「或る若社長の花嫁」

或る地の記憶夢E






(9)


猩猩と呼ばれる大猿の様な生き物は、その慣れた山道を跳ねる様に駆けていた。なんとなく心がふわふわとしていて気分が良い。それは、先ほど別れた人間の子供のことを思い出すといっそう強くなった。
―ありがとう、ショウジョウさん。
山に帰ろうとする猩猩たちに向かって、そう言いながら小さな手を一生懸命に振っていた。
―また、会いに来てね。
ふわふわと心が躍る。それは、隣を駆ける同胞も同じなのだということがわかった。
例えるなら腹がいっぱいになった時のような、大好きな酒をたらふく飲んだ時のような、そんな、不思議な気持ちだった。

猩猩たちが、あの人間の子供を村に送ったのは自分達のためだった。
自分達の住むこの山の神。そこに人間たちが貢物として五人の子供を持ってきた。手首にスズという音の鳴るものを巻いてあるのが貢物のショウコであるという。しかし、谷底に落ちていた貢物は四人だけだった。それを知ったヤマガミは怒り、猩猩たちにもう一人を探せと命じた。
猩猩は獣に近い生き物だ。だから本来は神に仕えるような生き物ではないが、このヤマガミの機嫌を損ねるのは、山で生きていくうえで非常に良くないことだった。特に最近のヤマガミは性質が変わったかと思えるほどに荒れている。ありていに言えば、機嫌を損ねると殺されてしまうのだ。
しかし、予想外のことが起こった。
ようやくみつけた最後の貢物からは、キンビョウの匂いがしたのだ。キンビョウは定住地をもたない巨大なあやかしの通称だった。金色の毛の、尾が三つに分かれている猫又と言う化け物である。
―キンビョウには関わるな。
それは、この山に住む猩猩たちの共通の認識だった。所詮はあやかし。神ほどに力は強くないが、それでも猩猩たちより数段強く、なによりその気性がきまぐれでつかみどころの無いところが厄介だった。
基本時にものごとに執着しないが、しかし稀に気に入ったものに気配を残していく。子供から感じるものはその気配そのもので、だからこそ猩猩は悩んだのだった。
ヤマガミの命を遂行するか、それともキンビョウの機嫌を取るか。
結局後者を選んだのは、滅多にヒトや物に執着しないキンビョウが、わざわざ気配を残していったからだった。


赤毛と黒毛、二匹の猩猩は気分良く住処に戻る。今となってはキンビョウも、ヤマガミもどうでもいいことのように思えていた。あの子供がありがとうと言っただけなのに、と赤毛の猩猩は不思議に思う。しかしこの気分は悪くは無かった。
そうして住処の手前に差し掛かった時―。
突如、目前を駆けていた黒毛の姿が消えうせた。
赤毛は思わず動きを止める。何が起こったのかわからなかったのだ。
呆然と見開いた瞳に、上のほうからぱたぱたと落ちてくる水滴が飛び込んでくる。反射的に飛びすざった赤毛の目前に、今度はどさりと重いものが落ちてきた。
見慣れた黒い毛に覆われた、一本の腕。
赤毛は悲鳴をあげた。
そうして見上げた頭上には、ヤマガミの巨大な顔があった。蛇に良く似た口からは、やはり見慣れた黒毛の足が覗いている。ばり、と鈍い音が響いて赤いものと、そうしてさらに一本の足が落ちてきた。
―贄はどうした。
低い声が空気を震わせる。ヤマガミの背は山の木二本分より高い。その白い身体を持ち上げ頭部もにゅるりと伸ばす様も、やはり蛇に似ていた。
殺される、と赤毛は思った。贄とはあの子供のことだろう。いいつけを守らなかったことにヤマガミは機嫌を損ねたのだ。それだけはわかった。
猩猩は獣に近い。だからその生存本能も素直なものだった。
頭を下げ、子供を村へ連れて行ったことを詫びる。
―村か。
猩猩は頷く。
しかし、死が目前にあるという恐怖に震えながら、何故だかちくりと胸が痛むのを感じていた。




或る地の記憶夢E











(10)


