「或る若社長の花嫁」

或る地の記憶夢C



(7)


叫び声が、響いた。




弥彦ははじめ、その声は自分が出しているのだと思った。みつが自分を引き裂き、その痛みで自分が叫んで居るものだと。
しかし―。
「……みつ! 」
弥彦は叫んだ。目の前のみつが倒れて呻いている。その半身が赤く裂けているのがみえた。
あわてて駆け寄ろうとしたところで後ろから伸びてきた手に襟首を掴まれる。そうしてそのまま後ろへ投げ飛ばされた。
地面の上を転がる弥彦の視界の端に映ったのは、見覚えの或る一人の僧侶の後姿だった。
「さすがだのう、まだ生きておるのか」
その声は実に飄々としている。
見覚えのある髪が闇に光る。
「おまえは……」
痛みを感じさせない動作で起き上がったみつが目つきを険しくする。射殺さんばかりの勢いで殺気が膨れ上がるのがわかった。
「……あやかしめが。誰の認を得てこの山に入り込んでおる」
半身の赤く染まったみつは低くそう言った。ぎりぎりと音がしそうなほどの嫌悪がその声には込められている。
対する金髪の男の声に緊張感はみられなかった。へらりとした口調で首を傾ける。
「おかしなことを言う。山は山だ。誰のもんでもないだろう 」
「この……痴れ者が」
弥彦はただ、呆然と目の前の男をみつめていた。闇の中でも月のような色の髪には覚えがあった。
金の髪の坊主。
弥彦はそんな人間は、ひとりしか知らない。
「み、三尾、さん……」
その名を呼ぶと目の前の男が振り返った。笑みを浮かべる青い瞳が、今は金色に光っている。
「おう」
振り向いた僧服には赤いものがべっとりと付いていた。その右手の爪は異様なほどに長く鋭く尖っていて、そこからさらに赤いものが滴り落ちている。
「……」
「坊はそこでじっとしておれ。動くとおぬしまで怪我するからのう」
物騒な格好のまま男は笑う。そうしてみつへと向きなおった。
弥彦は呆然とその姿を見る。
赤い僧服。伸びた爪。そして―目の前で血に塗れている妹。
弥彦は慌てて叫んだ。
「ま、待って、待ってくれ、三尾さん……! 」
必死で立ち上がる。そのまま三尾の側を駆け抜けてみつの前に立った。
両手を広げて三尾に向き直ると、男の驚いたような表情が目に飛び込んでくる。
「や、やめてくれ、みつを―妹を、殺さないでくれって言ったじゃないか……! 」
おそらく三尾という男は人間ではないような気がした。けれども弥彦を助けてくれたのだろうことはわかった。何故かはわからない。だけれどそれはまぎれもない好意であるような気がした。
しかしそれでも、弥彦にはしなければならないことがあった。
みつへの償い。
それをしなければ自分が此処に居る意味がない。そう思っていた。
だから、叫んだ。
「みつは、悪くないんだ。悪いのは俺だった。俺が、俺がみつを狂わせたんだ。だから、俺が、償なわなきゃ、ならねえんだよ……! 」
それでみつの気が治まるなら、少しでも治まるなら、殺されてもかまわない。
「だから……」
「にいちゃん」
背後からそっと手が伸びてきた。小さな手が弥彦の手を掴む。冷たい手だった。
「みつ、もう死にたくないよ…… 」
「ああ。わかってる」
弥彦は頷く。頬を温いものが流れていた。
「にいちゃんが、守ってやる」
「うん」
みつの声に喜色が滲む。
「そうだよう。にいちゃんはみつを見殺しにしたんだから、おわびに今度は守らなきゃならないよねえ? 」
「…………」
「ねえ、だったらソイツ、やっつけちゃってよ。みつねえ、ソイツ、嫌いなの」
小さな指が三尾を指す。くすくす、と背後で笑い声が聞こえた。
「ねえ、お願い。にいちゃん」
弥彦は塗れた頬を腕で拭った。色は付いていない。そこではじめて弥彦は、自分が泣いていることに気づいた。
「……三尾さん、俺のことはもういいんです。だから、どうか、帰ってください」
ようやく搾り出した言葉に帰ってきたのは、呆れたような声だった。
「それは出来んのだ」
「三尾さん、俺への慈悲なんか勿体ねえんだ。だから、どうか」
三尾が肩をすくめる。そうして頭を下げる弥彦に目を向けた。
「坊。わしは別におぬしへの慈悲なんぞは……」
言いかけた言葉は、何故か次の瞬間には耳元で聞こえていた。
見開く瞳に男の姿は映らず、それを認識した瞬間に再度襟首を掴まれた。そのまま身体が空に浮かぶ。次いで何かを裂く様な嫌な音がした。
「みつ……!」
叫んだ瞬間に背中から地面に叩きつけられる。その衝撃で一瞬息が止まった。
それでも脳裏にあるのは妹のことだった。今度こそ守ると決めたのだ。だから弥彦は必死だった。

―みつが殺される。

「三尾さん……やめ……」
三尾を止めようと起き上がった弥彦は、目の前の光景に思わず言葉を途切れさせた。
ぱたぱたと地面に赤いものが落ちる。
「……ほう。人間ごときを身を挺して助けるとは……金の猫も気がふれたのか? それともいつもの気まぐれか? 」
ずるりと身体に刺さっていた白いものが抜かれる。それと同時に膝をついたのは、『先ほどまで弥彦が居た』場所に立っていた男だった。
地に倒れ臥した男の向こうではみつが笑みを浮かべている。先ほどまで男の身体に「刺していた」腕からは自分のものではない血液が滴っていた。
みつは弥彦に瞳を向ける。そうしてその形を三日月の形に細めた。
くすくすと笑い声が周囲に響く。
「―せっかく『にいちゃん』の心の臓をひと突きにしてやろうと思うたのに」


「……それは出来んといっておるだろう」


言葉をなくしたまま立ち尽くす弥彦の耳に、血塗れのまま立ち上がろうとする男の声が入ってきた。
その横腹には穴がぽかりと開いている。そうしてそこから溢れ出る血液の量は尋常ではないように見えた。
弥彦の全身の血がひいていく。
三尾は自分を助けたのだ。そうして怪我を負った。本来なら、自分のことなどに関わらなくてもよいはずなのに。
「愚かな。三つ尾の獣ごときがこのわしを殺れるとでも? 」
みつは嘲りを含んだ笑みを浮かべたまま無造作に目の前の身体を蹴り上げた。押し殺した苦悶の声が三尾から洩れる。それを見ていっそう嬉しそうに微笑むみつに背筋が粟立った。
「み、みつ止めろ……! み、三尾さんは俺らには関係ねえ人なんだ、やるなら俺を……」
「……くす、五月蝿いねえ。まずは三つ尾と遊んでから、その後でちゃあんと殺してあげるってばあ」
妖艶にみつが笑う。もうそれは生前のみつの面影を欠片も残していないように思えるものだった。
弥彦の声など届かない。もう、別の―なにか。
「―だから、それは出来んと言っておるだろう」
そうして口を開いたのは三尾だった。
男はよろよろと立ち上がる。
「坊。わしは関係なくはないぞ。わしは頼まれたんだからのう」
「……え」
三尾は口元からも溢れ出る赤いものを手で拭い、呆然とする弥彦に向けてにやりと笑って見せた。


「おぬしの『妹』にの」








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2010・7・11










或る血の記憶









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