「或る若社長の花嫁」

或る地の記憶夢D






「とうちゃん、かあちゃん、にいちゃん。いってきます」

山へ向かう神輿の中から手を振っても、兄は何も答えてくれなかった。兄はいつもむっつりと不機嫌そうな顔をしているけれども、今日はひときわ怖い顔をしているように見えた。
みつは瞬く。どうしたんだろうと思った。
またにいちゃんを困らせるようなことをしてしまったのだろうか。

昨日、村の人が白い着物を持ってきてくれた。さらさらしていて、日にかざすと金色の糸がぬいこまれていて、とても綺麗な着物だった。それを着たらみつもおひめさまみたいになれるのかもしれない。そう思って着たけれど、兄はやはり何も言ってくれなかった。むしろ何かに怒っているかのようで、みつを睨みつけるとそのまま外に行ってしまった。
(帰ったら、にいちゃんにあやまろう……)
みつはしゅんとして神輿の中に顔をひっこめる。せっかくのお祭りなのに、綺麗な着物を着ているのに、楽しい気分が音を立ててしぼんでくるのがわかった。理由はひとつ。兄が、みつの大好きなにいちゃんが全然楽しそうではなかったからだった。
(にいちゃんが怒るのは、みつが悪いことをしたときだけだもん……だから、ちゃんとあやまらなきゃ……)
今日は山神―オヤコさまのお祭りだと聞いていた。神輿の数は全部で5つ。それにみつと同じくらいの年の女の子が乗っていて、オヤコさまに会いに行かなければならないと教えられた。
村の人はすぐに帰れるとも言ってくれた。だから、帰ったら一番ににいちゃんにあやまろう。そう思いながら神輿に揺られていた。


神輿を担いでいるひとたちは一言も喋らなかった。だからひどく退屈で、みつはすぐに眠ってしまった。
気がついたときには日が暮れていた。帳を透かしてみても外は真っ暗で、山の森は驚くほどに静かだった。獣の声がひとつもしないのだ。神輿についてある鈴の音だけが涼やかに響いていて、それが余計に怖く思えた。

やがて降ろされた場所は木々のない岩場だった。その崖の端に小さな社が建っていて、みつたちはそこに並ばされた。目を閉じろといわれてそのようにすると、背中を押された。

次に目を覚ました時、みつは岩場に生えてある大きな木にひっかかっていた。身体の下にはどっしりとした枝とやわらかな葉っぱがある。あちこち痛むところはあったが、なんとか動けそうだった。
そろそろと動いて上と下を見る。はるか頭上にある社のある岩場も、尖がった岩の広がる谷底もひどく遠く見えた。
みつは途方に暮れた。声をあげてみたが岩場に人はもう居ないようで、誰もみつをみつけてはくれなかった。どうしていいのかわからなくて、べそをかく。
しばらくそうしていると、日が落ちて深くなってきた森の中からきいきいとした声が聞こえてきた。
「スズ、ニンゲン、ニンゲン」
「ニエ、ニエ」
「ヤコ、ヤコ」
みつが驚いて闇の中をみつめていると、みたこともない生き物が闇に蠢いていた。形は大きな、けむくじゃらの猿に似ている。それが二匹、みつを伺っているようだった。
「ツレテイク、ヤコ、サガシテル」
「ヤコ、ヤコ」
きいきいとした声はかろうじて言葉に聞こえた。それが徐々に近づいてくる。悲鳴は出なかった。喉の奥にひっついたように声が出ない。
そろそろと猿は近づいてくる。しかし、ある程度まで来たところで一匹の猿が動きを止めた。
「……コノニンゲン、ニオイスル、キンビョウ」
「キンビョウ、キンビョウ」
「キンビョウ、コワイ」
「ヤッカイ」
「コワイ」
二匹は立ち止まったまま話し始めた。みつは震えながらそれを見ていたが、やがて恐怖心が薄れてきた。大きな猿に敵意が感じられなかったからかもしれないし、みつはもともと人懐っこい子供だった。
「お猿さん」
だからおそるおそるではあるが、声をかけてみた。大きな猿はびくりとする。そうしてみつの方を見た。
「みつね、村に帰りたいの。だからここから降りたいの。手を、貸してください」
大きな猿は驚いたようだったが、やがてぽつりとつぶやいた。
「サル、チガウ。ショウジョウ」
「しょうじょう? 」
「……ヤコ、コワイ。ケド、キンビョウ、ヤッカイ」
「キンビョウ? 」
「オマエ、キンビョウ、ニオイスル。オマエタスケル」
みつはきょとんとする。誰のことかなあと思った。
「ノレ」


