「或る若社長の花嫁」

或る黒き男の葛藤





「……Devil」



震える声で言われて、僕は笑った。
悪魔?
違う。
違うよ。
僕は日本人だ。
日本には悪魔なんていない。いるのは神のみ。
ひとつひとつの物に、事柄に、神は必ず宿っている。
それが僕たちの思想。
お前達の信じるものとはまったく違う。
だから僕は悪魔なんてものじゃない。
そう。いうなれば、今の僕は……。



銃弾装填。

銃剣構え。



―撃て








或る黒き男の葛藤:前編










「お父さん。なおせる?」
「ああ、これはずいぶんぼろぼろになってしまいましたねえ」
美幸は父親の側に座り込んで、その指が魔法のように傘をなおしていく様をみていた。
父親である黒門誠一はおっとりとしている。
しかし性格からは想像ができないほどにその指先は器用だった。
「ほら、できましたよ」
父親は微笑みながら美幸に傘を手渡す。
黒い男性用の蝙蝠傘は、一見何の変哲もない物に過ぎない。
しかしそれは父親の手にかかると、世にも頑丈な盾と化すことを美幸は知っていた。

ちいさな頃から、美幸にはアクシデントという名の不運が付きまとっていた。
外に出れば絶えず何かが美幸めがけて飛んでくるのだ。
それは鳥の糞であったり、車のタイヤが跳ね飛ばした小石であったりした。
日によっては植木鉢や店の看板までもが美幸の上に落ちてくるのだから洒落にならない。
そんなある日のことだった。
美幸のとある危機を助けてくれた上級生がこう言ったのだ。
「これは危ないな。え……? こんなことが頻繁にあるのか……?
ならばお前はもっと動体視力を鍛えた方がいい。今のままでは大怪我をしかねない。……私でよければ力になるが」
「どうたいしりょく?」
きょとんとする美幸に向かって、幼い顔立ちのわりに無愛想なその上級生は頷いた。
そうして訥々とつぶやく。
「ああ。とはいえ衝撃を受け止める底面は広いほうがより安全だな……。棒か何かがあればもっと良いと思う」
美幸はその上級生に鍛えてもらいながら考えた。
そうして考えた末、拾った鉄パイプを持って学校に行くことにした。
しかし教師にみつかった途端、こっぴどく叱られてしまった。
まあ……今考えてみれば、当たり前のことではあるのだが。
しかし当時小学1年生だった美幸はかんかんに腹を立てていた。
鉄パイプもバットも通学中に持ってはいけないと叱られた。では持っても良いものとはなんなのだろう。
まったくもう、大人って頭がかたいんだから。
悩んで悩んで、そうして父親に相談したところ、次の日に手渡されたのがこの黒い蝙蝠傘だった。
聞けば夜を徹して自分の傘を頑丈に改造してくれたのだという。
「傘なら叱られることはないでしょう。だけど振り回して人を傷つけたりしてはいけませんよ」
美幸は飛び上がって喜んだ。
そうしてその日からその傘は美幸にとっては宝物であり、身を守ってくれる実にたのもしい相棒となったのだ。

美幸は修理された相棒を手にすると、父親に向かってにっこりと微笑んだ。
「ありがと。お父さん!」
「美幸さん、気をつけてくださいね。傘なら修理できますが……」
「大丈夫よ。あたしは不運になんか負けないわ」
美幸は傘を開くと、それを肩にかけてくるくると回って見せた。

「あ、あのう…お二人とも、ごはんですよ…」
突如、おずおずとした声が二人の間を割って入った。
美幸は父親との時間を邪魔されて明らかに不快な顔をする。
しかし誠一はあいかわらずのふんにゃりとした笑顔をその声の主に向けて礼を述べた。
「ああ、ありがとうございます。根倉さん」
「い、いえ……僕にできることなんてこれくらいですから……」
「!! 」
フリルのついた白いエプロンをつけた若い男がもじもじとあらわれる。
まるで初々しい新妻のようなそのいでたちに、美幸は思わず絶叫した。
「ねねね、根倉っっ! な、なんなのよ、そのふりふりエプロンはっっ!」
「え、ええと……」
「僕があげたんですよ」
「ぬあっ……」
父親の言葉に美幸の脳内でぶちぶちと何かが切れた。
「なっなんで…」
「? だって根倉さんはいつも僕たちのご飯をつくってくれるでしょう。エプロンはそういう人が使うものですよ?」
「な、な……!」
「だけどすみませんねえ根倉さん。ちょうどバーゲンだったんですが、それが手持ちのお金でかえる唯一のものだったんです。女性物なんて嫌でしょうに……」
すると男は慌てたように首を振った。
「い、いえいえ!そんな…と、とても嬉しいです…」
「それは良かった」
にっこりと微笑む父親ともじもじと恥らう男。
その間に流れるほんわかとしたムードに美幸の脳内がさらにぶちぶちと音を立てる。
「だあああああああああっ!」
いきなり大声をあげた少女に、父親がきょとんとした表情を見せた。
「わ。びっくりした」
「ひええ……」
その後ろでは根倉が怯えきったうさぎのようにぷるぷると怯えている。
これが可愛らしい女の子だったら、さぞかし保護欲をそそるかもしれない。
しかし相手が陰気すぎて、しかも男だというのは完全に致命的だった。
「……根倉」
「はっはい」
「ごはん食べたらいっしょにスーパーに出かけるわよ。だからね……」
「はい」
白いエプロンを握り締めたまま縋るような瞳を向ける男に、美幸は殺気さえ含んだ声を思い切り投げつけた。
「そのエプロンを脱いで来なさいっっ!!」



