「或る若社長の花嫁」

或る地の記憶夢A







実の娘に手をかけてから三日。
太助は眠れない日が続いていた。

そりゃあそうだろうと太助は思う。憎くもない、我が子を手にかけたのだ。辛くないわけがない。ただ、哀れだった。最後まで泣きも叫びもしなかった娘の亡骸を埋めながら太助はひっそりと泣いた。
妻と息子。娘に手をかけたのはひいていえば二人を守るためだった。全員は守れない。ならば何かを切り捨てなければならない。それは自然の摂理でもあったし理解もしていたが、それでもひどく辛かった。
娘の命を絶った鍬は赤色に塗れている。いっそのことそれも捨ててしまいたかったが出来なかった。これがなければ田畑を耕せない。生きていく為には仕方のないことが彼にはたくさん存在していた。

そうして切り捨てたもの。それにより、村は助かった。
命を繋ぐ雨は天から降り注ぐ。それを浴びながら太助は自分が正しいことをしたのだと悟った。いや、自分に言い聞かせた。


仕方ない。
仕方のないことだったのだ。


そう繰り返し自分に言い聞かせながら床についた太助は、そこで小さな音を聞いた。
雨は降り続けている。地を、戸を叩く音は激しく響いている。それというのにその音はまっすぐに太助の耳に届いていた。
はるか遠くから聞こえてくるのにやけに耳に残る、それ。

……そうして、それは日を追うごとに徐々に近づいてくるようだった。






或る地の記憶夢A










太助はともすればぼんやりと霞がかる頭を振った。
手にした鍬を地面に立てそれに体重をかけてもたれかかる。そうして息を吐いた。
天に広がる空は青い。濃い緑色に染まった山々は額の様に空を切り取っていた。その額の縁に見える白いものを認めて太助は目を細める。
嵐を呼ぶ雲だ。それはこの村に雨を呼び込むなによりも大切なものだった。
この地は乾ききっている。しかし神の恵みにより、少しずつではあるが息を吹き返しつつあった。

「―弥彦、嵐になる。けえるぞ」
声をかけると側で鍬を振るっていた息子は背を伸ばし、父親と同じように天を仰いだ。太助と良く似た癖毛の髪を湿った風が撫でていく。
弥彦は頷く。しかし父親に目を向けると、かすかにその眉をひそめた。
「……父ちゃん」
「なんだ」
「大丈夫か、すごい顔色だ」
言われた太助は片手で自分の顔を撫で上げた。
「そうか?」
「寝られねえのか」
「……おめえは、平気か?」
「うん」
「弥彦」
「うん」
「いいか。……もし夜に誰かがおめえを呼んでも、決して家の中には入れるんじゃねえぞ」
「……え」
「いいな」
「……うん」
太助も弥彦も口数が多いほうではない。ぼそぼそと言葉を交わしながら、太助は息子の頭を軽く叩いた。
「……母ちゃんを、頼むぞ」

太助にはわかっていた。
日に日に近づいてくる音。それは、鈴の音だった。
漣のような音を立てるそれには覚えがある。
最後に見たのは自分が土を被せる寸前のものだった。月光の中、黄金色をはじいてかすかな音をたてていた。
ちいさな白い手首に巻かれていたそれにも赤いものがべたりと塗りたくられていた。
近づいてくる鈴の音とともに何かが滴るような音も混じる。
そうしてかすかな土を踏む音も。滴り、湿った土を踏むものは毎日ゆるゆると近づいてくる。
昨日は戸口の前まで来た。では、今日は―。

―とん。


戸口を叩かれ、息を飲んだのは太助だけだった。隣で眠る妻も息子も、その音には気づいていない。何故聞こえないのか、と思った。太助の耳にはどんな音よりも強く響いてくるのに。

―とん。とん。

太助はそろりと立ち上がった。手が震える。耳の奥でざあざあと血潮の音がした。
「―みつ、か……? 」
問いかける声は自分のものとは思えなかった。掠れ、震えている。
しかしその声に戸口を鳴らす音がひたりと止んだ。しんとした静寂が満ちる。
「みつ……」

許してくれ、と思った。
仕方のないことだったのだ。この村の誰が聞いても太助を責める者はいないだろう。
息子も、妻も。
しかし―。

とん、とん。
とん、とん、とん。
とん……。
…………。

とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん
とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん
とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん


そう。
家族の犠牲にされた幼い娘。娘自身はどう思うのだろう。
大人の事情で勝手に命を絶たれた。その理由を知るはずもない娘達はどう思うのだろう。

太助は知っていた。

あの子は―みつは、自分を恨んでいる。




父親の死体が発見されたのは、北の山から流れてくるほそい沢でのことだった。
その身体はぼろぼろになっていた。頭が割れ、内臓がごそりとなくなっていた。
谷から落ちて下流まで流されたところを獣に襲われたのだろう―。村のものはそういったが、何故山に入る必要のない父親が谷へ行ったのか、その答えを持ち合わせるものはいなかった。





(3)




みつはかざぐるまが好きだった。
とはいえ紙で作られた、裕福な子供が手にするような綺麗な玩具ではない。
みよう見まねで弥彦が作った笹の葉で作ったお粗末な代物。それをみつは好いてくれていた。弥彦が作ったそれを嬉しそうに手にして畦道を駆ける。まだまだあどけない風情の子供は、満面の笑顔で愛らしく笑っていた。

