「或る若社長の花嫁」

或る地の記憶夢F







目の前の少年の腕に飛び込む子供の姿を、赤毛の猩猩ははっきりとみていた。
子供は間違いなくあのときの子供で、その大きな瞳から涙を零しながらわんわんと泣いている。
ごめんなさいごめんなさいと繰り返す子供の頭を、少年の手は優しく撫でてやっていた。
少年には子供の姿は見えていないようだった。
しかしその仕草は手馴れたもので、まるで本当に見えているかのように優しげなものだった。
よかったなあ、と猩猩は思った。
うっかり目からぬるいものが落ちそうになって、それを不思議にも思った。
「ほう、猩猩のくせに涙を零すかの」
突如かけられたのんきな声に、猩猩は飛び上がるほど驚いた。
いや、実際に飛び上がり、反射的に後ろの茂みに身を隠す。
「おいおい、隠れずともよいだろう」
暢気そうな声にそろそろと顔を出す。
そうしてそこに立っている人間の男の姿をしたものを認めて、再度飛び上がりそうになった。
「キ、キ、キンビョウ……! 」
「キンビョウ……金猫? ああ、おまえたちはそう呼んでおるのかのう」
「ナ、ナンデ」
猩猩は目を見開いたまま男を見やった。
山神と―正確には山神と名乗っていた野狐と戦った猫叉。
その仮の姿である人間の男は、ぼろぼろに血に汚れた風体ながらも地に足をつけてしっかりと立っている。
「ヤマ、ヤマガミ」
「おぬしは猩猩にしては言葉がうまいなあ」
男は感心したように自らの顎に手を当てた。
猩猩にはどうでもよいことだったので、さきほどのことを尋ねようと、再度言葉を連ねた。
「ヤマガミ」
「ああ、おう、心配せんでもよい。余所に追い払ったからのう」
さらりと男は答えた。
驚きのあまり言葉をなくす猩猩に向かい、あくまで飄々と説明する。
「さすがに殺すまではいけんかった。野狐はさすがに強いからのう。でもまあ、あやつは山神で或る事が誇りだったようでの。それで」
男はにっこりした。
「元を断った」
「?」
猩猩は首を傾げた。元、山神が山神と呼ばれるための、元。
だからの、と金猫は無邪気に笑う。
「あやつのねじろである山をひとつ燃やしてやった。もう火は消したがの」
「!!!」
思わず猩猩はひっくり返りそうになった。
だからこの金猫は怖いのだ。
定住することを知らぬ故に無茶苦茶をする。
山を燃やすなどなんということをしてくれるのだ、と思った。
燃やすのは一瞬。しかし生み出すには何百年もかかるひとつの山。
まったく、常識や摂理が無い。何を考えているのかわからない。
逆に山神は山の大切さを知っている。命を生み出し、育むもの。それが山だ。
だからこそ同じ炎を使って戦うにしても差が出たのだろう。
山を燃やすまいと思いながら戦うものと、燃やしてもかまわないと思うもの。
いくら妖力に差があっても全力で戦えないのでは意味がない。
だからこそ、野狐は負けたのだろう。
だが―しかし。
「バッバカ! 」
「ん、んん? 」
「キンビョウ、バカ! 」
「んんん ? なぜだ」
心底不思議そうに金猫は首を傾げる。その様に猩猩は頭がくらくらとするのを感じた。
猩猩は山に木を植える役目を担っている。そうして山を広げていく。
誰に言われたからでもない。山は、自分達の住処であるからだった。だからひそかに山を広げ、守っている。山の守り人、だからそう呼ばれることもある。
きょとんとしている金猫を前に、猩猩はなんとか言葉を繋げた。
「ヤマ、ウム、タイヘン。ショウジョウ、ウエル、デモ、ジカン、カカル。モヤス、ヨクナイ」
「……」
「ショウジョウ、オコル、キンビョウ、ワルイ」
「……」
「キンビョウ、バカ」
「……」
「バカ」
「……」
「マヌケ」
そこまでまくし立てて、そこで猩猩は腕を組んでむっつりと黙り込んだままの金猫のようすにはっと気づいた。
背筋を冷たいものが滑り落ちる。そうして思った。
―いま自分は、このなにをするかわからないような化け物相手に、なんてことを言ってしまったのだろう、と。
殺されても食われてもおかしくない状況に猩猩は思い切り逃げ腰になった。
金猫は視線を落として顔をしかめている。
―に、逃げ出すなら、今が最後の機会かもしれない。
そう思いながらじりじりと後ずさっている猩猩の前で金猫が面をあげた。
蒼い瞳が猩猩を射る。猩猩はぎゃあと悲鳴をあげた。
「猩猩」
「ヒッ……! 」
「すまんかったのう」
「ヒッ…………。……ヘ?」
「うむ、すまんかった」
見上げた視界の中で、金猫は困ったように頭をかいている。
その少しも凶悪に見えない表情に、思わずぽかんとした。
「エエト」
「うむ」
「コ、コレカラ、キヲツケル、イイ」
「うむ」
金猫は素直にこっくりと頷く。
そうして、未だにへっぴり腰の猩猩を尻目に子供たちのほうに目を向けた。
空の色が朝のものへと変わり始める。
三尾とも金猫とも呼ばれる真実の名のない男は、くしゃりと、実に満足そうに破顔した。