「行ってらっしゃい。ふたりとも気をつけて」
にこやかに手を振る父親の姿に見送られて二人は出かけた。
男はびくびくと美幸の横を歩いている。
根倉の背はひょろりと高い。
身に纏っているのは裾の擦り切れた黒いマントだった。
その下にきっちり着込んでいるのはどこか古い形をした学生服めいたもので、ご丁寧にも両手にもぴっちりとした黒い手袋をはめている。
いつかテレビで見た大正時代の学生にそっくりな服装だが、いかんせんこの現代では完全に浮いて見えた。
「ねえ、その服なんとかなんないの?」
「す、すみません…」
根倉はびくりと身体を震わせて頭を下げる。
このおどおどとした男の正体がカミサマだなんて誰が思うだろう。
せいぜいコスプレ好きの陰気な兄ちゃんにしか見えないのに。


美幸はふと2日前のことを思い出した。
いつものように桜井家に押しかけた時のこと。
連れて行った根倉のことを、その家の主は『禍津日神』と呼んだという。
(そんな偉そうな神様にはみえないわ……)
禍津日神とは古事記にも記されている災厄の神の名だった。
世界を作ったという神様の最初の子供だと、桜井は教えてくれた。
しかし当の根倉にはそんな記憶はないらしい。
あまり自分のことを喋らない男が訥々と語ったことによると、根倉の記憶はせいぜいが数十年か百年。
それにも満たないものであるようだった。

……だとしたら禍津日神とは災厄の神の総称なのかもしれませんねえ。

その話をしてみせると父親はそういったが、美幸にはぴんとこなかった。
根倉と名前をつけたこの男は、美幸が生まれた時から黒門家に住んでいた。
押入れでじっと膝を抱えて俯いている。それが根倉という男の姿だった。
それがいつしか外に出て美幸と遊んでくれたり、家の仕事を手伝うようになった。
別に呪文を唱えるわけでもなく、変な力を出したりすることもない。
悪いことも良いこともしない。
暗いけれど、それ以外はいたって普通の、ただの変な男。
それが美幸の根倉に対する認識だった。
ただそこにいて、美幸たちと一緒に、普通に生活をしてきた。
だからなんだかおかしいような気がした。
これが『禍津日神』だなんて。
日本神話に登場するような神様だなんて。

「ねえ…根倉」
「はい」
「あんたはさ、貧乏神なのよね」
「は、はい。たぶん……ですけど……」
「マガツヒノカミってやつなの?」
「……。椿さんたちはそう仰いましたけど……」
「違うの?」
問いながらその顔を覗き込むと、男は困ったように瞳を伏せた。
「わからないんです」
「わからないって何が?」
「……僕は貧乏神と呼ばれるような力があることはわかるんです。何故かはわからないけど、わかるんです。
たとえば、ユキさんは誰にも教えてもらわなくても呼吸や瞬きができていますよね。
それと同じような感覚でわかるんです」
美幸は瞬く。
「なのに」
根倉は悲しげに続けた。
「僕には神だなんて記憶はない。存在する記憶は神であることなど示さない。
だから、どうして自分がここに存在しているのか……それだけはわからないんです」


風が吹いた。
頭上の雲が動き、太陽を覆い隠す。
一瞬で光りは飲み込まれ、男の周りに控えてある影がいっそう深くなる。
そうして美幸の目の前の男は、闇にぽつりと落とし込むように言葉を紡いだ。


「僕は……いてはいけない存在であるのに」











2009・12・7










或る黒き男の葛藤:前編



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