「或る若社長の花嫁」 |
「俺と結婚してください」 優次の目の前で、若い社長はそう言った。 薔薇の花束にエンゲージリング。 それらを畳の上に置いた状態で男は深々と頭を下げる。 「お願いします」 優次は瞳を男の前方に滑らせた。 そうして困ったようにもじもじとする。 社長は頭を下げたまま、そんな子供に声をかけた。 「おい。答えは」 「え、ええと……」 優次は心底困り果てたようにその眉毛を八の字に下げる。 「いいから言え」 社長の声は真剣そのものだった。 優次は大きく息を吸う。 勇気を振り絞って社長の後ろ頭を見つめた。 「こ……」 「こ?」 「断るって言ってます……」 「……」 ごつん。 痛そうな音が部屋の中に響く。 畳の上に頭を打ち付けた社長はしばらくそのまま身動きさえしなかった。 優次は困り果てて、社長が頭を向けている方に目を走らせた。 随分古びた日本家屋の奥座敷。 社長の目の前の畳の上には、色褪せた座布団がひとつ置かれている。 そうしてその上には社長の愛する女性がひとり座っていた。 女性は呆れたように目の前で頭を畳に押し付けている男を見おろしていたが、優次の視線に気づいてその瞳をこちらに向ける。 そうしてその幼い顔立ちに不釣合いな、大人びた苦笑を浮かべた。 「お主も大変じゃな。日曜のたびにこんなことに付き合わされておるのじゃろう」 「う、ううん……」 優次はぶんぶんと首を振る。 別に大変だと思ったことはなかった。 どうせ学校は休みだし、こうして優次の「個性」を認めてくれる人が居るということだけでも嬉しいことだった。 「……おい」 「は、はい!」 呻く様につぶやかれた低い声に、優次はびくりと身体を強張らせた。 「彼女は何を話している。」 「ええと、お主も大変だなあって言ってくれました」 「美しいだろう」 「え、あ、はい?」 「美しいだろう、彼女は。話す様も笑う様も……世界中の誰よりも美しいのだからな」 優次の目の前の男はのろのろと身体をあげた。 正座の体勢に戻った社長はおもむろに背筋を伸ばして目の前の座布団に視線を移す。 優次の眼から見れば結婚を申し込んだ男と申し込まれた女性はきちんと見詰め合っていた。 しかし。 「……見えなくてもよいのです」 社長はぽつりとつぶやいた。 その言葉は悲しみの色に染め抜かれている。 それは今や「社長」と呼ばれ皆に恐れられている男には、ひどく不釣合いなものだった。 「それでも俺は貴女と共にありたい。金も地位も、何も要らない……」 端正な若い顔が切なげに揺れる。 「貴女だけが居れば……それでいい。」 優次がこの男に会ったのは3ヶ月前のことだった。 父親が突然、家に連れてきたのである。 「君が優次君か」 そう問いかける男は随分と若く見えた。 少なくとも優次の父親よりうんと若い。 すらりと背が高く、高級そうなスーツがとてもよく似合っていた。 鋭いまでに整ったその顔はまるでテレビで見る格好良い俳優のようだった。 「優次。ご挨拶なさい」 優次はぽかんと父親を見上げる。 その視線を受け、父親は心持ち緊張したような声音でこう続けた。 「この方はお父さんの会社の社長さんなんだ」 「お父さんから君の事を聞いてね」 社長は優次を車に乗せると、郊外にある古びた日本家屋に連れて行った。 「君はこの世のものでないものが見えるのだと」 優次はわけが分からず呆然としていたが、その言葉にはじかれたように顔を上げた。 どきりと心臓が激しく音を立てる。 優次はもう小学4年生だった。 「見えること」は家族でない人には知られてはならない。 そう、両親から小学校に入る前には教えられていた。 そうでないと嫌われる。気持ちが悪いと罵られる。 実際、幾度となくそのような目にも遭って来た。 なのに。 ……どうしてお父さんはこの人に喋っちゃったんだろう。 優次は泣きそうになった。 嫌われるのも、気味悪がられるのも。そうそう耐えられるものではなかった。 しかし社長は平然とした顔をしていた。 そうして静かに腰を下ろす。 そうすることで優次と同じ目線になった彼は、おもむろにその口を開いた。 