■cherry■





「俺の初恋はなあ〜なんと4歳のときやねん。」


あれはいつの事だったろう。
随分昔のことだった。
多分6年か7年前。
まだ自分は小学3年生だった。

ビールを片手に、自分の後見人の青年は上機嫌に笑っていた。
ちゃぶ台の上にはぐつぐつと音を立てて鍋が鎮座していた。

「ああ、それ前にも言ってたなあ。たしか京都に居たときのことだろう?」
桐野が鍋に春菊を入れながらそう言った。
「年上のお姉さんだったんだっけ?」
吾郎の幼馴染である桐野は、珍しくくだけた格好をしていた。
爽やかな色合いのシャツにジーンズを履いていて、それが意外にも良く似合っていたことを覚えている。

「桜の君、だっけ?吾郎くんの年上好きはその頃からなのよね〜。」
吾郎と、そして桐野の幼馴染である鈴は肉の包みを開きながら笑った。
肉はなんと極上の牛肉だった。鈴が持ってきてくれたものだ。
「バイト先でね、賞味期限寸前だからって安く手に入れることができたの。」
それを聞いて吾郎はぱちぱちと手を叩いて鈴の功績を労った。安い牛肉と豚肉よりうまい鍋ができるで、良かったなあと希望に向かって笑って見せた。
牛肉の女神様だ、と桐野も言ったが、それは褒め言葉としてどうなのだろうと希望は思った。

その女神様は自分に目を向け、ふふ、と声をあげた。
「希望ちゃん知ってる?吾郎が今まで好きになってきた人って年上ばかりなの。」
「ああ、考えてみればそうやなあ。」
吾郎は今気づいたとばかりに目を瞬かせた。
「今頃何を言ってるんだ。お前の年上好きは周知の事実だぞ。」
「げ、ホンマか?」
「そうねえ〜。」
鈴がのんびりと指をたてた。
「もしかしたら吾郎くんの年上好きはその初恋の君が影響しているのかもね。」


はつこい。


初めて聴く言葉だった。
鸚鵡返しにつぶやくと、吾郎が実に嬉しそうに目を細めた。
「せやで。初めての、恋。ええとラブやな、ラブ。」


・・・まったく意味が分からない。


憮然とする希望の頭をぐりぐりと撫でて、吾郎はいっそう上機嫌に笑う。
そうして無意味にふんぞり返って鼻を鳴らした。


「せやなあ。じゃあお前のためにトクベツに俺の初恋の話でもしたるわ。もうそれはきらきらした甘酸っぱい思い出なんやで〜!」




cherry




藤堂希望の通っている中学校では3年生の5月に修学旅行がある。
場所は関西。大阪・京都。
定番な場所であるが、実のところ藤堂希望はこっそりと楽しみにしていた。


修学旅行の2日目は京都だった。
金閣寺や銀閣寺、清水寺に五重塔。


希望は京都の町並みを見渡した。
京都の町並みは品良く古風だった。屋根は一様に低く、空が見渡しやすいところも気に入った。
そして、なにより。


・・・ここで吾郎は育ったのか。


希望は思いながら新緑の木々を眺めやった。
吾郎はあまり自分の昔のことについてはしゃべらない。
そんな吾郎が唯一話してくれたのが自分の「初恋の君」の話だった。




その声がふいに聞こえてきたのは、修学旅行の班別行動のときのことだった。
希望は京都の町並みを歩いていた。
5月の風はやわらかで、どこまでも心地よかった。
そんなときのことだった。
ふいにその声は聞こえてきたのだ。


「・・・。」
「藤堂さん?」
突然立ち止まった希望を、クラスメイトが不思議そうに振り返った。
「どうしたの?」
「・・・いや・・子供の・・泣き声が聞こえないか?」
「・・・?」
クラスメイトの少女は目を見開いて首を振った。
「そんなの聞こえないけど。」
「・・・。」
希望は耳を澄ました。木々のざわめきに乗って、押し殺したような泣き声は確かに聞こえてくる。
「・・・すまない。ちょっと見てくる。すぐに戻るから先に行っていてくれないか。」
「え、ち、ちょっと・・・。」
希望は返事を聞かずに声の聞こえてくる小道に足を踏み入れた。
小道はぼんやりと薄暗い。
声は確かにこの先から聞こえていていた。
ちいさな、けれど切実に誰かを呼ぶ声。
希望は足早にその声の主を探した。
4つ角を曲がったところでふいに目の前が開けた。
綺麗に整えられた小道と、高い塀が続いている。
どうやら塀に囲まれた中側には、立派な屋敷があるようだった。
武家屋敷風の造作の門扉も歴史を感じさせるもので、実にものものしかった。
「・・・。」
希望は自分の上背より遥かに高い塀を見上げ、そうしてそれに沿って歩き始めた。
声はここから聞こえてくる。
塀に沿って角を曲がった希望は、そこにこの季節に似つかわしくないものを見た。