ショウジョウの背中は毛むくじゃらでごわごわとしていた。後ろ足が大きくて、それで地面をとんと蹴ると木の半ばまで飛びあがれる。走る速さも速くて、ごわごわとした毛に必死にしがみついていないと、あっという間に振り落とされそうだった。耳元で風が唸る。そうしていると、驚くほどすぐにみつの住む村が見えてきた。
行きはあんなにかかったのに。ショウジョウさんはすごいねえ。そういうとショウジョウはわずかに照れくさそうなそぶりをみせた。

村の手前で礼をいい、ショウジョウと別れて家に駆ける。
このときのみつは嬉しくてならなかった。岩から落ちたときは怖かったけど、不思議なショウジョウさんたちにも会えたし、こんなに早く家に帰れる。
途中で転んでまたべそをかきそうになったけど、頑張って耐えた。
もう少しで、とうちゃんにかあちゃんに―にいちゃんに会える。
しかしそう思うと今更ながらに心細さが蘇ってきて涙が出てきた。
家にたどり着いて戸を叩く。
一度。二度。
三度目に出てきたのは兄だった。
優しくて大好きな、みつのにいちゃん。

「ただいま、にいちゃん」







或る地の記憶夢D






(8)




気づいた時には、そこに立っていた。
見慣れたあばら家の土間。むきだしの土壁や地面からは冷気がしんしんと染み出してくる、冷たい場所だった。
それはぼうっと顔をあげる。そうして、顔を挙げた先に求めていたものを認めて瞳を見開いた。
―あれえ……? にいちゃん、かあちゃん、とうちゃん……。
兄達は囲炉裏を囲んでいた。囲炉裏には火があって、ひどく温かそうに見えた。
みつは震えた。とても寒かったのだ。よくよく見れば全身がぐっしょりと濡れている。粘つく液体からは錆のような匂いがした。何があったんだっけ、と思い出そうとしてすぐにやめた。そんなことよりも今は、ただ寒かった。
―にいちゃん。
みつは震えながら動こうとした。兄達の居る場所はきっと暖かい。そこに行きたい。そうして、「あやまらなきゃ」。そう思った。
しかし、足は動かなかった。
土間の隅。石臼の脇から一歩も歩くことができない。
みつはぼうっと瞬いた。頭がぼんやりして、いろんなことは考えられない。だけれどみんなのところに行きたい。その思いだけは強く存在していた。
だから呼んだ。父を、母を。そして兄を。
何度も、何度も。
しかし誰も返事をしてくれなかった。みつの声など聞こえないかのように三人は生活をする。目さえあわせてもらえない。二日、三日たってもそれは同じことだった。みつなどはじめから居なかったかのように振る舞っている。
―さびしい。
ぽつん、とその言葉が胸に落ちた。
さびしい。さびしい。……さびしいよう……。
なんでかなあ。みつは思った。
最後に見た兄の顔を思い出す。歪んで、ひどくこわい顔をしていた。みつに向かって来るなと言った。
ああ、そうかあ。そうだった。
―だから、みつは謝らなきゃならないんだった。
兄は怒ると怖いけれど、それはいつだってみつが何か悪いことをしたときだった。だからみつは思った。きっと、あのときもみつが何か悪いことをしたのだ。だからにいちゃんは怒っていたのだ。ちゃんと、あやまらなきゃ。あやまって、許してもらわなきゃ。
それに、そうすればにいちゃんたちもみつを許してくれて、返事をしてくれるかもしれない。
だからみつは謝った。
みつの前を通り過ぎる父に、母に、そして兄に。
しかしやはり誰も返事をしてくれなかった。こちらに目を向けることもしてくれない。みつは途方に暮れた。ひとりきりはただ寂しくて、悲しかった。
涙が零れる。どんなに泣いても兄たちは見てくれない。だけれど寂しくて寂しくてたまらなかった。

