「或る若社長の花嫁」

或る地の記憶夢@








最後に見たのは兄の姿だった。
蒼ざめた、強張った顔の中で瞳が見開かれるのだって、はっきりと見えた。
それと同時に、三度何か重いものが頭の上に当たったのを感じた。
衝撃は激しく、重かった。小さな身体では耐え切れずによろりとふらついたのがわかった。
次いで左側から地面に倒れこんだことも。
それを訝しがる前に猛烈な、それこそ頭を引き千切らんばかりの痛みが襲ってきた。
痛い、と思った。幼い子供の頭では襲ってくる感覚をそう称するしかなく、だから胸中はその言葉で溢れかえった。
痛い。痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
どうしよう、と思った。
痛い。痛い。
こんなに痛いなら死んじゃう。
どうしよう。
どうしよう。痛いよう。
倒れたまま見開いた右目に立ち尽くす兄の姿が飛び込んできた。
―兄ちゃん。
それが果たして声になったのかはわからない。
けれど必死に手を伸ばした。何故だか左手は動かない。だから右手だけをうんと頑張って動かした。
その子供にとって、兄は誰よりも優しくて頼りになる存在だった。
今、目の前で「自分に向かって」鍬を振り上げている父よりも近しく、母親よりも側に居てくれた。
いつもいつも優しかった。言葉はぶっきらぼうで時折ひどく叱られたりもしたけれど、それでも子供のことを大切にしてくれていた。自分は一睡もせずに笹の葉でかざぐるまを作ってくれた。暗い夜は一緒に眠ってくれた。歩けなくなるとおぶってくれた。

―助けて、兄ちゃん。

だから子供がその存在に助けを求めたのは当然ともいえた。当たり前のように兄を呼んだ。
そうすれば兄はいつでも、どんなときでも助けてくれる。
それを信じていたからだ。

しかし。


「ひっ……」
兄の喉からなにか引き攣れたような音が洩れた。そうして後ろへ多々良を踏み、尻餅をつく。その表情は引き攣り、忌まわしいものをみたかのように歪んでいる。

―兄ちゃん。

聞こえなかったのかもしれない。だから何度も兄を呼んだ。呼ぼうとした。
泣きたかったけど泣けなかった。ただただ痛くて、そうしてその中に一筋のひかりのようにあるのはたったひとつ、兄なら助けてくれるという思いだけだった。
身体が濡れている。
それは自分が倒れている地面も同じことで、今もなおねっとりとした水が溢れ出ていた。
その中で右手をあげる。兄に向かって、助けを求めて。

ようようと挙がったその手の先で兄が悲鳴をあげるのが見えた。来るな、と誰かが叫んだような気がした。いや、実際に兄は叫んでいた。

いやだ、見たくない。
いやだ。いやだ。いやだ―。

―なんで。

激しい痛みの中、その疑問だけがぽつんと落ちた。
なんで。
どうして。
こんなに痛いのに、熱いのに、冷たいのに、動けないのに、なのに、なんで。



―どうして。


ああ、痛いよう。
痛いよう。


兄ちゃ……。



―どうして。






或る地の記憶夢@










「母ちゃん……具合はどうだ? 」
弥彦は三和土から居間に上がりながら部屋に居る人物に声をかけた。そうして家の中の冷気にわずかに身震いする。白く、息が凍えていた。
季節は秋。板張りの壁からも藁葺の屋根からも、しんしんとした冷気が染み込んできていた。