「君に協力して欲しいことがある」 優次は思わずきょとんとした。 その言葉に優次の心の中に芽生えていた恐怖心より好奇心の方が勝った。 「き、協力?」 「……俺には愛している女性が居る」 若い社長は迷いのない口調で続けた。 「その女性と一生を共にしたい。だから婚姻を申し込もうと思っている。だから君にその協力をして欲しいのだ」 優次は瞬いた。 その言葉には不思議なことがたくさんあった。するりと質問が零れ出る。 「・・?自分ひとりでは出来ないんですか?」 「……出来ているならこんなこと子供に頼むものか」 社長は顔をしかめた。 怒ったのかと思ったがどうやらそうではなかったらしい。 「仕方がないのだ」 さも切なげな溜息をついて彼は続けた。 「俺にはもう……彼女の姿が見えないのだから」 社長に連れられてきた日本家屋の一番奥。 その小さな座敷の中に社長の「想い人」は確かに居た。 「ほう。珍しい。お主にはわたしが見えるのか?」 肩までの艶やかな黒髪に黒目がちの大きな瞳。透きとおるかのような白い肌。 膝あたりの長さしかない着物を着ている「幼女」は、とことこと優次の前にやってくるとさも嬉しげに微笑んだ。 「この頃の子供にはわたしの姿は見えぬので退屈しておったところだ。 ……お主は座敷童子というものを知っておるか?」 「俺が彼女と出会ったのは、4歳の頃だ」 その帰り道。 社長は自動車のハンドルを握りながら淡々と続けた。 「あの家は俺の祖父の家でな。親に連れられて来た時に、彼女に会った。そうして恋に落ちた。一目ぼれだった」 優次はその話をどきどきしながら聞いていた。 それは10歳の少年にとってはほんの少しばかり刺激的な話だった。 「座敷童子とは古い家につく妖怪だ。神や精霊だという説もある。 子供には見えて大人には見えない。そういうものらしい」 優次が頷くのをミラー越しに確認して社長は続ける。 「座敷童子はつく家に富をもたらすと言われているから、好意的に見られることが多い。 反対に邪険にすると家を出て行く。そうなった家は衰退すると言われている」 そう語る社長の顔はこれまで見てきたどの顔よりも穏やかだった。 「彼女は随分昔からこの家に居たらしい。妙な口調だったろう?」 「はい。昔話に出てくるおばあさんみたいな……」 そう言うと社長ははじめてかすかに笑みを零した。 「ああ、そうだな。俺もそう思った」 広々とした車内にふかふかと沈むシート。 そのくせずっと居心地の悪かった自動車の空気が、その笑顔ひとつで優しいものに変わった。 「彼女は最初からずっと口やかましくて偉そうだった。座敷童子だというのに童子らしくない。 時代の流れの所為かもしれぬと彼女は笑っていた。だが……心根は誰よりも優しくてな……」 社長はふと、遠い瞳をした。 今は彼の瞳には映らない少女。 しかし彼には今でもその姿をくっきりと思い浮かべることが出来るのかもしれなかった。 「俺は子供だったが、その頃から彼女を本気で愛していた。彼女が見えなくなった、今でもだ」 社長の口調は相変わらず淡々としていたが、どことなく柔らかいものだった。 「彼女を嫁にもらうのが子供の頃からの俺の夢だった。どうあっても諦めきれない。だから俺は……」 優次は肩を落として落ち込んでいる社長と、その前に座っている幼女を眺めやった。 あの日から社長に協力を始めて3ヶ月あまり。 通算1556回目のプロポーズはあえなく失敗と終わってしまった。 しかしそんなことで諦める社長ではない。 顔を上げ、再度口を開こうとしたそのとき、その場の空気に不釣合いなベル音が響いた。 社長はポケットから携帯電話を取り出す。 そうして目の前の幼女に一礼すると、静かに部屋を出て行った。 優次はそれを見送ってから、座布団の上に正座している幼女にそろそろと視線を移した。 「あのう……」 「なんじゃ」 幼い声に古めかしい口調。 しかしそれはどことなくこの幼女に似合っていた。 幼い外見の割りに落ち着いたように見える、その瞳の所為かもしれなかった。 「どうして社長さんと結婚してあげないんですか?」 「どうして、だと?」 幼女は驚いたように瞳を見開く。 