そうして五日目の夜のことだった。
家の外から名前を呼ばれた。
「みつちゃん」
その声には覚えがあった。
「みつちゃん、おいで」
けれどもみつは動けない。家の外からなにかが這いずる様な音も聞こえてくるが、その姿を見ることはできなかった。
「……きくばあ? 」
「そうだよ、おいで」
みつは瞬いた。ゆったりとした優しい声は、みつの懐いていた老婆のものだった。
「ほんとに、きくばあ? 」
「そうだよ」
きくばあは「死んだ」のだと聞いていた。食べるものが少なくなってすぐに、身体を壊してしまったのだという。みつには「死ぬ」ということがよくわからなかったが、それでも「もう二度と会うことができない」と兄に教えてもらっていた。
そう聞いた時は泣いたものだった。大好きなきくばあに会えないのはただただ悲しくて、たっぷり三日はぐずっていた。泣き止めないみつを兄は邪険にしなかった。優しい言葉をかけてはくれなかったが、「会えなくなるのはさびしいよな」とだけつぶやいてずっと一緒に居てくれた。
「きくばあにはもう会えないと思ってた……」
「そうかい」
また外でずるずると音が聞こえた。それと共に鈴の音も聞こえてくる。
「みつちゃん、ひとりで寂しいんだろう? ばあちゃんと一緒においで」
きくばあの声は優しかった。その温かさに喉がぐうっと苦しくなって、さらに涙が零れてくる。
―だけど。
「きくばあ、みつね、動けないの」
「……」
「なんでかわかんないけど、ここからね、動けないの」
みつは外に向かって応えた。動けないし誰も自分を見てくれない。それが寂しい。そういうと、やがてきくばあが笑みを含んだ声を出した。
「……そうかい。みつちゃん、あんた強い心残りがあるんだねえ。だからそこから動けないんだ。可哀想に。ひどいことをするねえ」
「こころのこり? 」
みつはきょとんとする。はじめて聴く言葉だった。
「殺されて、恨みがあるんだねえ。とうちゃんたちに死んで欲しいんだ。そうだろう? 」
「……わかんない」
みつは正直に答えた。「うらみ」という言葉は分からなかったが、しかし「死ぬ」と言う言葉はなんとなく理解できそうだった。
「きくばあ、死ぬってなあに? 」
「きくばあやみつちゃんと同じものになることさ」
「おなじもの? 」
「おなじもの。……そうだね。弥彦坊やとうちゃん、かあちゃんも、同じものになればみつちゃんのことが見えるだろうねえ」
また外でずるずると音が聞こえた。家の周りを回っている。そんな気配がする。
きくばあが笑った。
「そうだ。ばあちゃんが手伝ってあげよう」
「……手伝う? 」
「ばあちゃんがみんなを殺してあげるよ。だからみつちゃんは邪魔をしないでくれたらそれでいい」
「邪魔? 」
「ああ。そうすれば一緒に山に行けるよ」
みつはぼうっと、襤褸布団にくるまって眠っている家族の姿をみやった。「殺せば」、またみんなは自分を見てくれるのだろうか。「同じもの」になれば、みつの声を聞いてくれるのだろうか。
そう問うと、外のきくばあは機嫌よく応えてくれた。
「ああ、会えるよ。それからうんと恨みをはらせばいい」




きくばあは、何故だか家に入ることが出来ないようだった。だから外から戸を叩く。家の人間が自分の意志で戸を開けて、そうして出てくるまでそれは毎晩続いた。
みつは言われたとおり邪魔はしなかった。大人しく、けれどもわくわくと皆が死んでしまうのを待っていた。「恨み」なんてわからない。ただただ寂しくて、もう一度家族と話せるならなんだっていいと思っていた。
やがてとうちゃんが死んだ。
けれども、やはりみつは動けなかった。山にも行けないし、とうちゃんにも会えない。全員を殺さなきゃ駄目なんだね。きくばあは嬉しそうにそう言って笑っていた。
そのころには寂しさが身体の中にいっぱいになっていて、そればかりに頭を支配されるようになっていた。
死ねば、家族が全員死ねばさびしいのが無くなる―。
ただ、それだけだった。



しばらくして、ひとりの男がやってきた。
いつの間にか家の中にするりと入り込み、そうしてみつに話しかけてきた。
どこかで会ったことのあるような気がしたが、今のみつには何も考えられなかった。さびしくてさびしくて、家族が全員死んでしまうことだけを心のよりどころにして存在していた。頭の中はそれだけでいっぱいだった。
男は兄の言葉を伝えてきた。
おれを先に殺してくれ。だけど、かあちゃんだけは助けてやって欲しい。
みつは笑った。嬉しかったのだ。にいちゃんは死んでくれる。殺されてくれる。みつと一緒に居てくれる。言葉の後半はすぐに忘れてしまった。何故ならみつは母にも会いたかった。みんなに会いたかった。だから、ひとりだけ殺さないでおく事なんてできないのだ。
笑い続けるみつに男は感情の読み取りにくい金色の瞳を向ける。そうして言った。
「嬢はわしに芋をくれたな。だからひとつだけ手を貸してやってもよい。何か願いはあるかの? 」
みつは笑い続けた。みつの願いはもうすぐ叶うのだ。だからそんなものいらなかった。


