■こどもって、むずかしい■ |
「なんかあったんですか、オーナー」 朝から飯島の元気がない。 はじめは二日酔いかと思っていた吾郎だったが、昔はラガーマンとして名を鳴らしていたという頑丈な背中があまりにしょげ返っているのをみて声をかけた。 飯島は吾郎が働いている店のオーナーであり、17にして身寄りを亡くした吾郎を拾ってくれた恩人である。料理人としての修行も一からさせてくれた。感謝してもしきれない恩を、吾郎は飯島に持っていた。 「悩みがあるんならゆうてください。俺の出来ることならなんでもします」 だからその言葉は真実だった。 飯島は振り向き、そんな吾郎をじっとみる。しかしすぐに大きな溜息をついて大きな背中をしおしおと丸めた。 「いや……いい。お前には無理だ。もう誰にも無理なのかもしれない。大体なんでこんなことになったのかもわからないんだからな……」 その弱々しい言葉に吾郎は目を見開いた。 いつもは豪快な性格の男がここまで弱ることなんて今までなかった。一体何があったというのだろう。 「オーナー! せめてなんかゆうてください。俺はなんも役には立たんかもしれへんけど、精一杯のことはしますさかい」 元々吾郎は熱い性格である。それが恩人のこととなればことさら燃え滾るのは当然のことであった。 飯島はそんな青年を見て、なにやら感動したように瞳を潤ませる。この飯島という男もなかなかに熱い性格だったりするのだ。 「ありがとうなあ……吾郎」 「礼なんてええんです。で、なんですか、借金ですか。ま、まさかこの店の経営うまくいってないんですか? 」 「阿呆。そんな簡単なことじゃない」 吾郎ははっとして顔をひきしめた。 飯島の声はずしりと重い。飯島は吾郎の倍ほどの人生経験がある。酸いも甘いも味わってきた男の言葉には暗い重みがあった。 「オ、オーナー……」 「娘が……」 「へ? 」 飯島は奈落のどん底を彷徨っているかのような声でこうつぶやいた。 「最近、娘が口をきいてくれないんだよ……」
こどもって、むずかしい
飯島には14歳になる娘がいる。その娘が最近になり、まったく口を利いてくれなくなったというのだ。 「うーん、でも14歳の女の子ってそういうもんちゃいます? オーナーのとこだけじゃないと思いますけど」 「……それだけじゃない」 仕事が終わり、移動した居酒屋で飯島はテーブルにつっぷした。 側にはすでに空になったジョッキが3つ転がっている。 「妻に言ってるのを偶然きいちまったんだ。じ、俺の洗濯物を自分のと一緒に洗わないようにって……」 「う……い、いや、でも……」 「俺のことが汚いって……」 「う……」 「お父さん臭いって……」 「……」 「話しかけようとしても生ゴミをみるような目でみられて……」 「……」 「……お前んちの希望ちゃんもそろそろ中学だろ。いずれそうなるんだぞ」 「うわああああ……」 はじめは店の危機ではないと知ってほっとした吾郎だったが、飯島の話を聞くうちにその気持ちが痛いほどにわかってしまった。 酒の勢いもあってか男ふたりで涙する様子は実にむさくるしいものだったが、居酒屋に居た娘を持つ父親たちの賛同を得て、その場は何故だかおおいに盛り上がった。 「おれのとこもだ! 仕事に疲れて帰ってみれば臭い臭いいいおってからに! 」 「オレのとこなんかクリスマスプレゼントを買ってあげてもお父さんのセンス最悪とか言って来年は現金にしてとか言うんだぞ! 」 「む、昔はパパのおよめさんになるとか言っていたのに……! 」 「近寄るなジジイとか! 」 「それはお前の教育が悪いんだろ」 「なにおう、娘を悪くいうな! 可愛いところもあるんだ! 」 「娘は嫁にやらん! 」 「当たり前だ!」 「うおおおおおおお!」 最終的におおう、と男泣きをしながら叫び声を上げる集団に混ざるオーナーを見ながら、吾郎はこっそり考え込んでいた。 すなわち、家で一緒に住んでいる「希望」について。 吾郎の家には家族が二人居る。一人というか一匹は猫のきなこさんで、そうしてもう一人は「藤堂希望」という子供だった。8歳のときに身寄りを亡くした希望を後見人として家にひきとったのだ。 それから4年。これまで考えたこともなかったが、希望はもう12歳になる。来年は中学生。いわゆる思春期というお年頃で、それこそ飯島の娘のようなことも起こり得るかもしれなかった。 「わたし? そりゃあそういう時期、あったよ」 悩んだ末にかけた電話の向こうで幼馴染である鈴がころころと笑った。 「中学生の時がいちばんそうだったなあ。なんかね、お父さんが嫌で嫌で仕方がないの。もちろん臭かったしねえ。