弥彦は呆然と眼前に立つ男の背を見上げる。風が吹き、闇夜にも明るい金の髪がさらさらと靡いた。
―おぬしの妹にな
男の言葉を反芻する。
その意味を理解するにつれて、麻痺していたように動きを止めていた心臓が、ゆるりと音を立てるのがわかった。
「みつ、に……?」
「ああ」
「でも、みつは、俺を恨んで……」
「恨んではいない。死んでは欲しかったようだがの」
「……」
「ずっとあの家に居たのに、坊たちに気づいてもらえなかったのが寂しゅうてならんかったのだろうて。それで」
三尾は視線を目の前のみつに移したようだった。かすかに見える横顔の瞳が細められる。形の良い唇が笑みの形を刻むのがみえた。
「あやつを止めなかった」
あやつ。
それが、目の前の妹のことを指しているのだということがわかった。みつの姿をしているがみつでないもの。両親を殺し、そうして今まさに弥彦を殺そうとしていたもの。
「だが、今は悔いておるようでのう。兄ちゃんを助けてくれと、頼まれた」
「……」
弥彦は目の前の男と、そうしてその向こうに立つ妹の姿をしたものをみつめる。
弥彦と目が合うと、それは妹の愛らしい顔を歪ませて低く笑った。
「お前は、妹の為に死んではやれんのか? 」
「……」
「妹は寂しがっておるぞ。強い孤独に取り込まれて動けない。親に殺され、単なる亡霊となっておる以上は此処へも来れない」
「……」
「可哀想にの。大人しく我の贄になっておればこんなことにはならんかったのに。だから我はお前たちを殺して、あの子供の戒めを解かねばならんかったのだ。そうしなければ、此処へはこれない。強い感情は人間を縛るからな」
弥彦は答えられなかった。目の前のみつは妖艶に笑う。
「我はあの子を救ってやろうとしたのだ」
救う、という言葉が胸に刺さった。目の前のみつの正体に今更ながらに思い当たる。
山神。村を取り囲む崇高な山々の神様。
みつはもともと山神の嫁に出された娘だった。そうして、生贄と引き換えに村に雨は降った。それは一種の取引だと弥彦は思う。約束を違えたのはこちらのほう。だから山神はみつを連れて行こうとしている。そう考えると、山神に否はない。むしろ、神との約束を違えたこちらこそが悪い。
素直にそう思った。だとしたら、自分は―。
しかしそう考えた瞬間に、明るい笑い声が弥彦の思考を中断した。
「これこれ、坊。そいつの戯言に騙されてはいかんぞ」
「……戯言、だと? 」
低い声で答えたのは山神の方だった。
笑い声の主は実に落ち着いているようだった。右手で左の腹部を押さえている以外別段変わったところはみられなかったが、そこから溢れ出る液体で僧服は黒く染まっている。
大怪我をしているはずの三尾は、それでもあくまで飄々としていた。
「山神山神ともてはやされて神にでもなったつもりか、ヤコよ」
「……貴様」
「神になりたかったのかの。しかしお主は神にはなれん。だから名さえ生み出せやせんのだろう。ヤコという名を未だに使っておるのだから」
ぎり、と歯軋りが聞こえた。
「ヒトの生む神々と我らは違う存在だ。それになりかわって如何とする。神に仕えるものが、何故神になりたがる」
「この畜生が……! 」
「おぬしもだろう」
三尾があっさりと答えるや否や、眼前の幼子の姿が膨れ上がった。


弥彦が見たのは、みつの姿が突如として膨れ上がり、そうして瞬きのうちに巨大な白蛇に変化する様だった。胴回りは大人二人が手を回しても届かないほどに太く、その鎌首をもたげた姿は杉の木を縦に二本並べたほどに大きい。
白蛇は神の使いだ。だから弥彦は混乱する頭の中、やはり目の前の存在は山神に―オヤコさまと呼ばれる山神に違いなかったのだと思った。
ずるりとその身体が蠢く。押しやられた木々が音を立てる。そうして次の瞬間、白くて思い何かが三尾と弥彦を襲った。
「!」
身を強張らせる暇も無い。しかし次に襲ってきた浮遊感に痛みは無かった。
気づけば空を浮いている。弥彦を抱えているのは金の髪の男だった。それを認識した瞬間に身体は下へと落ちていく。目に入るのは巨大な白蛇。先ほど弥彦たちが居た場所の木々は、その尾によりすべてなぎ倒されていた。
ぐんと腹が浮くような感覚と共に地面に降り立つ。その瞬間、三尾がいててと呻くのが耳に入った。
そうだ。この人は大怪我をしているのだった。
「み、三尾さん……」
名を呼ぶが男は答えなかった。弥彦を右手に抱えたまま、白蛇に向かってふてぶてしい笑みを浮かべてみせる。
「蛇か」
いうなり左手を前に突き出し、その指をぱちりと鳴らす。
するとその音に答えるように周囲に赤いものが出現した。蛍の光。それよりも強く大きな―それこそ炎の玉とも呼べるものが、無数に三尾の周囲を取り囲む。三尾は楽しげに笑った。
「正体をあらわさんか、ヤコ」
言葉と共に、炎の玉が白蛇を襲った。