彼の家の庭にはそれはそれは大きな桜の木があった。
3月になるとつぼみがほころび始め、やがて春になるにつれて優しい薄紅色の花がいっぱいに咲き乱れるその光景は4歳の子供にとってもあまりに見事なものだった。
花が満開のその木に、彼はひとりしがみついていた。
正確に言うなら木の枝にしがみついてぐずぐずと鼻を鳴らしていた。
大きな声で泣かなかったのには理由があった。
泣いてしまったら自分がここに居るということがばれてしまうからだ。
ばれてしまっては自分の素晴らしい計画がおじゃんになってしまう。
だから彼は大きな声は出せなかったのだ。
それに、と彼は思った。
「・・こないなことがばれたら、母ちゃんがばあちゃんにめっちゃ怒られるもんなあ・・。」
鼻を鳴らしながらと彼はつぶやいた。
両手で枝にしがみついたまま、それでも背中にしっかりと背負っているリュックが重たく感じられる。

彼の頭の中の予定ではこの桜の木に登って家を囲む塀に張り出した枝につかまり、そうして塀に飛び移って外に抜け出せるはずだった。。
樹に登るのは得意だった。
彼の母親は随分おきゃんな性格で、彼をしばしば外へ連れ出してはそれこそ祖母が眉をしかめてしまうような遊びをたくさん教えてくれた。
父親は泥だらけになって遊ぶ二人をみておっとりと微笑んでいた。
「・・・。」
ぐず、と彼は鼻を鳴らした。
風が吹いて満開の桜の花びらが盛大に舞う。
枝にしっかり掴まったまま、彼は小さな頭で途方に暮れていた。
どうしよう・・。
じわり、と新たな涙が浮かび上がった。
・・・誰か・・。
ぎゅうとくちびるを噛み締めたとき、突然下のほうから声をかけられた。
「・・・何をしている。」


それはいかにも不機嫌そうな声だった。
高いような低いような、それでいてどこか落ち着くような、不思議な声音だった。
「・・・へ・・?」
彼はきょとんとして顔をあげた。
桜の枝は彼の家の塀に向かって大きく張り出している。
その塀の向こう、家の外からその声は聞こえてきた。
そろそろとそちらに向かって首を伸ばすと、ひとりの女の人が道路に立ってこちらを見上げているのが見えた。
紺色の襟のセーラー服を着ていた。彼よりずうっと年上の、女の人だった。
「泣いているのか。」
女の人はぼそりとつぶやいた。
彼はあわてて服の袖で顔を拭った。口を尖らせる。
「・・な、泣いてへんわ。」
「・・そうか。」
ざあ、と風が吹いてはなびらが舞う。
薄紅色のはなびらとともに女の人の髪がひるがえった。
彼はぱちぱちと瞬いた。
女の人はまっすぐに自分を見上げている。
その瞳には、大人特有の子供を馬鹿にしたような気配は微塵も感じられなかった。
「・・・。」
女の人はそれから何も言わなかった。
言わないけれど枝の下に居て、自分をみつめていた。
はらはらと桜が舞って、女の人の肩や髪に降り積もっていく。
しばらくして彼は根負けしたように頬を膨らませてつぶやいた。
「・・・・降りられへんのや・・。」
女の人はやっぱり笑わなかった。
そうか、とつぶやいてそうして無表情に両手を広げて見せた。
「飛び降りて来い。私が受け止めてやるから。」


彼は目をしろくろさせた。
「む、無理いうなや・・。」
「無理。」
だって、と彼は枝にしがみついたまま女の人を見下ろした。
「ね、ねえちゃんちびっこいやんか。おれを受け止められるわけがあらへん・・。」
「・・・。」
女の人は彼よりうんと大人だけれど、それでも彼の母親や父親よりは小さい。
顔も肩もすべてがうんと細くて小さくて、今にも折れてしまいそうだと彼は思った。


女の人はほんの少しだけ黙りこみ、やがてわかったとつぶやいた。
そうしてくるりと背を向けたので、彼は驚いて目を見開いた。
ちょっとまって。
そう言いかけた途端に女の人は振り返り、道の端に自分の持っていた鞄を置いた。
そうしてつま先でとんとんと土を蹴る。
「・・・仕方がないな。」
「・・・姉ちゃ・・・」
「・・動くな。」
きょとんとした彼はしかし、次の瞬間目に映し出された光景に目を疑った。
彼の家の塀は高い。
しかし気がつくと女の人はその塀のうえに膝をついてふうと息を吐いていた。
髪に積もっていた花びらがその反動ではらはらと舞った。
そうして不機嫌そうな顔のまま彼に両手を差し出した。
掴まれ、と言われて今度は彼も逆らわなかった。
そろそろと枝から手を離し、差し出された手にしがみつく。
女の人は小さな彼の身体をぎゅうと抱いて、そうしてひとつだけ頭をやさしくたたいた。
その身体は細いくせにふわふわとやわらかくて、そうしてひどく良い匂いがした。





