「或る若社長の花嫁」

或る地の記憶夢






彼が使うのは炎と夢。
そうして過去の、夢を見る。

彼が使うのは炎と夢。
それを用いて生きていく。

彼が使うのは炎と夢。
そうして稀に、人に課す。





プロローグ








「椿さん。何か欲しいものはありませんか? 」
小さな頃、自分はよくこう尋ねていたと思う。
恋慕という感情を自覚する前。それでも何かを、彼女にしてあげたかったことを覚えている。
「何だっていってください。僕、持ってきますから」


彼女は祖父の古い屋敷に住んでいる座敷童子だった。幾分古びた日本家屋。その奥座敷にいつも居て、そうして自分が訪れると嬉しそうにしてくれた。
私の姿が見える子供なんて久しぶりだ。彼女はいつもそう言っていた。
本当に嬉しいぞ。そう言ってあどけなく笑っていた。

 彼女がそう言ってくれることが嬉しかった。自分が来ることで笑ってくれることが嬉しかった。
胸の奥がこそばゆく、言葉にできないような感情があらわれはじめたのも出会って間もなくのことだった。

 外に遊びに行きませんか。
 屋敷で遊ぶばかりでは退屈する。だからそう誘ってみた。彼女と外を歩けたらどんなに楽しいだろう。そう思った。
公園に行ってブランコで遊ぶのもいい。彼女は高いところが好きだから、きっと気に入るだろう。
 しかし彼女は首を横に振った。そうして笑みを浮かべる。私はこの屋敷から動けない。私はこの家を守るものだから、ここから出るわけにはいかない、と。

 どうしてですか。
 そう尋ねると彼女ははんなりと微笑んだ。その笑顔はいつものようにあどけなくも綺麗なものだったが、どこか悲しそうにも見えて胸をつかれた。
 だから子供ごころに悟った。
 このことは聞いてはいけないことなのだと。
 それに、と自分は思った。彼女が此処に居るなら、それでいいと。居てくれるのだから、そんなことどうでもいいではないかと。
彼女の過去も、正体も。そんなこと知る必要はないのだと。


 何か欲しいものはありませんか。
 そう尋ねると彼女は決まってこう言った。
「そんなものはない。私はただ、おぬしが幸せな人生を歩んでくれればよい」
愛らしい幼女の姿で彼女は言う。そうして決まって自分の頭を撫でた。
小さな手が頭を撫でていく感触は心地よくも恥ずかしかった。知らず顔に熱がのぼる。
熟れすぎた林檎のようになった顔を見て彼女は笑った。
そうして何かを噛み締めるようにつぶやいた。
「おぬしがいずれ大人になって、嫁を貰い子を成す。そうしてこの家が幸せに続いてくれることこそが、私の本望じゃ」


本望。


彼女はそう言った。
だけれど自分は知っていた。彼女は気づかれていないと思っていただろうが、知っていた。
彼女は時折、本当に時折。ぼうっと、ただぼうっと空を眺めていた。
白いふっくらとした頬に長い睫の影が落ちて、暗い陰影をつくっていた。かすかに開かれた珊瑚色の唇もなにも言葉を紡がない。風だけが、彼女の黒髪を静かに揺らしていた。
あどけない幼い姿。
それでも彼女は、確実に永い時を生きてきた存在だった。
永い、永い時。その中でたったひとり。屋敷から出ることもせずにひとりきり。稀に現れる、彼女の姿を認識することの出来る子供との会話だけを楽しみに生きてきたその姿。

……疲れた。

ぽつり、と。彼女がつぶやいたかのように見えた。
しかし実際のところ彼女は言葉を発していなかった。ただ、空を眺めていただけだ。
それでも自分はわかってしまった。彼女の、決して発せられることのない真実の言葉を。



途端、ぞうっと背筋が粟立った。
それは紛れもない、恐怖そのものだった。

 彼女は、いつ飽きたと言い出すのだろう。ここに居ることには飽きた。そう言って出て行くのだろう。
そうしてそうすることは、伝承の通りの『座敷童子』なら、簡単なことのはずだった。
 ―彼女が居なくなったら、自分はどうなってしまうのだろう。
子供だった自分はそう思った。福の神とか幸運を呼ぶ妖怪とか、そんなことはどうでもいい。
ただ、彼女は居なくなることは悲しかった。考えるだけで足元がばらばらになって、身体ごと崩れてしまいそうな気がした。


 だから子供だった自分は泣いた。泣きじゃくって、彼女に縋った。
椿さん、行かないで下さい。どこにも行かないで下さい。僕の側に居てください。
 彼女はいきなり泣き出した自分に驚いたようだった。嫌な夢でもみたのか、それとも家で何かがあったのか? そういって小さな手で抱きしめてくれた。


 彼女のことが欲しかった。ずっと、それだけは変わらない。
 姿が見えなくても、声が聞けなくても。自分が彼女のことを愛していることだけは事実で、何があろうと絶対に変わらないことだった。高校生のあの日、そう悟った。
だからこそ自分のことも愛してほしかった。自分が生きている間だけでいい。
触れられなくてもいい。ただ、その心が欲しかった。それだけで生きていけると、そう思った。


―だが。



 桜井は瞼を開けた。昼の夢に浸かっていた頭の中は、霧のかかったようにぼんやりとしている。
奥座敷の中は静かに薄暗く、既に夜の帳が降りてきていることが伺えた。
 頬に冷たいものが流れているのを感じた。瞳を開けてさらに零れ出したものがこめかみをつたい、髪へと吸い込まれていく。
 桜井は慌てて片手で顔を覆った。寝転んだまま見える、天井に射していたひかりがふつんと消える。
瞳から零れ出すものは止まらない。だからせめてその顔を、彼女にだけはみられたくなかった。
 おそらくは彼女は見ている。姿は見えず声も聞こえず、そうして気配さえも感じない。
それでも彼女は心配そうに自分を見ているのだろう。
優しい彼女のことだから、ひょっとしたら頭さえ撫でてくれているのかもしれなかった。

―この、愚かな男を。




桜井は彼女を愛している。
愛して欲しいと思っている。


だが―。

それではいけないのだと、ようやく悟った。





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2010・5・30










或る血の記憶









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