「お前こそ何を言っておる。わしが誰だかわかっておるのか?」 「座敷童子さんです」 「そうだ。わたしは座敷童子だ。人間ではない。そうしてあいつは人間だ」 「はい」 「しかも今のあいつにはわたしの姿は見えん。あいつは「大人」だからな。もう話すことさえもできんのだ。 わたしはもう……泣いているあいつの頭を撫でてやることもできん」 「はい」 優次は頷く。 しかしすぐに次の言葉を紡いだ。 「でも、そんなの関係ないと思います」 「何じゃと」 幼女が眉をひそめる。 それに構わずに優次は続けた。 「だって、社長さんはそれでも構わないって言っているんです。話せなくても、触れなくても、それでも側に居てくれるだけでいいって」 「……」 「だから問題は、座敷童子さんの気持ちだけだって思うんです。もちろん座敷童子さんが社長さんのことが嫌いなら、仕方がないけど……」 「……」 「あ。す、すみません……」 優次は大きく息を吐いた。どきどきと心臓の音が鳴る。 ああ、少し出しゃばってしまいすぎたかもしれない。 そう思ってかすかに身体が強張った。 たとえ見えていても、わかっていても、言わなくていいことは世の中にはたくさんあるのに。 そう思っていると座敷童子が立ち上がる気配がした。 そうして裸足のまま優次の前に歩いてくる。 「……優次」 「は、はい」 座ったままおっかなびっくり顔を上げると、幼い顔がすぐ目の前にあった。 そうしてにこりと愛らしい笑顔を浮かべる。 次いでその手をゆっくりと伸ばしてきた。 ぱふ、とその小さな手が優次の頭に触れる。 「お主は本当に良い子じゃな」 「……」 「その心根は尊いものじゃ。私はお前に会えて嬉しく思うぞ」 頭を撫でるその手は限りなく優しく、そうして暖かかった。 その手に大人しく撫でられながら優次は思った。 ほんの、少しだけ。 ……ああ、これは社長さんが諦め切れないのもわかるかもしれないなあ。 その帰り道のことだった。 肩を落としたまましょげ返っている社長は、それでも優次に封筒を差し出してきた。 「今日の礼だ」 「……そ、そんなのいいです……」 「いいから。親父にでも渡しておけ。……それよりもまた、来週も頼む」 優次は困った顔で封筒を受け取った。 中を見ると、滅多に見ることのない壱万円札が30枚入っている。 「……あまり嬉しそうではないな。足りないか」 胸元から財布を取り出そうとする社長を見て、優次はあわてて首を振った。 「い、いいえ!そうではないんです。けどこんなことより……」 「……?」 優次はわずかに返答に詰まった。 しかしそろそろと言葉を紡ぐ。そうでないと社長が勘違いをしてしまいそうだったからだ。 優次はごくりと唾を飲み込んだ。 「ぼ、僕は、社長さんのお手伝いをさせてもらえるだけで嬉しいと思ってます」 「……」 「え、ええと……だって、見えないものが見えてしまう僕を「気持ち悪い」って言わなかったのは社長さんと座敷童子さんだけなんです。だから……」 「……」 「おふたりに会うのは、嬉し、し……」 社長は黙って優次を見下ろした。 しばらくぽかんとした沈黙が降りる。 優次はその沈黙に耐え切れなかった。 ああ、やはりこんなこと言わなければ良かった。 伝えた言葉は限りなく本音だったが、いかにも安っぽい言葉の羅列だった。 しかしやがて、その頭上からぼそりとした声が聞こえてきた。 「お前は……甘いものは好きか」 「え、あ、はい……」 「……。今度は花束だけでなく牡丹餅を買ってくる。彼女も好きだしな……。だから」 優次は目の前の社長を見上げた。 男は困ったような、それでいて照れを抑える子供のような表情をしている。 そうしてぼそぼそと続けた。 「プロポーズの前に……3人で一緒に、食べよう」 優次は日曜日になると「社長」と「座敷童子」に会いに出かけていく。 そうして数年後。 優次が会いに行くのがようやく「社長」と「社長夫人」へと変化するのだが……。 それはまだ、誰も知らない「未来」の話。 2009・1・17
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