「或る若社長の花嫁」

或る黒き男の葛藤:後編





自分は愚かだったから、その時は何も思わなかった。
ただ、誰かの為になるなら必要としてもらえる。
存在していてもよいと認めてもらうことが出来る。
だから喜んだ。
国の為。
……いや、違う。
自分の為に。


戦場では人を殺せば殺すほど褒められた。
次第にそれが自分の存在意義になっていくことは避けられなかった。
何故ならそれまでの自分はいらない存在だった。
家族もいない自分は、誰にも必要とされない人間だった。
だから嬉しかった。
敵は自分にとって、存在を肯定する道具でしかなかった。


だから自分は、敵を。



オルモックという異国の地で部隊は全滅した。
もう武勲をあげても存在を肯定してくれるものはいない。
そのとき悲しみと共に胸に迫ったのは絶望感だった。
しかしその絶望は仲間の死体を見ているうちに奇妙な高揚感へと変わっていった。
だから最後の自分は、敵の言葉でいう悪魔にすぎなかったのだろう。
ただ、復讐の為に、激情のままに戦場を駆けた。
与えられた知識と技術をすべて使った。失うものなどなかったから、自由だった。
生き残る為ではない。自分の感情を満たす為だけに引き金をひく。剣を振るう。
自国の銃剣はすぐに壊れてしまった。
だから死体から武器を奪い、そしてさらに駆けた。
恐怖はなかった。だから最後の十八時間は常に笑っていた。


そう。
あのときの僕は、間違いなく人間ではなかったのだ。




或る黒き男の葛藤






いつから自分は人間でなくなったのだろう。
その境目は曖昧でひたすらにぼやけてしまっていた。
最後の時のことは実のところよく覚えていない。
だから自分は、もうそのときには狂っていたのだと、そう思う。

自分は存在してはいけないものなのだ。
なのに、ここに居る。
それが悲しい。嫌でたまらない。

だから美幸に告げたそれは、まぎれもなく真実だった。



「僕は……いてはいけない存在であるのに」





「まっっったく、もうっっ!」
すると突然、隣に居た少女が大声をあげた。
いきなりの事にぽかんとする根倉の横で、少女は仁王立ちのまま俯いていた。
「ユ、ユキさん……な、ど、どうしたんですか……」
おどおどと尋ねると美幸は顔を挙げた。そうしていかにも気の強そうな瞳をさらに尖らせる。
「暗い」
「う、え、は……?」
「暗い暗い暗いっっっ! もう、あんた暗すぎる! あたしそういうの嫌い!」
「は、はあ…?」
呆然とする根倉の周りで、少女は手にした傘を苛々と振りまわしていた。
その姿にいろんな意味で不安を覚えていると、いきなり片足で背中を蹴り飛ばされた。
2歩ほどたたらを踏み、そうしてそのまま地面に倒れこむ。
「うわっっ…な、なにするんですかユキさん……」
「暗いあんたが悪い! あんたってすぐ物事を暗く考えるからネクラだなんてだっさい名前をつけられんのよ!」
地面に手を着いた状態で美幸を見上げる。
少女は腰に手を当て、踏ん反り返った状態で根倉を見下ろしていた。
「ださい……。え……で、でも根倉って名前をつけたのはユキさん……」
「うっさい!」
美幸は今にも地団太を踏まんばかりに怒り狂っている。
何故そんなに怒っているのかわからないが、それでも少女の怒りは本物だった。
美幸は口をもごもごとさせる。何かを伝えたいのに上手く言葉に出来ない。
そんなときに少女がする、それは癖だった。
「あんたね、お父さんがあんたのことどんなに大切に思ってるかわかってんの? 」
「え……」
「お父さんはねえ、娘のあたしよりあんたにエプロンを買ってきちゃうほどあんたを家族として普通に認めてんの。
っていうかむしろ妻……奥さん的存在? い、いやいやいや! あたしはそんなの断じて認めないけど!」
「……」
「あたしだってねえ! あんたのこと少しは……だって……」
「……え」
最後の言葉は風に紛れて聞き取れなかった。
だから瞳を挙げると、少女は怒りのためか紅潮した顔のまま口をもごもごとさせている。
「…………」
「ユ、ユキさん……?」
「…………………………」
「あ、あのう……?」
おそるおそる声をかける。
すると目の前の少女は唇を引き結び、癇癪を起こしたようにこう叫んだ。
「うっさい! 今日はね、マルマンスーパーでたまごが大安売りなの! でもお一人様1パック限りなの!
だからあんたが必要なの! だから、だからそういう暗いこと言うんじゃないわよ!!」
叫ぶなり美幸は根倉に背を向ける。そうしてそのまま駆け出していってしまった。
まるで小さな頃のように。


