■ファーストバレンタイン■ |
「そういえば、明日はバレンタインねえ」 鈴がそうつぶやいたのは、銭湯からの帰り道でのことだった。
ファーストバレンタイン
吾郎にひきとられて約二か月。 小学二年生の希望の住む場所は、古びた四畳半のアパートの一室になった。 朝などはがたついたガラス戸から凍えるような冷気が染み込んでくる小さな部屋。 以前は庭付きの日本家屋に住んでいた希望からしてみれば、はじめは驚きの連続だった。 なんせトイレは共同。台所は小さなものがちょこんと玄関の前にくっついている程度である。 それに吾郎の借りている部屋はひとつしかないらしいから、基本的に希望は吾郎が居る時は、ごはんを食べる時もテレビを見る時も、宿題の時も眠るときも、ひとりになるということがなくなった。 そのうえ吾郎は騒がしい。一日中なんやかんやと話してはにこにこしていることが常だった。 これまで無口な祖父と家政婦としか家に居たことのなかった子供にとって、それはとても不思議な毎日だった。 「希望ちゃんはバレンタインにチョコレートあげるの? 」 その言葉に、希望は黙って鈴の顔を見上げた。銭湯からの帰りなので鈴の頬は赤く、吐く息は真っ白に流れている。 繋いだ手は手袋越しだけれど、いつもよりもなんとなく暖かく感じた。 鈴は希望と歩くとき、こうしていつも手を握ってくる。なんとなく気恥ずかしい気もするけれど、吾郎の時とは違って素直にそれを繋ぐことができた。 希望は鈴の言葉を反芻する。そうして首をかしげた。 「ばれんたいんってなんだ? 」 そういうと鈴がきょとんと眼を瞬かせた。そうしてああそうか、と笑う。 「そうかあ、希望ちゃん今まで知らなかったのね」 「ああ」 こくりと頷くと、鈴はうふふと可愛らしい声を漏らした。 「二月十四日をバレンタインデーっていうの。その日はね、女の子が大好きな人に、チョコレートをあげる日なのよ」 「そ、そんな日がよのなかにはあるのか」 希望はびっくりして目を見開いた。 クリスマスといいバレンタインデーといい、世の中には知らないことがたくさんある。 「そうよ。だからね、希望ちゃんはあげないのかなあって思ったの」 「わたしが? 」 「うん。大好きな人に」 鈴の言葉を聞いた瞬間浮かんだ顔に、希望の頬が瞬間的に熱くなった。 あわてて俯く希望の上から、鈴の声がふってくる。 「きっと喜ぶと思うよ」 希望は黙ったまま、しかしこっくりと頷いた。 次の日、希望は近所の大きなスーパーマーケットの中に居た。 なにやら桃色やら金色やらで派手に彩られた一角には、たくさんのチョコレートが並べられている。 たくさんの女性の中になんとか紛れ込んで、希望はひとつの箱を手に取ってみた。 「……高い……」 値札に書いてある数字は五百。希望の財布の中には三百円ほどしか入っていないのであっさり却下だ。 そうして隣のものを見る。これは八百円。その隣は七百円。 その上にあるものなんて千円だった。 黙ってそれを元の場所に戻しつつ、ちいさくため息をつく。 やはりバレンタインとやらは大人のイベントなのだろうか。 たくさんの女性たちは、そんな高いチョコレートを山のように買っている。 希望はちょっとだけ肩を落とした。大人の邪魔にならないようにすごすごと隅に寄る。 そうしてなんとなく財布をぎゅっと握っていると、ふいにチョコレート売り場の上にかかってある旗が目に入ってきた。 それにはきらきらした色の文字が並んでいる。 希望はしばらくその文字を見ていたが、やがてぱっと子猫のように駆け出した。 その日、吾郎が帰宅すると部屋はむせかえるほどの甘いにおいで満ちていた。 そして何故だか頭から汚れた希望が必死で茶色いものが散らばった床や畳を拭いている。しかし拭き方が下手なせいか、それはあちこちに広がってより悲惨な結果になってしまっているようだった。 「……ええと、希望さん? なにやってはるん? 」 「!!」 吾郎が居ることに気づいていなかったらしい希望がぱっと振り返る。 そしてぎゅっと眉を寄せて唇を引き結んだ。 希望は泣かない子供だ。だけれど、泣く代わりにぐうっとそれを身の内に押し込めようとする。だからこのようなかわいくない表情になってしまうのを吾郎はよく知っていた。 だからすぐに理解した。 ああ、なにかを失敗したのだな、と。 「……すまない」 ぽつんと希望がつぶやく。 吾郎はとりあえず鞄を玄関に置き、そうして腕まくりした。 「まあええわ。とりあえず片づけようや。ん、零れてるのってチョコレートか」 「……」 床についたそれは溶かしたチョコレートのようだった。固まりかけたそれは実に甘い匂いをはなっている。 希望はしゅんと下を向いた。そうして小さくつぶやく。 「つくろうと思って……」 「うん? 」 「お前へのチョコレート。でも高すぎてふつうのは買えなくて……。板チョコで手作りでもできるって本で調べたら書いていたから作ろうと思ったんだ。でもひっくりかえしてしまって。買ってもらったばかりのわたしのふ、ふとんまで汚してしまった……」 そうしてさらに下を向く。 「……ごめんなさい」 吾郎は瞬いた。 俯いたせいでよく見える希望のつむじを見ながらぽかんとつぶやく。 「チョコレート、手作りしようとしてたん? 」 「ひ、火は使っていない。それは約束を守っている。電気ポットだけでできそうだと思ったんだ。でも手元が狂って……」 はああ、と吾郎は片手で顔を覆って息を吐く。 それに希望はあわてたようだった。ごめんなさい、と再度つぶやく。 希望は無愛想な子供だが、素直でないわけではない。 吾郎はだから、すぐに首を振った。 「ちゃうぞ希望」 「え」 「俺はな、いますごい感動してんねん」 片手を外すと、希望がぽかんと見上げてくるのがわかった。 それはそうだろう。多分今、自分の顔はにやけているうえに、瞳は潤んできてさえいる。 吾郎はその顔のまま、再度はーっと息を吐いた。 「お前が義理チョコを作ろうとするほど大きゅうなったとはな……もうなんか感慨深い。やばい泣きそう」 「な、泣くな。なにか違うぞ。こ、こういうときはもっと怒るべきだ」 「なんで? 」 「だ、だって、わたしは仕事で疲れて帰ってきたお前に余計な手間を……」 慌てた希望の言葉に吾郎はさらりと言葉を紡ぐ。 「失敗なんて誰にでもあるもんや。それが子供ならなおさら。それにお前はよーく反省しとるやん。なにを怒ることがあんねん」 「……」 「さ、片づけよか。あ、それよりお前の髪にもべったりチョコついとるやん。先に拭きとらなあかんなー」 「…………」 「布団はしゃあないな。今日は俺の布団で一緒に寝るしかないなあ。狭いけど我慢しいな? 」 「………………」 吾郎におとなしく髪を拭いてもらいながら、希望はぎゅうと唇を噛みしめた。 いつかちゃんとした大人になったら、今度こそちゃんとしたチョコレートを作るのだ。 そうしてきれいな包装紙とリボンで飾って、可愛く可愛く笑って渡そう。 そう、固く誓った。 今はまだはっきりとはわからない、けれどたしかに胸の中に存在する「あたたかで大事な」感情と一緒に。 2012.2.12 |