「或る若社長の花嫁」

或る地の記憶夢F








「三尾さん! 」
叫んだ弥彦に返って来たのは、ひとつの言葉だった。
「家に戻れ。妹が待っている」
その言葉に瞳を見開くと、男がふてぶてしく笑んでいるのが視界に入ってきた。男は金の瞳を細めてにやりとする。
そうして一喝した。
「―行け! 」
瞬間、大猿に似たなにかは、強い声に促されるように駆け出した。それに抱えられている弥彦の視界から、自然それは遠ざかっていく。
まばゆいほどの金の光。その光の中で三尾の姿が溶けたようにみえた。
そうして瞬く程の時間のあとに現れたのは、しなやかな体躯を持つ見上げるほどに巨大な金毛の猫の姿だった。
尾の数は、三つ。

―それが三尾と名乗った、男の正体だった。







或る地の記憶夢F












大猿の足は速かった。
みるみるうちにふたつの獣の咆哮は遠ざかる。そうしてそれは、やがて風を切る音に紛れて消えた。

大猿が足を止めたのは、随分経ってからのことだった。
村は見えない。木々の深い、獣道さえない場所で立ち止まり大きく息をついている。
弥彦はその肩に抱えられたまま、ぼんやりと思った。
みつに―いや、妹の姿をしたオヤコさまを追った自分はこんなに山を登っただろうか、と。
答えは否だ。弥彦が走った距離は大猿が駆けた距離の半分にも満たないはずだった。
その不思議。それが神の、いや―あやかしの力なのだろうかと思い、かすかに胸が痛くなった。
父も母もそのあやかしに殺された。
しかし、と弥彦は思う。
たった今、弥彦を助けてくれたのもあやかしなのだ。まるきり人の姿をして、妹に頼まれたからと助けてくれた男。
「……なあ、あんたもあやかし、なのか?」
弥彦は自分を抱えている大きな猿に似た生き物にそっと声をかけた。単なる猿のようには見えなかったのだ。すると甲高い片言の言葉が返ってきた。
「アヤカシ。ショウジョウ」
「……三尾さん、大丈夫なのかな」
大猿は首を傾ける。そのさまは人のそれにひどく酷似していた。
「……ミツビ」
「金の髪をした人のことだ。……俺のせいで怪我をして、ああして戦ってくれてる」
「……」
「……」
弥彦は空を仰いだ。夜の森は深く、太い枝は黒々と天を覆っている。
何処かで行われているはずのあやかしたちの戦いは見えなかった。音も、光も感じられない。風が枝や葉をこする音が静やかに響いているだけだ。
弥彦は唇を噛み締めた。
さまざまなことが脳裏をめぐる。
父のこと。母のこと。
神のこと。あやかしのこと。
理不尽とも思える運命のこと。
幸運と言うべき出会いのこと。
そうして……妹のこと。
弥彦は息を吐いた。
そうして今、自分が何をするべきなのかを考えた。


(12)



山へ向かう三尾を見送り、みつは土間に座り込んでいた。
三尾と共に行きたかったが、やはり足は根が生えたように動かない。
家からはなんとか出ることは出来たが、一定以上の距離から離れることは出来なかった。
霊魂は強い感情に縛られる。そうしてそれは場所に残るのだと三尾は言った。
―だからおぬしは動けない。ここで、大人しく待っていろ。
「にいちゃん……」
兄は大丈夫なのだろうか。そう考えると心が冷える。
今のみつは「死ぬ」ことの恐怖を知っていた。その恐ろしさを、痛みを。そして、寂しさを。
だからこそ怖かった。
あんなこと、兄には……兄だけには味わって欲しくはない。今でははっきり、そう思えた。
みつは立ち上がる。もう一度、ためしてみようと外に出た。深い闇。空を見上げると厚い雲が月の光を遮っていることがわかる。
しかし今のみつの視界ははっきりしていた。みつはもうヒトではないのだという。だからなのかもしれなかった。
みつはそろりと足を踏み出す。
山へ行くのだ。しかし山へ続く細い道に差し掛かると、頭が割れそうに痛んだ。
失ったはずの身体がばらばらになり、溶けてしまうような奇妙な感触。
そうして気づくと、やはりあの土間に居た。引き戻されたのだ、とぼんやりと思った。
場所に……いや、たぶん、自分の未練の残るこの地に。
みつは泣きたくなった。だからもう一度外に出る。
どうしても会いたい。助けたい。そうして父に、母に、みんなに謝りたかった。
自分はとんでもないことをしてしまったのだから、なんとしてでも。
そのとき、ふいに風が吹いた。ぬるいそれは実態を持たないはずのみつの髪をも靡かせる。
そうしてそれと共に、かすかな音がした。
みつはそこに向かおうとして、しかし自然と身が竦むのを感じだ。
家の裏。そこは、みつが死んだ場所だった。
また音がした。懐かしい音だと思った。
聞いたことがあって、そうしてそれが凄く好きだったことも思い出した。
―本物じゃなくて、ごめんな。
眠い目をこすりながら言う兄の手にあった玩具。
他の子供が持っていたものよりも不恰好なそれは、兄が一睡もせずに作ってくれたものだった。
息を吹きかけるとぎくしゃくと回る。
それに声をあげて喜ぶと、兄もかすかに嬉しそうな顔をした。また作ってやると、そう言った。
みつは震える足を動かして裏へ回る。
死の恐怖を思い出すことよりも、その音のほうが気になった。
そうしてその場所で子供はみつけた。
血の染み付いた土地を覆いつくすほどのそれは……。


―不恰好に回る、無数の手作りのかざぐるまだった。






―家に戻れ。妹が待っている。


弥彦は息を吐いた。入り口に立ったまま伺った中には、やはり人の気配は無い。
「……みつ」
それでも声をかけずにはおれなかった。
今でもこの場所に居るのだろうか。居るとするならば、なにを思っているのだろうか。
寂しさから家族の死を願っていた妹。しかし三尾は言った。兄を助けてくれと頼まれた、と。
妹に会わなければならない。切実に、そう思った。
「オイ」
ふいに背後から声が聞こえた。
甲高くも獣じみたその声の主は、先ほどまで弥彦を抱えてくれていた赤猿だった。
大きな木の中腹にぶらさがったままの赤猿は表情の読めない顔を傾ける。
そうして、幹に掴まっていないほうの手で家の裏を指し示した。
「ニエ、コドモ、ムコウ」
「ニエ……生贄? 子供……」
「イル」
「……!」
弥彦は裏へ回る。家の裏はみつが最後に連れて行かれた場所だった。
そうして殺された、臨終の場所。
風が吹くたびに乾いた音がする。
そこは、弥彦の作った風車で埋め尽くされた場所だった。
妹を悼み、ひたすらに作り続けた笹の葉の風車は小さな音をたてて回っている。
ここに、居るのだろうか。
弥彦は立ち尽くす。
姿は見えず、声も聞こえない。本当に居るのだろうか。ここに。
すると背後でまた声がした。
「ナイテル」
弥彦は息を飲んだ。
ふいに、生きていた頃の妹の泣く姿が脳裏に蘇った。
ちいさな両手を目にあてて、ひゃっくりあげながら泣いていたあどけない妹の姿。
みつはここに居るのだという。
そうして、今まさに泣いている。
それだけわかれば十分だ。そう思った。
「みつ」
弥彦は名を呼ぶ。
その場に膝まづき、そうして、いつもしていたように自らの両手を広げた

「……おいで」










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2010・9・5










或る血の記憶









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