かあちゃんが死んで、あとはにいちゃんだけになった。
みつは嬉しくて嬉しくてたまらなかった。もう少しなのだ。もう少しで会えるのだ。
冷たい土間でじっとしていることもない。
早くきくばあが来て、にいちゃんを殺してくれないかなあ。みつはわくわくしながら囲炉裏端で寝転んでいる兄を見る。
ちらりと、寂しいという感情以外のものがよぎった。痩せて顔色の悪い兄は、少しも幸せそうにみえない。ただ悲しそうにだけ見えて、何故だかそれに胸がざわざわとした。


変な気分のまま、家を出て行く兄を見送った。きくばあが来ると、兄はすんなりと戸を開けた。母のときは随分時間がかかったのに。そう、ぼんやりと思った。
「嬢は兄も殺すのかの」
気がつくと、この間の男が家の中に入り込んでいた。そのときようやく思い出した。金の髪の坊さまだ。兄が言っていた、力のあるお坊さま。
「みつは殺さないよ。きくばあが殺すの」
「同じことだろう」
あっさり言われてみつは瞬いた。
「おぬしはヤマガミを止めなかった。だから同じことだ」
「……」
「家族のことだけを案じ、座敷童子になりかけておったおぬしが居るから家の中は神域になる。だがおぬしはヤマガミを止めなかった。自分のことだけを考えて、それに囚われて単なるあやかしになった」
「……」
「兄が許せないか。憎いか」
みつはぼんやりと男をみやった。言葉の半分は意味さえわからない。ただ、叱られているということだけはわかった。
「……そんなの、わかんないよ。ただ、さびしい。だから……」
「寂しいから殺すのか。殺されたお前が。殺される痛みを知っているお前が」
「…………」
ぽかんとしていると男が近づいてきた。何故か足音はしない。衣擦れの音、そうしてさらりとした髪が闇の中でまぶしく見えた。
男はみつの額に手を伸ばす。そうしてその指をぱちりと鳴らした。
ただそれだけ。しかしそれだけでみつの脳裏に、死んだ時のことが夢のように蘇ってきた。
「……あ」
痛い。痛い。痛い。とにかく痛くて、誰も助けてくれなかったことが寂しかった。いつもは助けてくれるのに。だから、自分は嫌われたんじゃないかと、それだけを考えながら死んでいった。
そうして残ったのは寂しさだけ。だから、みつはここに縫いとめられている。
みつは震えた。歯ががちがちと音を立てる。
「……に、にいちゃんも、おんなじような目にあうの? 」
「力のあるものはある意味残虐だからのう。人間なんぞ暇つぶしの玩具みたいなもんだ。引き裂いて抉り出して、坊が苦しむのを存分に楽しむだろうて」
母も父も、同じような目にあったのだろうか。そう考えるとゾウッと胸が冷えた。
痛くて、辛くて、寂しかった。それを家族に味わって欲しかったわけではない。それでも結果的にみつはそれを招いてしまった。
それだけは、真実だ。それをようやく悟った。

ぽろぽろと涙が落ちる。唇が震えた。
「……た、たすけて」
「……ん? 」
「坊さま、にいちゃんを助けて。助けてください。み、みつに出来ることなら、なんだってするから……」
勝手な願いであることは分かっている。だけどもみつは必死だった。ひゃっくりあげながら頭を下げる。
するとその頭にあたたかなてのひらが乗せられた。
そうして想像以上にあっさりとした答えが返ってきた。
「おう、まかせておけ」
みつは顔を挙げる。驚いた表情をしていたのだろう。男は闊達に笑う。
「覚えておけ。猫はきままな生き物で恩なんぞすぐに忘れてしまうがの、食べ物のことだけは少しは覚えておるもんなんだ」
そうして笑みを含んだまま、片目を瞑って見せた。


「あのとき分けてくれた芋は、ほんにうまかったからのう」









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2010・7・17










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