エピローグ |
桜井正美は宙に浮いていた。 そうしてそこから「彼女」を、そうして弥彦という人物の生涯を眺めていた。 今や弥彦と呼ばれる男は、この時代にしてはおそらく長寿を全うし、静かに最後の時を待っている。 そのまわりには妻に子供に孫、そうして彼を慕う村の者たちが集っていた。 その数は決して少なくはない。 それは彼がその人生において、実に充足した人生を送ったことを穏やかに示しているようだった。 弥彦が子供の頃住んでいたあばらやは、今や立派な家と呼べるものに変貌している。 その一室、庭を望む部屋の中で桜井は目を落とす。 そうして床に臥している弥彦がふいに目を開け、まるで誰かを探すかのように目を彷徨わせているのを見た。 やがて部屋の隅に目を留め、小さくその頬を緩ませる。 ―みつ。……ようやく、見えた……。 弥彦がそうつぶやいたのがわかった。 たぶん、それが理解できたのは桜井だけだったに違いない。 弥彦はもうすぐ寿命を迎える。病気でも怪我でもなく、ただ純粋に人生を終える。それは実に安らかな、誰もが羨むべき死といえた。 弥彦にはすでに、まわりに居る人たちでさえ目に入っていない。 生と死のはざま。彼がその場に居るのだろうことが桜井にもわかった。 だから―そう、だからこそようやく、「妹」に「会えた」のだ。 ―みつ。今までありがとうな。 その言葉に部屋の隅に居た「彼女」が首を振る。泣き笑いのような表情を浮かべているが、泣いてはいなかった。 ―でも、もういいんだ。もう充分なんだ。 男の声は穏やかだった。いや、もう声にすらなっていない。 けれどもその声は意志を持って「彼女」に届いているようだった。 「彼女」は困ったように笑んで首を傾ける。きれいな黒髪がふっくらとした白い頬を撫でた。 幼い頃とは違う、年月を獲てきたもの特有の知性を持つ黒目がちの瞳だけがかすかに潤んでいる。 弥彦の声はどこまでも優しく響いていく。 ―だから一緒に行こう。父ちゃんも母ちゃんも、向こうで待ってる。 何よりも望んでいたであろう弥彦の言葉に、しかし「彼女」は首を縦には振らなかった。 ―兄ちゃん。わたしは……みつはね、行けない。 涼やかな声は桜井の記憶にあるものとほとんど変わりが無かった。 ―償うって決めたの。だから、行けない。 涼やかで愛らしく響く、しかし揺ぎ無い決意を秘めたその声。 ―守るって決めたの。兄ちゃんを、兄ちゃんの家族を、わたしが守るの。ずっと、ずっと。 その言葉に、決意に満ちたその声に弥彦は呆然と「彼女」を見やった。 そうして何かを言おうと口を開く。 しかし「彼女」の揺ぎ無い意志を宿す瞳を見て、ふいに口を閉ざした。 「彼女」は瞳を潤ませたまま、愛らしく微笑む。 ―……兄ちゃん、大好き。ずっと、ずうっと……大好きだよ。 その時だった。 桜井の頭の中に、声が響いてきたのは。 ―ああ……そうか。未来には、お前が居るのか。 はっとして辺りを見渡す。 すると浮いている自分の下、床に臥している男の瞳が見えないはずの自分の姿を捕らえているのが目に入ってきた。 何故、と思った。 これは夢のはずだ。金髪の男が見せてくれた、土地の中に潜む過去。 その土地が見る夢。 なのに男には―弥彦には、誰に見えるはずも無い自分の姿が見えているようだった。 ―どうかみつを……。みつを、何よりも誰よりも大切に想ってくれているお前になら、出来るだろう。 どこか安堵したかのように弥彦は言う。 ―どうかみつを……。 その言葉に桜井は目を見開いた。 それと同時に、ぷつり、と頭の中の声が止む。 下を見ると弥彦の瞳も閉じていた。 人生を全うしたその顔は安らかで、実に穏やかなものに見えた。 「…………」 そうして弥彦の家族が悲しみにくれる中、部屋の隅に居る「彼女」が……ようやく静かに、静かに涙を零しはじめた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 夜の帳を織り始めた部屋の中で、桜井は瞳を開いた。 見慣れた天井が視界にうつる。 過去のものではないそれに、自分が長い夢から「帰って」きたことを実感した。 眠りに落ちる前の姿のまま。部屋に仰臥した状態で、彼は小さく声を洩らした。 「……くそ」 自分そっくりの姿の、「彼女」の兄。 そうしておそらくは自分の、桜井家の元となる男の言葉を思い出す。 「勝手な事を言いやがって、あの男は……」 ぬるいものがこめかみを伝う。 片手で顔を覆い隠した形でつぶやくと、ひとりきりの部屋の中でそれはがらんと響いた。 そうして彼は「夢」から醒める。 子供の頃から続いてきたあたたかくも儚い……「夢」の、中から。 或る地の記憶夢:終幕 2010・9・23
或る血の記憶
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