(11)


―ヤマガミが、燃えている。

赤毛の猩猩は、その様子を木の陰から覗いていた。この山で一番強いヤマガミと呼ばれるもの。それがキンビョウの力で為すすべもなく燃えていた。
蛇はのたうち暴れている。キンビョウは、そのようすを薄ら笑いを浮かべたまま見ていた。
―ヘビはヒに弱い。
そのヒを使うキンビョウのニオイの付いた子供を助けたのは、赤毛がそのことを知っていたからでもあった。一般的に知能が低いと思われている猩猩だが、そのなかでもこの赤毛はなかなかの理解力を誇っている。
―ヤマガミとキンビョウが争っている。逃げろ。
仲間達の間でそれが伝達され、みんなが逃げていく中でひとり残ったのもそのためだった。赤毛は死を悼むという感情を持ち合わせていた。仲の良かった黒毛の、そうして殺されてしまったであろう、あの人間の子供の。
ヤマガミは身を悶えて苦しがっている。身を焼く匂いがあたりに立ち込める。長い胴体に押され、木がまた一本倒された。
「貴様……! 」
ヤマガミが吼える。その声は低く、空気をもびりびりと震わせる。思わず身を竦めた猩猩の眼前で、白蛇が再びその姿を変えた。
その姿に赤毛はぎょっとする。灰色の体毛に包まれたそれは、どうみても蛇ではなかった。
大きさは蛇のときと同じくらいだろう。すらりとした体躯に長い尾。その先は五つに分かれている。
獣が吼える。するとその周囲を覆っていた炎が一瞬にしてかき消えた。
尾のわかれた炎を使う獣。キンビョウに―猫叉と良く似た、しかし唯一違うのが、それは神に仕えるあやかしであるということ。……本来なら。
―狐。
「やはり野狐か」
キンビョウの声が響く。
野狐。ヤコ。
聞いたことがある、と猩猩は思った。悪意に染まった善狐。それにより御先稲荷の地位を剥奪された狐。
ヤマガミ―野狐は頭を一振りすると、眼前のキンビョウを睨みつける。そうして鋭く尖った牙をむき出しにして笑った。
「ああ。もう炎など役に立たんぞ。猫叉風情が」
「そうかい」
答えるキンビョウに向かって野狐が前足をふるう。横薙ぎに払われたそれは木々を抉るが目的のものはすでに空に飛んでいた。
野狐は鼻を鳴らす。そうして読んでいたとばかりにそのまま宙に浮くキンビョウに踊りかかった。
「!」
赤い花が咲いた。
キンビョウの身体から赤いものがはじけ飛ぶ。身体を食い千切られはしなかったものの、さらに傷を負ったらしい。地に降り立ったキンビョウは相変わらずふてぶてしい笑みを浮かべてはいるが、劣勢であることは明らかだった。
満身創痍。くわえて右手に人間の子供を抱えているキンビョウの動きはひどく鈍い。
―ああ、キンビョウは負ける。
猩猩は思った。尾の数―つまりは妖力の強さからいってもキンビョウのほうが下だ。そのうえ怪我をして、ヤッカイなものまで連れている。これでは、勝てない。
そう思った瞬間にキンビョウの声がした。
「おい、そこの猩猩。預かっておいてくれ」
ぎょっとする間もない。
潜んでいた猩猩に向かってかけられた声。そうして同時に人間の子供が放り投げられる。
猩猩は咄嗟に手を伸ばしてそれを受け取った。何故だかはわからない。しかし、その子供から匂う、覚えの或る香りに納得がいったような気がした。
―またね。
助けたはずの子供。しかし、死なせてしまった小さな子供。その子供によく似た匂いを持つ人間。
「三尾さん! 」
腕の中の人間が叫ぶ。その声に野狐の意識がこちらへ向いたのがわかった。ぞうっと背中が粟立つ。
「行け! 」
キンビョウの強い声に促されるように猩猩は駆け出した。振り返りはしない。今逃げなければ間違いなく殺される。
「三尾さん……! 」
肩に担ぎ上げた状態の子供が叫んだが猩猩は止まらない。
すると突如として背後から光が射し、巨大な気配が膨れ上がるのがわかった。地響きが山を揺らす。


そうして次の瞬間―狐のものとは違う咆哮が夜の闇を震わせた。








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2010・7・31










或る血の記憶









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