村は山に囲まれている。ひとつの山を越えるのには大人の足でも三昼夜。晩秋の陽をうけて黒々とした稜線を描き出すそれははるかに高く、まるで抜け出すことの出来ない牢獄のように村を四方から取り囲んでいた。
だからだろう。陽が落ちると村は驚くほど冷え込んだ。山はすぐに陽を隠しては静かに影の腕を伸ばす。そうして村にずるりと覆いかぶさるからだった。山外の村ではここよりも遥かに陽が長いことを聞いて驚いたことを覚えている。
弥彦は息を吐いた。陽は落ちかけている。黄昏ともいえないほどの弱い光の、薄ぼんやりとした部屋の片隅で、襤褸布団に包まって寝ている母親の姿が見えた。
弥彦は薄い粟粥の入った椀を持って母親の側に座る。
「母ちゃん、食べれるか……」
母親は答えない。しかしその目は開いていた。ここ半年でふっくらとしていた白い頬はこけ、瞼は落ち込んでしまっている。急激に白髪の増えた髪をたばねることもせず、ただただ茫洋とした瞳を空に向けて仰臥していた。
「……母ちゃん」
三度辛抱強く呼びかけると、母親がぽつりとつぶやいた。
「……夜になるのね……」
「ああ、うん」
「あの子が、みつが、来る……」
「……そんなわけないだろ」
「来るの。来ているの。毎晩、家の前に立ってる……憎い、憎いって……」
弥彦は憔悴しきった体の母親から目を逸らした。母親の瞳は日に日に虚ろになっていく。ぼんやりとしたそれは、しかしむしろ日をおうごとに安らかになってくるような気がして、それこそが恐ろしかった。
「母ちゃん」
弥彦は母の言葉を遮った。
「みつはオヤコさまの嫁になったんだ。だからここに居るはずがない。わかってるだろ」
「……」
母親は黙り込んだ。それが詭弁であることは当の弥彦にだってわかっている。
妹は―みつは、半年前に山神の嫁にされた娘、だったのだ。




雨の少ない年だった。田はすべて乾ききり、稲はまったく育たない。太陽だけは照り続け、備蓄されていた米は戦を行い続ける大名に徴収された。残された民にできることは神に祈ることしかなかった。
弥彦の村は山に覆われている。だからだろう。山は何よりも尊重されるものだった。そうして山には山のすべてを統べるものが住んでいた。山の神。村のものはオヤコさまと呼んで恐れと共に敬っている。
オヤコさまの祟りだ。そういい始めたのは誰だったのか。食物が底をつき、名もない草や木の根さえ食み始めた頃にはその考えが村には浸透しきっていたように思う。
村人の衰弱は激しく、人は弱いものから死んでいった。幾人死んだのかは分からない。次々と死にゆくもののなかには肉親に殺されたり捨てられたりしたものもいたようだったが、それを裁けるものは村の中にはいなかったし、そんな余裕はどこにもなかった。
オヤコさまに嫁を。
長老の言によると、はるか昔にも同じようなことがあったらしい。そうして、その時には五人の娘を捧げて許しを乞うたとのことだった。その結果、村は救われた。
だから働き手にもならない幼子。その中から生贄が―いや、嫁が選ばれるのは至極当然のことだった。


「にいちゃん、みて。すごくきれいなの」
満面の笑みでくるりと回った妹が着ていたのは白装束だった。目にまぶしいほど白く染め抜かれた着物には金の糸で細やかな刺繍が施してある。細い右腕には鈴のついた金の輪がちりちりと揺れていた。それが山神の元へと向かう娘の装束だと知っていた弥彦は愕然とした。
昨年よりうんと痩せこけた妹は何も知らずに笑っていた。いつも腹をすかしてべそをかいていた妹の久しぶりの笑顔を見ながら、しかし弥彦は声ひとつ、出せなかった。

そうして、五人の幼子は山へ連れて行かれた。
笑顔のまま弥彦に手を振る妹を見て、身を引き裂かれる思いだったことを覚えている。
このままでは村が死に絶える。だから仕方がないことだとはわかっていた。しかしそれでも妹を連れて、どこかに逃げ出したい衝動にかられていた。そうしなかったのは父と、そうして母も同じ気持ちであったためだった。悲しいのは自分だけではない。生贄に選ばれたほかの子供達の親もどんな気持ちだったろう。
子供達の姿が見えなくなってから誰かがわっと泣き出した。茫洋と家に戻る者、その場に膝まいて山神に祈るもの。
弥彦はひとり、ずっと山を見つめていた。言葉では言い表せないほどのやるせなさが身内に渦巻き、そうして何も出来ない自分が憎かった。しらず握りこんだ拳の中、伸びた爪がてのひらに食い込む。皮膚が破れる感触がした。生暖かいものが溢れ出る。痛みはさらに悔いを呼んだ。こんなものよりももっと痛い思いを妹はすることになる。それを知っていたからだった。

