■精一杯の甘え方■




雨は嫌いじゃない。


藤堂希望は水たまりに足を踏み入れた。
黄色の長靴を通してひんやりとした感覚が伝わってくる。
ぱしゃん、ぱしゃん、と音を立てるといっそう気分が良かった。


傘は味気の無い透明のビニール傘だったが、子供はそれを気に入っていた。
軽いし、何より見上げると空を透かしてみることができる。
ビニール傘に落ちてくる雨粒もはっきりと見えて、それはたいそう綺麗だった。



気分よく現在の家である古びたアパートに帰ってくると、傘をぱちんと閉じた。
雨の音がトタン板を叩いて心地よく響いてくる。
「おや、雨かい。」
共同玄関で長靴を脱いでいると、このアパートの女主人が声をかけてきた。それに頷いてみせると、女主人はぷかぷかと煙草をふかしながら目線を外に移した。
「雨が凄いね。ああ、嫌だねえ。外に出たくなくなっちまう。」
希望はそれには答えず、小さく頭を下げて立ち上がった。何故なら彼女は雨が嫌いではなかったからだ。



精一杯の甘え方






アパートの中はじめじめと暗かった。
今にも切れそうな蛍光灯がぼんやりと廊下を照らしている。


希望は一階の奥から二番目の部屋の前に立つと、ポケットから鍵を取り出した。
鍵穴にそれを差し込んだ希望は、かすかに顔をしかめた。
鍵はかかっていなかった。



ドアノブをひねると、木製の扉はあっけなく開いた。
ここの部屋は狭く、扉からその内部が一望できる。
部屋の中には小さなテレビと小さなちゃぶ台がひとつ。
その前で、この部屋の持ち主である青年が気持ち良さそうに眠っていた。



希望は部屋の隅にランドセルを置きながら、ああそうか、と思った。
今日は仕事が休みだと言っていた。



部屋の中はしんとしていた。
雨音と、いかにも気持ち良さそうな寝息だけが満ちている。


「吾郎。」
子供は青年の横に屈みこむと、その肩をゆすった。
「こら。起きろ吾郎。風邪をひくぞ。」
青年はまったく起きる気配がなかった。
希望は何度も起こそうとしたが相変わらず目を覚ます気配はない。
そういえば、と希望は思った。
とても仕事が忙しいようだった。社会人はこんなもんなんや、と笑ってはいたが休みがほとんど無かったように思う。
希望はまじまじと青年の寝顔をみつめた。
やがて立ち上がり、押入れの中の毛布を引っ張り出して青年の上に掛けてやると、ちゃぶ台の前に座った。



雨音は続いている。
そして、気持ち良さそうな寝息も。


希望はしばらく目を閉じてその音を聞いていたが、やがてぼんやりと青年を見やった。
なんだか眠くなってきてしまった。


雨音は静かに続いていた。
狭い部屋の中にひそやかに満ちている。


希望は瞬いた。
青年は横向きに眠っていた。
壁とちゃぶ台に挟まれた小さな空間で。心地良さそうに。


希望はそろそろと近づくと、もう一度青年の肩を揺さぶった。
「吾郎。」
やはり青年は寝覚めない。

子供はふと、青年と壁の間にある狭い空間をみつめた。
その空間はぽっかりと空いている。
そしてそれはいかにも気持ちが良さそうだった。
まるで自分のために空いているかのようだった。



希望はその空間をじっと見つめる。
どこで眠るよりも、そこはひどく気持ちが良さそうに思えた。
だいたいこやつも悪いのだ、と希望は思った。
こんな静かな日にこんなに気持ち良さそうに眠っているからいけないのだ。
だから、と子供は思った。
つられて私まで眠くなってしまうのだ。






「・・・・・。」
吾郎は目を覚ました。
身体が畳みに沈み込むように重く、そしてなにより眠かった。

吾郎は高校の最中から今の勤務先でバイトをしていた。
理由は単純だった。
たったひとりの肉親であった母親が死んでしまい、金銭面にまったく余裕がなくなったためである。
奨学金とバイト代でなんとか高校を卒業したまでは良かったが、大学に進むだけの余裕はどこにもなかった。
そんな彼を拾ってくれたのが当時のバイト先であったフランス料理店であった。
うちは厳しいぞ、とオーナーは言った。
10年修行して、一人前だと認めてやる。
それから3年。
18の時から3年間下積み修行を続けているとはいえ、一人前のシェフになるにはまだまだ遠い。
つまりはシェフ見習いである吾郎の給料は、それこそ微々たるものであった。


しかし今月になって事情が変わった。
彼に家族が増えたのだ。
まだまだ小さいため幸いにも食い扶持はかからないが、それでも子供を一人養うのには金が必要になる。
吾郎は頼み込んで、シフトを増やすことにした。
おかげでこの3週間はろくに休みが取れていなかったが、彼はまったく気にしていなかった。
家族が居るというのは良いことだ。彼はそう思っていた。
だからそのために稼ぐことも彼にとってはまったく苦ではなく、むしろ喜ばしいことだった。
彼が友人達から「正真正銘の馬鹿」と言われる所以である。


しかしその精神はどうあれ、身体の方は限界を迎えていたらしい。
見るに見かねた店長の命令で、しぶしぶ休みを取らざるを得なくなった吾郎だったが、その身体は正直だった。


子供を学校に送り出してからいつの間にやら横になり、それから7時間は完全に爆睡状態に陥っていた。


頭の一部がぼんやりとしていた。夢のなごりを残しているような靄のかかった感覚が貼りついている。
とにかく、眠い。
「・・・・んあ。」
吾郎は寝返ろうとしてふいに変な声を洩らした。
妙な違和感が腹にある。
視線を落として、吾郎はぽかんと口を開けた。