「・・・というわけ。もうな、ものすごい可憐でカッコいい女の子やったように思うわ。子供心にどきゅんときたんや。ひとめぼれっちゅうやつやったかもしれへんなあ・・。」
しみじみと言う吾郎に、桐野が興味深そうに顔を向けた。
「で、その後はどうなったんだ?」
「それがな、その女の子は俺を抱えたまま塀を降りて・・まあ、いろいろ話してたんやけど・・・ふいに目を離した途端に消えてしもうてな。」
「・・・消えたって・・なによそれ、幽霊じゃあるまいし。」
ううん、と吾郎は唸った。
「・・でもそないな感じやったなあ・・。桜の花びらにまぎれてふうっと消えた、みたいな・・。言葉使いからすると京都の人やなかったような気がすんねんけど・・。」
そう言いかけて、吾郎はふいに希望の顔をまじまじと眺めた。
「・・・。」
「・・・なんだ?」
いつものように不機嫌に見える9歳の子供の顔を青年はじいっと見つめていたが、やがてまさかなあ、と自分の頭をかいた。
「どうしたの、吾郎くん。」
不思議そうな顔をする一同を前に、吾郎は苦笑して首を振る。
「・・・いんや、なんでもない。・・・気のせいやろ」





藤堂希望は瞬いた。
「・・・・?」
希望はきょとんとその木を見上げた。
いつのまにか「先ほどまで咲いていた」桜がひとつもない。
「・・・。」
あわてて辺りを見渡すと、つい先刻まで目の前に居た子供の姿も見当たらなかった。
子供は涙のあとのついた顔をくしゃりとして笑っていた。
まだほんの小さい子供だった。


・・・おおきに、ねえちゃん。あんな、おれな、今から父ちゃんのオミマイに行くねん。 父ちゃんグアイが悪くてな、今病院にニュウインしとんねん。おれな、父ちゃんがな、元気になりますようにって絵を描いたんや。 でな、それをな、届けようと思っとったんや。


「・・・そうか、それは良いことだ」
だが一人では危ないだろう?そう言うと子供はくちびるを尖らせた。
「でも、ばあちゃんはおれが母ちゃんとふたりで出かけることを嫌がるんやもん。おれが我侭言うとな、母ちゃんがばあちゃんに怒られるんや。せやから、おれ・・」
うん、と希望は頷いた。
お前は思いやりがあるのだな、と言うと子供は照れたように頬を染めた。
「・・・それでもひとりで行くのは駄目だ」
子供が頬を染めたままむ、とした表情を浮かべる。
希望は膝をついて子供の目を覗き込んだ。近くで見ると子供の瞳は淡く薄い。
ああ誰かさんにそっくりだ、と思うと知らず笑みがこぼれた。
感情がすぐに表に出るところも、瞳の色も、そしてなによりその優しさも。
「・・もしお前がひとりで病院に行こうとして車に轢かれたり、犬に噛まれたりしたら、どうなると思う?」
「・・母ちゃんが怒られる・・。」
希望は頷いた。
「それだけじゃない。お前のことが大好きな、お前の父親も母親も祖母殿も、みんなが悲しい思いをすることになる。」
子供は黙り込んだ。
「お前はまだ小さくて、そういう危険に出会う可能性が高いんだ。だから、ひとりで行ってはいけない。・・・わかるな?」
子供は希望をまっすぐに見つめた。
頬を染め、くちびるを引き結んだ子供はやがてうん、と頷いた。
「うん、良い子だ。お前は人を思いやれる子だ。良い子というのは勉強が出来る子供のことじゃない。他人の気持ちを考えることのできる子供のことだ」
希望は表情を和らげた。それは少女が滅多に人に見せない、やわらかな微笑みだった。
「そして覚えておけ。それはとても尊いことなのだぞ。」
何よりもな。
そう言うと子供はいっそう頬を染め、幼いながらも真面目な顔で大きく頷いた。


そうしてそこで激しい風が吹いた。
ふたりの頭上に張り出した満開の桜の枝が大きく揺れ、その花びらが音を立てて散った。
花びらが舞う。
そのあまりの激しさに希望は思わず瞳を閉じた。

・・・そうして次に目を開けた時には子供の姿も桜の花びらも・・・忽然と消え失せていた。



「あっ居た居た藤堂さーんっっ!」
藤堂希望のクラスメイトが見つけたのは、呆然としたように青々とした葉の茂る桜の木を見上げている少女の姿だった。
「もう、心配したんだから・・・・ん?どうしたの?」
いや、と藤堂希望は頭を振った。
そうしてほんの少しだけ笑った。
「・・いや・・なんでもない。」





子供はきょとんと瞬いた。
桜にまぎれて、女の人は消えてしまった。
言葉遣いはぶっきらぼうだったけど・・・とても・・・。
どきどきと胸の奥が鳴っていた。頬も熱い。
良い子という言葉の意味。
彼は口の中でつぶやいた。
それは彼の中で宝物のような言葉だった。
この意味は誰にもいわないでおこう、と彼は思った。
これは自分と、あの女の人だけの秘密だ。





風に桜の花びらが舞う。
舞い落ちる花びらは、さながらやさしい雪のように子供の頭にふり積もっていた。


Cherry Phantom











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