「或る昔なじみの一幕」 |
「おい童子」 聞き覚えのある声に、縁側に座っていた幼女は顔を上げた。 その拍子に受け損ねたお手玉がぽとりと落ちる。 「あ、落とした。下手くそだのう」 「誰の所為だと思うておる」 童子と呼ばれた幼女は、苦笑交じりに目の前の塀の上に座っている青年を眺めやる。 「久しぶりじゃの。五尾」 「おう」 幼女の言葉に青年は破顔した。 陽光を受け、後ろでひとつに束ねている髪が金茶色に光る。 飾り気のない洋服は青年を実年齢よりはるかに若く見せていた。 そうしてその外見に似合わない口調のまま、幼女に向かって続ける。 「だがのう、実は名前がまた変わってしもうてのう」 「…またか?たしか以前、美味しそうな名前を付けてもろうたと言っておったじゃないか」 以前会った時の会話を思い出しながらの幼女の言葉に、青年はへらりとした笑顔で頷いてみせた。 「それとは違う。実はまた、尾っぽが分かれてしもうての」 「ふむ。ということは…六尾か」 「正解」 青年はさらに笑む。 そうして塀の上からひょいと飛び降りた。 この屋敷を囲う塀は随分と高いものなのだが、青年にとっては造作もないことのようだった。 足音もなく地面に降り立ち、その蒼い瞳を幼女に向ける。 「昔なじみは説明の手間がいらんから楽だのう」 「腐れ縁と言わんか」 幼女は苦笑を浮かべた。 目の前の青年とは随分長い付き合いになる。 それこそ数えるのが馬鹿らしくなるぐらい。 記憶が水に垂らした絵具のように滲んでぼやけてきそうになる位の、長い…長い年月。 ―荒れ果てた田畑と襤褸を纏った村人。 ―風が吹くだけで崩れそうなほどのあばら家と薄汚れた石臼。 ―振り上げられる重いものと耐えがたい衝撃。 ―冷たい雨。放り込まれた孤独。呪詛の声。 ―そうして現れた…この男。 あの頃から尾の数以外まったく姿の変わっていない「六尾」は、のんきそうな顔で歩いてくると幼女の隣に躊躇なく腰掛けた。 幼女は地面に落ちたお手玉を拾い上げる。そうして問いかけた。 「で、なんのようじゃ」 「用って…用事がなきゃあ遊びにきちゃいかんのか?」 「ないのか」 「…いや、あるんだがの」 そうして六尾は「えへへ」とばかりに照れくさそうに微笑んだ。 しかし20前後に見える人間の男がそんなことをしても気持ちが悪いだけである。 幼女は黙って周囲に散らばっていたお手玉を投げつけた。 「いた!こら投げるな!年寄りに何をする!いたた!」 「いい年をした男が気色の悪いことをするな」 「わかった!もうしません!」 その言葉に幼女はふんと鼻を鳴らして手を降ろした。 六尾は集中的に狙われた鼻の頭を痛そうに押さえながらつぶやいた。 「冗談じゃないか…童子は頭が固くていかん。そんなんじゃあ嫁の貰い手がなくなるぞ・・ってああ、そうか。 お前にはあの小僧っ子がおる…いたい!」 再びお手玉が空を舞い、六尾の鼻と瞳を直撃した。 「あやつのことは言うな。わたしもほとほと手を焼いておるんじゃ」 「いい加減答えてやりゃあいいじゃないか。嫌いじゃないんだろう?」 「そういう問題ではない」 きっぱりと答えた幼女の顔を見て、六尾はがりがりと頭をかいた。 「まあいいんだがのう。だがの、童子」 「なんじゃ」 外の陽光が眩い分、屋敷の中は仄暗い。 影に入り込んだ六尾の髪の色は今は落ち着いた砂色になっている。 しかし代わりにその両眼が金色に光っていた。 その瞳を昔なじみに向けて男は言う。 「童子にだって幸せになる権利はあるんだぞ」 「……」 幼女はその瞳から視線を逸らし、そうしてそっと息を吐いた。 庭にある赤い花弁の花が鮮やかに視界に飛び込んでくる。 ―名前がないのなら… 子供の幼い声が脳裏に蘇ってきた。 ―僕が名前を付けてもよいでしょうか? 頷くと子供は嬉しそうに顔を輝かせ、そうして3日後にひとつの花と共に「名前」を彼女に差し出した。 わずかに頬を赤らめて少年は言う。 ―遅くなってごめんなさい。凄く悩んだんです。でもおかげで貴女にぴったりの名前をみつけることができました。 赤い花弁の一輪の花。 それをぼうっと眺めていると、ふいに六尾ののんきな声が耳に飛び込んできた。 「でな、童子。その、わしもな、幸せになる権利があるとは思わんかの?」 「…そうじゃな」 幼女は素直に頷いた。 長い長い年月の中で得た昔なじみ。 それは別の言い方をすれば―「友」と言う。 幼女の言葉に六尾は嬉しそうに破顔し、そうして人差し指をひとつ立てた。 「ではな、おぬしに頼みたいことがあるのだが…」 「ああ」 「しいちきんを食べさせてくれ」 「は?」 六尾の口から飛び出た不可思議な単語に、思わずぽかんとする。 すると青年は稀に見る真剣な表情で、こう続けた。 「「しいちきん」を食べさせてくれ。もう一週間も食うておらんのだ。 わしが「めたぼりっくよびぐん」だからと言って「小さいの」から「だいえっと」を強行されておっての。 どんなに鳴いても甘えても食わせてくれん。このままでは「しいちきん成分」が足りなくて死んでしまう。 今のわしには「しいちきん」が何より必要であるのに!」 「…………」 幼女は黙ってお手玉をひとつ握りこんだ。 そうして振りかぶって―第一球。 「痛い!!」 「…あれ?」 屋敷に入ろうとしていた優次は、たった今足元をすり抜けて行ったふわふわの毛玉を見て声をあげた。 慌てて振り返ったが、その毛玉はみるみるうちに遠ざかっていく。 そのお尻では、大きなふっさりとしっぽが左右に揺れていた。 「猫だ…」 優次の言葉に側に居た青年が頷いた。 「猫だな」 「…は、はい…多分…」 二人は並んでそのしっぽを眺めていたが、やがて青年が手にした包みに目を落としてつぶやいた。 「…あの猫の毛並みは、買ってきた餅の色に似ているな」 2009・3・24
或る昔なじみの一幕
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