉を聞いてどこか愕然としたように金色のひとを見上げました。 そうして金色のひとに抱えられているこどもへ目線をうつします。こどもは金色のひとの身体にぴったり寄り添ったまま、その視線を受けました。 やがておにいさまは静かに俯きました。 黒い前髪が顔に落ちかかり、その表情は一切見えなくなります。 おにいさまはそうして、自重するように低く低く言葉を吐き出しました。 「……どこへなりとも連れて行け」 おにいさまは悄然と続けました。 「俺はもう狂っている。……その娘がここにいれば、俺はいつか、あやつの姿を見るだろう。そうして、その変わりとするだろう。それは息の根を止めることよりもっと恐ろしいことだ。畜生にも劣る、鬼でしかない行為だ……」 こどもにその意味はわかりませんでしたが、その声は切なく胸に響きました。 「おにい、さま……」 「私はお前の兄ではない。……私は、私の名は小太郎。お前の母の名は、はる」 「……」 「はるがお前につけた名は、小春」 「こはる……? 」 「小に、春。それで小春という」 こはる、とこどもは繰り返します。 それはおかあさまが昔、こどものことを呼んでくれていた「ことば」でした。 しかしおにいさまがそれを聞いて激怒し、それからはぴたりと呼んでくれなくなったもの。 それを今、おにいさまは噛み含めるようにこどもに伝えました。 「……小春。それが、お前の名だ」 或るあやかしの嫁取り12へ 2012・4・11
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