弥彦は出来上がったかざぐるまを地面に突き刺した。空は曇天。生温い風が吹きぬけ、拙い玩具をくるりと回らせる。
家に帰ると、母親がぼんやりとした瞳で天井を見上げていた。いよいよ衰弱して物も食すことのできぬようになってきた母は、それでも何故だかひどく安らいで見えた。
弥彦は戸を閉める。
戸締りを確認するのは、父親との約束だからだった。夜に何が来ても家には入れるな。弥彦には母親を守るという役目があった。だからきちんと戸を閉めて夜を迎える。

―夜にみつがやって来る。

母親は言う。夜になるとみつが来る。そうして言うのだそうだ。母ちゃん、苦しい。痛い。助けて。開けて。みつをここに入れて。
そうして戸を叩く。何度も何度も。それこそ夜が明けるまでそれは続く。
戸を開けようとする母親を止めるのは弥彦の役目だった。弥彦にはみつの声は聞こえない。戸を叩く音も、気配も、なにひとつ感じることは出来なかった。
錯乱しては弱々しく泣く母親が疲れて眠ってしまうまでそれは続いた。それからわずかの間で睡眠を取り、陽の光が射し始めると実りの少ない畑に出かける。弥彦の日々はそうやって続いていた。疲れきり、睡眠さえも禄に取らない身体は休息を望んでいる。だが、休むことは出来なかった。
ぎりぎりと痛む頭の中、空を見上げながら弥彦は思う。どうしてみつは自分のところに来てくれないのか、と。

弥彦は父親に母親のことを頼まれた。だから守りきる覚悟で居る。しかし、自分のことは別だった。もしも自分の元にみつが来たら、そのときは喜んで殺されよう。そうして、母親のことだけは勘弁してもらおう。そう思っていた。

昨日会った旅の坊主に洩らした言葉は真実だった。
坊主はいくらか前にかつて一度、この村にやってきたことのある男だった。
金の髪をした坊主は珍しい。だから覚えていた。そのころから飢饉の前触れは来ていたので、一宿一飯にもありつけていないようだった坊主に、妹が自分の昼飯をあげるのだと言ってきかなかった。だから弥彦は自分の分の芋を渡した。坊主はさすがに面食らったようだったが、芋を無理矢理押し付けた。

坊主はそのことを覚えているようだった。弥彦の名を呼び、そうして妹はどうしたのかと聞いてきた。
弥彦は答えた。そうして頼んだのだ。
早く自分のところに来て殺してくれ。
そうみつに伝えてくれと頼んだ。珍しい髪の色の坊主なら、みつのことが見えるかもしれない。だから頼んだ。
自分を助けてくれとは、言わなかった。




(4)



まつは眠り込んでいる息子の頬をそっと撫でた。
娘は死んだ。夫も死んだ。残されたのは息子唯一人で、その息子も今やすっかり痩せこけてしまっている。
弥彦は良く出来た子だった。齢は十三。まだ、子供だ。それなのに夫の遺言を守り、母親であるまつを守ろうと必死になってくれている。昼は畑で働き、夜は自分を守るために眠ることも禄にしなかった。
しかしそれにも限界がある。泥のように眠り込んで動かない弥彦に襤褸布団をかけ、そうして頭を撫でながら、まつはその時を待った。

―とん。

鈴の音。地を這う音。そうしてやがて近づいてきたそれは戸を叩いた。

―とん、とん。


まつは立ち上がる。病に蝕まれている身体を這うようにして起し、そうして戸口に向かった。戸を叩く音は続いている。
「みつ……」
声をかけるとひたりと音は止んだ。そっと息を殺しているような気配がする。
「みつ……」
この戸の向こうに死んだはずの娘がいる。どんな姿をしているのだろうと思った。まつは娘の亡骸を見てはいない。しかしそれはさぞかしひどいものであったのだろうということは、夫や息子の様子を見ていればわかっていた。
もしもその姿でいるのならば、果たして自分は正気を保っていられるのだろうか。
手が震える。歯がかちかちと音を立てた。
あれども、今の自分がやらなければならないことだけは理解できていた。
まつは両手を合わせる。そうして祈った。

ごめん。ごめんね、みつ。
だけどどうか見逃して。どうか、弥彦だけは見逃して。
かあちゃんが一緒に行くから。だから、どうか―。

まつは戸に手をかける。
そうして開いたその先、大人の一歩ほどの距離の場所にソレは居た。
白装束を着た、小さな小さな人の影。手首に巻いた鈴がちりんと音を立てた。
紅をひいたかのような赤い唇が笑みを刻む。
それが小さく言葉を零した。

開いた、と。






弥彦が目を覚ました時、すでに陽は高く昇っていた。身体を起した瞬間目に入ってきたのは開け放した戸だった。部屋の何処にも母親の姿はない。それに背筋が粟立った。

「弥彦、弥彦! 起きろ! や、山でおまつさんが……!」

そうして弥彦が見たのは、父親と同じような体で息絶えている母親の姿だった。










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2010・6・26










或る血の記憶









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