―山に連れて行かれた娘達はその頂上に程近い谷間から突き落とされる―。

もう会えないのだろう。弥彦にだってわかっていた。
しかしその翌日の夜。
妹は帰ってきた。たった、ひとりで。

どうやって帰ってきたのかは、弥彦たちにもわからない。大人の足で三昼夜かかる山。子供達を連れて行った男達でさえまだ戻ってきてはいなかった。
しかし確かに妹は帰ってきた。白装束はぼろぼろに汚れてしまっていたが、それでも確かに妹だった。
―みつ、ひとりで帰ってこれたよ。にいちゃん、みつ、えらい?
そういって笑うみつの頬には泣いた後がいくつも残っていた。みつの声は嗚咽のなごりで震えてさえいた。それでも帰ってこれたことが嬉しかったのだろう。幼い顔をくしゃくしゃにさせて弥彦に飛びついてきた。
だが―。
喜ぶことは、できなかった。


生贄に捧げたはずの娘が帰ってきた。
それは―山神への反逆を意味している。


―捧げたはずの嫁だ。早く山神にお返しせねば怒りを買うだろう。
父親のつぶやいたその言葉の意味を、弥彦ははじめ理解できなかった。ただ母親が顔を覆って泣き出したので、ようようにその言葉の意味を悟った。
―今ならまだ、間に合うかもしれない。
山神の怒り。それはこの村で生きていかねばならぬ身としては恐ろしいことだった。だから父親は言ったのだ。
―これからみつを、神にお返しする。



父親は、母親にはみつの死体を見せなかった。それは正しいことであったのだろうと弥彦は思う。
何故なら、みつの最後の姿は本当にひどいものだったのだ。あのとき、父親の振り下ろした鍬は一撃でみつの命を奪うことはできなかった。だからそれは何度も、何度も。小さな身体に振り下ろされたのだ。
白いものと赤いもの。それらが混じって地面に糸を引いて流れていた。着ていた綺麗な白装束はとうの昔に赤く染め抜かれ、べっとりと広がっていた。

思い出すと喉元からこみ上げてくるものがあって、弥彦は口元を押さえた。来るなと父親は言った。言ったのに弥彦はその現場に行き、そうしてみつの命が消える瞬間を見てしまった。
最後にみつの目がこちらを見た気がする。そうして片腕がかすかに動いたことも、何かを言いたげに赤く染まった唇が動いたことも。
そう、たぶん妹は自分に助けを求めたのだと思う。忙しい両親に代わり、小さなみつの世話をしていたのは常に弥彦だったから、妹は誰よりも自分に懐いていた。
しかし―自分は動けなかった。みつを助けなきゃ。そう思っていた。しかしその時には、すでにみつとは思えない……ただの肉塊に変わりつつあるのに動いているという奇妙な存在が恐ろしくてならなかった。
悲しみと後悔が湧いたのはすべてが終わってからのことだった。父親が動かなくなったみつを抱えて裏山に消えた。そうしてはじめて、みつが「死んだ」ことを認識した。あの肉の塊が、みつであったことを理解した。
弥彦は吐いた。涙が溢れて頬を伝う。ひゃっくりあげながらそれでも吐いた。吐くものがなくなってからもその場に額をつけたまま泣いた。
何故泣いているのかはわからない。さまざまな感情がひしめいていて、それをうまく掴み取ることができなかった。
そうして五日後。
雨は天より降り注いだ。
神によって村は救われた。皆、そう思った。




その十日後のことだった。


父親が、死んだ。









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2010・6・19










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