「運転手と最後の路線」 |
「発車します。扉にご注意下さい。」 ミラーを確かめると、先ほど乗り込んできた女子高生がいつものように運転席のすぐ後ろの席に座るところだった。 運転席の後ろの席はわずかに高い。 小柄な人間ではほんの少し手間取る高さなので、これまたいつものように発車するのを遅らせる。 といっても一呼吸ぐらいの時間なのだが。 「発車します。」 アクセルを踏む。ゆっくりと動き出す車体を道路に滑り込ませると、そのまま流れに乗せていく。 冬の車内は暖房が効いている。 先ほどまで扉を開けていたせいで流れ込んでいた冷気がゆるゆると溶けていく。 榊は小さく息を吐いた。毎日のことだが、実はこの瞬間が結構気に入っていた。 榊がバスの運転手になって3年になる。 小さい頃から車が好きだった榊は、迷わずバス会社に就職することにした。 そうして運転手となって3年。 独身の榊は都会から離れた、いわゆる田舎の行路を一手に担うことになってしまった。 ゆっくりとバスを動かす。 道路は一車線。道路脇には今は刈られて裸になった田畑が広がっている。 広々と続く田畑の先には山の稜線が、今にも沈みかける夕日を受けて黒々と滲んでいた。 街からここへ来るには山をふたつ越えなければならない。 山と山の間にぽかんと広がる盆地。 そこには小さな集落がひとつあって、このバスの終点はその町役場の前となっていた。 ・・それも、今日までか。 「これから不便になるねえ。」 すっかり顔なじみになっていた老婆が、財布から小銭を取り出しながらしぶしぶとつぶやいた。 「・・申し訳ございません。」 榊は頭を下げる。 「いや、兄ちゃんが悪いわけじゃないよ。でもね、やっぱり困るねえ・・。このバスはわたしたちの足だったわけだからねえ。」 近年の不況のあおりを榊の会社だけが受けないというわけにはいかなかった。 赤字に続く赤字。 そうして会社の上部の者が出した決断は実に利に適ったものだった。 要するに「儲からない行路の中止」という簡単なことだ。 この集落と町を結ぶ行路もそうだった。 1日4便から3便へ。そうしてついに明日からはそれさえもなくなる。 たしかにこのバスを利用するものは少なかった。 利用するのは集落の人間のみ。 しかも町へ向かうのはせいぜい一週間に一度程度だったから、いつだってこの路線はがらんとしていた。 それでも村人にとってこのバスは大切な足となっていた。 集落の人間はほとんどが老人で、自動車を持っていない者も少なくない。 この度榊の会社が撤退するにあたり、住民による抗議はもちろん多かった。 さすがにこれは県のほうでも考えなければならなかったのだろう。 明日からは自治体がマイクロバスを出してそれに対応する予定となっていた。 ただし、1日2便で。 「まったく、嫌だね不景気は。」 榊は黙って頭を下げた。この老婆とは一週間に一度、顔を合わせる間柄だった。 水曜にのみ町に出かけるのは整形外科に通っているからだと教えてくれたことがある。 「兄ちゃんとも会うのもこれが最後だね。」 ちゃりん。 小銭が落とされて機械がそれを吸い取っていく。 「・・申し訳ございません。」 榊は帽子を取り、さらに頭を下げた。 老婆はそんな榊にふいにビニール袋を押し付けた。 思わずきょとんとする若い運転手に、老婆はさらにそれを押し付ける。 「これ、あたしんちで出来た大根なんだよ。美味しいから、黙って受け取りな。」 「いえ・・それは・・。」 榊はいつものように丁重に断ろうとした。 この集落の人は、いままでもこうして物をくれようとしたことがある。 しかし榊はそれを毎回断っていた。 何故なら榊は仕事でここに来ているからだ。 運賃はきちんと頂いている。それ以外のものを頂くわけにはいかなかった。 榊は馬鹿がつくほど真面目な青年だったのだ。 「運転手さん。」 そのとき運転席のうしろに座っていた女子高生が小さな声を出した。 「最後だから、もらってあげてください。」 榊はその子を見た。この子の顔も良く知っている。 この村では珍しく、ほとんど毎日このバスに乗ってくれている女の子だ。 「ミヤムラのおばあちゃんの野菜は本当においしいんですよ。」 「そうだよ。ねえ、アヤカちゃん。」 ミヤムラ。 アヤカ。 そうか。このふたりはそういう名前だったのか。 顔は見知っているのに名前さえ知らなかった。 「ほら、兄ちゃん。」 ミヤムラさんはそんな榊に強引にビニール袋を押し付けると、手を振ってステップを降りていった。 「今までありがとうね。」 「発車します。」 榊はゆっくりとバスを発進させた。声に動揺が現れないようにことさらゆっくりと発音する。 次の次が終点だった。 そうして毎度のことながら、ここからは乗客はたったひとりになる。 それが先ほどの女の子だった。 とはいえ話したことはほとんどない。女の子はいつも黙って座っている。 