根倉は地面の上にへたりこんだ体勢のまま呆然としていた。
怒らせてしまったことはわかっている。美幸は昔から感情豊かな子供であったから、その表情から感情を読むことはたやすかった。
美幸は太陽に向かって咲く向日葵のような子供だった。
いつでも希望を失わない。物事の中にひそむ、明るいものを探すことがとても上手い子供だった。
自分とは対極的な存在だ。
嫌われているのはわかっていた。
自分の不幸を呼ぶ力は勿論のこと、この性格も、すべて。
だからこそ、美幸の言葉はよくわからなかった。
ひたすら理解できずに混乱する。
すると呆然としている根倉の頭上から、突如として笑い声が降ってきた。
鈴を転がしたような軽やかで愛らしい声はひどく幼く、そして同時に深みを帯びていた。
根倉は空を仰ぐ。視界に入ってきたのは屋敷を囲む古びた高い塀だった。
そうしてその上からひょっこりと覗いている枝の上に座る、ひとりの幼女の姿。
「椿、さん……?」
その名を呼ぶと、幼女は黒目がちの大きな瞳は細めた。
桜桃のような唇にはいかにも楽しそうな笑みを浮かべている。
「道端で青春活劇を見れるとは思わんかった。これは良いものを見せてもらいましたぞ」
「あ、ああ、そうか。ここは桜井さんの家の前……」
「ええ。わたしはこの家からはほとんど動けぬので」
どうでもよいことのようにあっさりと答え、椿はむき出しの足をぷらぷらとさせた。
そうして唇を開く。
「あの娘は良い子ですな」
「……え」
「口はあまり上品ではないが、あの娘は禍津日神を大切だと思うておるようじゃ」
「……そ、そんなこと……。僕は美幸さんに嫌われていると思います。
嫌われて当然のことをしていますから……」
彼女の父親の命を引き換えにあの家に居座り続けている。そうしてふたりに不幸を招き続けている。
嫌われることは当然。その逆のことなどあるわけがないのだ。
すると幼女は顎をそびやかして笑みを零した。
「ほう。神といえども、女心はわからぬものなのですな」
その言葉に根倉は瞬いた。
「え……?」
「まあいい。禍津日神、早く追わねばあの娘を見失うのではないのですかの?」
幼女はくつくつと笑いながら、ちいさな指で道の向こうを指し示めす。
その言葉に根倉は美幸の買い物の共をしていたことを思い出し、慌てて跳ね起きた。
そうだ。こんなところで呆けている場合ではない。
自分は少しでも、黒門家の為になることをしなければならないのだから。
「あ、あの、では僕は失礼します……」
「ああ。こちらこそ失礼な格好で申し訳ありませんでしたな。禍津日神」
「……あ、あの」
「……ん。どうなされた」
根倉は駆け出そうとして、そうして頭上の幼女を振り仰いだ。
言うべきか言わざるべきか。しばらくの間考え込む。
しかし辛抱強く待っていてくれる幼女の姿を見て、意を決して言葉をつむぎだした。
「あの、僕のことは根倉と呼んで下さいませんか……」
「根倉?」
「はい。それが……今の僕の名前ですから……」
幼女は一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべる。
しかしちらりと美幸の消えた方角を見て、すぐに愛らしい微笑を浮かべた。
「承知しました」
「あ、あと、その。け、敬語は、やめて下さいませんか……」
しかし根倉の次の言葉には、その小首を傾げて見せた。
「そんなわけには」
「い、いえ!僕は、その……そんな神様とか、禍津日神とか、そういうものではないと思うんです……」
「……しかし、貴方の力は」
「僕には人間だった頃の記憶しかありません。だから……」
「人間であった頃……?」
「……僕は人を殺めすぎました。だからこうして、このような形で存在しているのは本当の神様からの罰じゃないかとさえ思うんです……」
「……」
木の上の幼女はじっと根倉を見下ろしている。
根倉は思った。
白い肌に艶やかな黒い髪。
愛らしさを詰め込んだかのようなその容姿はまさに幸福を運ぶ使いとしてふさわしいものだった。
そうして自分のみずぼらしさを顧みる。
治らない全身の傷跡。右目の変貌。闇を吸い寄せるかのような禍々しい魂の痕跡。
それはまさに自分の罪を具現化したかのようだった。
そうして思う。
暗い橋の下。長い長い年月の間、膝を抱えて座り込んでいた自分に手を差し伸べてくれた男のことを。
愚かな、しかし限りなく優しい人間のことを。

(あのとき……誠一が出会えたのが僕なんかでなく……椿さんだったら良かったのに)


そのとき椿が口を開いた。
「了解した。そのお言葉に甘え堅苦しい言葉はやめさせてもらいましょうぞ。では……根倉」
「……あ、はい」
「今おぬしが思ったことはあの小娘たちには言わんほうが良い」
「え……?」
根倉はぎょっとした。このひとは人の心を読む、サトリの能力まであるのだろうか。
すると椿はくすりと笑みを落とした。
「何百年も存在しておるとの、おぬしのような若造の考えることなど顔を見ればわかるのじゃ」
「え、ええっ……?」
思わず声をあげる根倉を見下ろしたまま、幼女は愛らしいながらも大人びた表情で微笑んで見せた。


「いや……おぬしの考えは知らしめたほうが良いのかもしれん。
そしてあの小娘にでも思い切り殴られたほうが目が覚めるじゃろうて」











2009・12・27










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