彼が無造作に投げ出していた腕と腹の間にもぐりこむようにして、小さな子供が眠っていた。
まるで、親猫に寄り添って眠る子猫のように。







「・・・・・。」
吾郎は驚いてぱちぱちと瞬いた。
それは明らかに彼の武術の師範で、今は同居人の少女だった。

御歳、8歳。

これはめずらしいなあ、と吾郎は思った。
ある事情からこの子供を引き取って一ヶ月になるが、こんなことは初めてだった。
両親を亡くし、祖父を亡くしたばかりだというのに、希望は一度も悲しいとも寂しいとも洩らしたことはなかった。
そのそぶりすら見たこともなかった。

まだ8歳だというのにこの子供は妙に聡いところがある。
泣き言を言っても喚いても、現状がなにひとつ変わらないことを理解しているふしがあった。
彼は子供に、「泣いてもええぞ」と言ったことがある。悲しかったら泣いてもええんや、と言ったことがある。
しかしあっさり「馬鹿にするな」と一喝されてしまった。

この子供は子供の癖に、自分を甘やかすということを知らない。
「甘える」ということを厳しく律しているかのようでもあった。
いや、そのことすら知らないのかも知れなかった。


吾郎は瞬いて寝返りをやめた。驚きのあまり、目などすっかり覚めてしまっていた。
希望は身体を丸め、どこか遠慮がちに彼に寄り添うようにして眠っている。
すうすう、と実に穏やかな寝息が洩れていた。
いつも仏頂面で可愛げのかけらもない子供だが、寝顔だけは歳相応のあどけなさを表している。
それを見て、彼は小さく笑った。
そうしていつのまにか掛けられていた毛布を見ていっそう笑みを深くする。
身体を出来るだけ動かさないようにして毛布を広げ、そうして小さな子供にも掛けてやった。

知らないふりをしておこう、と青年は思った。
寝ぼけたふりをしていればきっとこの誇り高い少女のプライドも傷つかないだろう。
まったく厄介な子供やな、と彼は声を出さずに笑った。


静かな静かな雨音が響いている。
それはまるで、極上の子守唄のようだった。


吾郎はあくびをかみ殺した。
腕の中の子供は湯たんぽのように暖かい。
その温かさに誘われるようにゆらゆらと眠気が襲ってきた。








希望は目を覚ました。頭がぼうっとしている。
なんだかひどく良い夢を見たような気がして気分が良かった。
真綿にくるまれているような、あたたかで優しい気分だった。

ぼんやりと瞬いて、そうして現在の状況を思い出した。

目の前にあるのは白いシャツだった。
ほんの少し目線をあげると、ぐうぐうと眠る青年の顔が目に飛び込んできた。
その距離はあまりに近い。


「・・・・。」
希望は黙ったまま息を飲み込んで、大きく瞳を見開いた。
子供が生きてきた8年間の中でそれは一番の衝撃だった。

一生の不覚だ、と子供は歯噛みした。
ほんの少しのつもりだった。
あんまりにも眠たかったのだ、とひとりごちる。
だからこんな狭いところに転がり込んでしまったのだ。
目を閉じるだけのつもりだった。
すぐに出て行くつもりだった。
・・・それなのに眠り込んでしまった。


気づかれただろうか、と希望は青年を見上げた。
息を止めてその顔を観察する。
しばらくじっとしていたが、やがて起きた気配がない様子に小さく安堵の息を吐いた。
そろそろと腕の中から這い出て、何事もなかったかのようにちゃぶ台の前に移動した。
青年が目覚める様子はない。








吾郎が起きたのは、それからたっぷり1時間は後のことだった。
「・・・ふあああああ・・・。」
目をこすりながら起き上がると、ちゃぶ台で宿題をしていたらしい子供が振り向いた。
「・・・うあ、なんや帰っとったんか?おかえりー。」
ぼりぼりと首筋を掻きながら言うと、希望は相変わらずの仏頂面で小さく頷いた。
「当たり前だ。もう6時だぞ。」
「うわあ、6時かいな。ふああああああああ、よく寝たあ・・・・。」
青年は気持ち良さそうに背伸びをした。
子供はそんな青年を見ていたが、ほんのかすかだが安堵の表情を浮かべた。


ばれてはいないようだ、と子供は思った。
うまく騙せた様だな、と男は思った。



二人はその結果にとても満足したので、結局何も言わなかった。





「ああ、いい天気やな。」
青年は窓の外に眠そうな目を向けて、そうしてそれを細めた。
「気持ち良さそうや。」
希望は怪訝そうに眉をひそめた。
「・・・雨じゃないか。」
雨は止んではいなかった。
静かにひそやかに、この世界に降り続けている。


希望は、これはこやつ特有の冗談なのだろうかと思ったが黙っていた。
すると男は実に機嫌が良さそうに笑った。
「へへっ。いい天気っていうのはなあ、「晴れ」の専売特許やないんやで。」
子供は男の顔をまじまじと見やった。
男は笑う。
「雨ってのはええ。俺は大好きや。なんや、世界のいろんなもんを全部包んで綺麗にしてくれるような気がする。」


希望は男のまだ眠そうだが幸せそうな笑顔をみつめた。
大きな瞳をいっぱいに開いて三度瞬いて。
そうしてフン、と鼻を鳴らした。


――雨は本当に嫌いじゃない。




精一杯の甘え方











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