或る地の記憶夢G









それ以来、弥彦の家で起こっていた人死にや怪異はぱたりと止んだ。
あの日、山神に引かれて山に行った次の日。
朝日が昇ると共に、父や母や、妹が生きていた頃と同じような日常が戻ってきた。
もちろん家族はもう居ない。
けれども空気が、弥彦を囲んでいた空気がくるりと反転したように穏やかなものになっていた。
「もう大丈夫のようだな」
そう声をかけてきたのはいつぞや弥彦の心配をしてくれていた道万だった。
亡くなったきくばあの、一人息子である男だ。
「母を見たんだ」
道万はぽつぽつと語ってくれた。
「お前の家の周り。毎晩のように母の姿をした何かを見た。……神は親しいものの姿を真似るというから、お前たちの家族が山神に引かれていくのではないかと思っていた」
山神は、神ではなかった。そういうと道万は目を丸くした。
弥彦の話を聞き、しばらく考えた後弥彦にこう言った。
「それは村のみなには言わない方がいい。あやかしでも化け物でも、祟りさえしなければそれは村を守ってくれる神になる」
山に囲まれたこの村を生かすためには。
気の毒そうにぽつりと彼は言った。
「それは……必要なことなんだ」



山神は、三尾はどうなったのだろう。
いくつもの年月が過ぎた。
そうして、成人した今でも、弥彦は山を見るたびに思いをはせる。
あの日以来、三尾は姿をみせなかった。
弥彦を村まで運んでくれたショウジョウも朝日が昇る前に姿を消していた。
だから弥彦は、今ではあの出来事が夢ではなかったのかと思うことがある。
結局、最後までみつの姿を見ることも出来なかった。
みつ、と名を呼んで、手を広げた。
泣いているというみつが腕の中に飛び込んできたらいいと思った。だからいつもやっていたように手を広げたのだ。
弥彦には妹の姿も声も感じることが出来なかった。
あのとき、みつが本当に腕の中に居たのかどうかもわからない。だから単なる、ただの弥彦の自己満足なのかもしれなかった。
けれどもみつが、腕の中に居る妹が泣きじゃくっているような気がした。
泣いて、必死に謝っているような気がした。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
だから抱き上げて、頭を撫でる所作をした。
深い闇の縁が滲んでいく。山の影が淡いものになる。
濃紺から紫。
そうして白く染め上げられていく空を見ながら、朝日が昇るまで。ずっと、ずっと。


あの日以来、山神が家に来ることも、三尾やショウジョウ―あやかしを見るようなこともぱたりとなくなった。
天災もなく、不幸と呼べることもなく、弥彦はだから平穏に暮らしていた。
本当に平穏な日々だった。
毎日きちんと田畑を耕していれば食うものはそれに応じて入ってくる。
日照りと、そして飢餓を経験した弥彦にとってはそれはなによりもの僥倖とも言えた。
みつは成仏できたのだろうか。
弥彦は墓の前で手を合わせながら思う。
今となってはそれを確かめる手段は無い。
だからただ、父母そして妹の冥福を思って、毎日手を合わせた。

三つ前の秋に嫁を貰うこともできた。
隣村の土地持ちの末娘で、父親と娘共々、無口だが働き者で評判の良い弥彦を見初めてくれたのだという。
笑うと頬にえくぼの出来る、可愛らしい気立ての良い娘だった。
そうしてふたつ前の秋に、一人息子も生まれた。元気のよい、まるまると太った赤ん坊だった。

「あなた。今日、不思議なことがありましたよ」
或る日の夜のことだった。
息子の寝顔をみていた弥彦に、繕い物をしている嫁がにこにこと話し出した。
「お昼間、わたしが庭で洗濯物を干していたんです。そしたら、この子が裏庭ではしゃいでる声がきこえてきたのです」
息子はふたつになり、ようようにことばも覚えてきた。
その息子が、まるで誰かと嬉しそうに話しているような声だったのだという。
しかし裏庭に向かった嫁が見たのは、何もない空間に向かってにこにこと笑っている息子の姿だけだった。
「誰と話していたのって聞いてみたのです。そしたら、この家には女の子が居るんだっていうのですよ。ときどきいっしょにおはなししたり、遊んだりしているのですって」
言葉の出ない弥彦に向かって、嫁はにっこりと微笑んで見せた。



「その子は自分はざしきわらしだって。この家の人間を守るものだって。そう、言っていたそうなのですよ」











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2010・9・21










或る血の記憶









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