声をまともに聞いたのは、実のところ今日がはじめてかもしれなかった。 (最後の、最後なのにな) 「あの。」 そのとき女の子が声をあげた。榊は瞬く。 誰に声をかけているのだろう。 そう思うがすぐにその考えは打ち消した。 この時間、この場所では乗客はひとりしかいない。 ミラーを覗くと、その子が運転席の榊の頭をじっと見つめているのが見えた。 「はい。」 答えると女の子はほっとしたように微笑んだ。 「伝言があるんです。」 「はい・・何でしょう。」 榊は前方に注意を戻しながら言った。いつもながらこの集落は日が暮れるのが早い。 かちりとライトをつける。 その動作が終わるのを見計らったように女の子は続けた。 「タケムラのおじいちゃんとスズキの奥さん、それにカンバヤシさんからも、運転手さんにありがとうって伝えてくれって。」 榊はびっくりした。思わずハンドルを握る手が滑りそうになる。 「またいつか、戻ってきてくださいねって。」 榊は思わず言葉を失った。それは思いもかけない言葉だった。 知らない名前ばかりだが、おそらくバスに乗車してくれていた人たちなのだろう。 しかし会社が自分の利益のために一方的に決めた廃止路線だというのに、そのような言葉をかけてくれるとは思わなかったのだ。 「そう・・ですか。」 榊はなんとか声をしぼりだした。 「・・ありがとう、ございます。」 榊はこの後、町を運行する路線の専属になる。 だからこの集落に来ることはおそらくもうないだろう。 それがほんの少し寂しく思えた。 同じ風景のなかを運転してきて3年。 田舎道に飽きたことも、閑散とした車内に辟易したことも幾度となくあったというのに。 終点に着いた。 「ご利用、ありがとうございました。」 榊はマイクで言い、そうして立ち上がった女の子に向かってさらに続けた。 「今までバスに乗ってくれて、ありがとうございました。皆さんにもよろしくお伝え下さい。」 女の子はびっくりしたように目を大きく見開いたが、やがて泣き笑いのような表情を浮かべた。 「はい・・私こそ、ありがとうございました。」 女の子はそう言うと、慌ててポケットから可愛らしい柄のついた封筒を取り出した。 「あの、運転手さん。」 「はい。」 「・・これ、受け取ってください。」 榊は手渡された封筒を開いた。中にはやはり可愛らしい便箋が一枚入っている。 そうして榊は瞠目した。そこには数字と、アルファベットが綴られていたのだ。 「これ・・。」 「・・お正月にバイトして、携帯電話を買ったんです。もう、バスがなくなるって聞いて。それで、慌ててバイトして・・。」 「・・・。」 「私、運転手さんのことずっと見てました。運転手さんはすごく真面目で、あんまりお喋りは得意じゃないみたいだけど、それでもいつだって親切で。」 「・・・。」 「発車も、停車も丁寧で、誰かが立っていたら座るまでまっていてくれるし、気分悪そうにしていたら声をかけてくれるし、膝の悪いタケムラのおじいちゃんが降りる時は嫌な顔をひとつしないで手伝ってくれるし。」 「いや、それは当たり前のこと・・。」 「それに、降りる時にはひとりひとりの顔を見てお礼を言ってくれるでしょう?わたし、学校で嫌なことがあってもそれだけで元気になれていたんです。」 「・・・。」 榊はぽかんと女の子の顔を見ていた。 いくらなんでも買いかぶりすぎだ。 そう言おうとすると女の子はどこか大人びた風に微笑んだ。 「当たり前のことだけど、そういうことって案外難しいと思うんです。」 だから、と女の子は続けた。 「わたし、運転手さんが好きです。」 「ん?これどうしたんだ榊。」 先輩が大根のはみだしたビニール袋に気づいて声をかけてきた。 「もらったんです。お客さんに。」 「へえ。ああ、そうか。あの路線、最後だったもんな。」 「はい。」 「やっぱ寂しいか?」 榊はバスの車体を掃除しながら煙草を吸っている先輩を振り返る。 「・・はい、少し。」 「・・まあ、また遊びに行けばいいさ。」 「はい。」 榊は思った。 そうだな。今度は休みの日にあの集落に遊びに行くのもいいかもしれない。 仕事とは違う目線で田畑や山を見てみよう。 きっと、新しい発見があるのかもしれないから。 ポケットの中には可愛らしい封筒が入ったままだった。 そういえば俺はあの子の苗字すら知らない。 妹と同じ年頃の女子高生といきなり付き合うというのは出来ないけれど、名前ぐらい知っておきたい。 そう思うのも、単なる感傷にすぎないのかもしれないけれど。 同じ風景のなかを運転してきて3年。 田舎道に飽きたことも、閑散とした車内に辟易したことも幾度となくあったが、それでもやはり思う。 俺はこの仕事が大好きだ。 2008・10・5
運転手と最後の路線
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