あの年代の女の子はしょうがないよ」 「お、お前もそうやったんか……。でもおいちゃんに対して全然そういうそぶりなかったやん……」 「んー、だって、表に出したらお父さんに悪いじゃない。それくらいの理性はあったしねえ。あ、それにね、大きくなるとそんなことなくなるんだよ。今は感謝してるし、大好きよ」 「そんなフォローいらんわ……今が肝心やねん」 思わず溜息をつくと、鈴はさらに笑った。 「ふふ。わかった、希望ちゃんのことね。何があったの? 」 説明をすると、鈴はおっとりとこう続けた。 「なるほどねえ。でも吾郎くんは希望ちゃんのお父さんじゃないもの。そんなことにはならないんじゃない? 」 「でもあれやで、男って臭いもんやで」 「んー、それはそうだけど」 「こら、そこは否定せいや」 「あはは、ごめんごめん」 「……俺な、想像してん。希望にくっさいとか汚いとか言われたら凄い悲しいわ……。オーナーのこと他人事やあらへん。もう無茶苦茶へこむと思うねん」 「んー」 「いや、泣くわ。たぶん泣く……あ、やばい。想像しててへこんできた」 「んー……」 携帯電話をもったまま一人で背を丸めていると、電話の向こうの幼馴染はふいに神妙な声を出した。 「……でもねえ、女の子って特定のひとの匂いは好きだったりするものよ」 「特定のひと? 」 吾郎は首をひねった。なんだろうそれは。 しかしそれを問いかける前に、鈴はいつものようにおっとりと笑って吾郎の言葉を制した。 「うん。だから大丈夫なの。どうしても心配なら、希望ちゃんに直接きいてみたら? 」 「希望、話がある」 というわけで希望に声をかけたのはたっぷり3日後のことだった。しかも自分の風呂上りにしたのにはささやかな男の願いというのが混じっていたりする。 ちゃぶ台の上で宿題を広げていた希望はいつにない吾郎の真剣な声音に驚いたようだった。 大きな瞳をきょとんと瞬かせて吾郎を不思議そうに見る。しかしすぐに膝の上の猫を傍らにおろして、吾郎の前にきちんと正座をしてみせた。 そうしてそのまままっすぐに吾郎を見上げてくる。 「なんだ」 不思議そうに怪訝そうに、そしてかすかに心配そう吾郎を見ているこのちんまりとした少女を、吾郎は家族として友人として、誰よりも大切に思っていた。 だからこそ思うのだ。 嫌われるのは辛いな、と。 「お前に聞きたいことがある」 「ああ」 「素直に言ってほしいんや。嘘はなしやで」 「わかった」 希望は神妙に頷く希望に、吾郎は真剣な顔で問いかけた。 「俺って、臭いか? 」 「……は? 」 「せやから、臭いって思うか? 」 吾郎は実に真剣だったのだが、希望はぽかんとしている。それでも吾郎のようすが本気のものであることはわかったのだろう。 目を丸くしたまま、慌てたように首をぶんぶんと横に振った。 「いや……べつに」 「ほんまか? 」 「というか、考えたことないが……」 「んじゃ、今考えてや」 前のめりの吾郎の言葉に希望は目をまたたかせたが、なにしろ根が真面目な子供である。すぐにううんと悩み始めた。 「仕事から帰ったあとは、料理の匂いがする。オレンジとか……」 「ふんふん。まあコックさんやからな」 「汗臭い気もする」 「う、やっぱ臭いんやんけ」 「いや、別に嫌じゃない」 「なんやそれ」 吾郎の言葉に希望は困ったように首を傾ける。しかしすぐになにかを思い出すように瞳をさまよわせた。 「……いや、臭いわけじゃない。むしろお前の匂いは……なんだか力が抜けるような……」 「なんやそれ」 「……ええと、ほっとす……」 そこまでいいかけた希望は、目の前の男の不思議そうな表情を認めてはっとしたように俯く。その拍子に子供特有の細くて柔らかな髪がふわりと揺れた。 その表情は俯いたせいで見えなくなり、吾郎はさらにきょとんとする。 「んん? 」 「……なんでもない」 「え?なんで急にむっつりしてん」 「してない」 「いやいやしてるやん」 「……わたしは? 」 「へ? 」 ふいに尋ね返されて、吾郎は間抜けな声をあげた。 「ええと、匂い? 」 「……ああ。臭くないか」 まさか尋ね返されるとは思わなかった吾郎はううんと唸った。それこそ考えたこともなかったのだ。 しかし記憶を辿るとふっと脳裏をかすめたものがあった。 8歳の希望をひきとったあの日。 布団が一枚しかなかったので一緒の毛布にくるまって眠った冬の夜。 あのとき。 「あほ。臭くなんかないわ」 「……本当か」 吾郎が笑って答えると、今年12歳の希望はほっとしたようにかすかに表情を緩めた。 あのころと比べて大きくなったなあと思うとちょっとしみじみとしてみる。 ちびっちゃくてふわふわしていて、子供特有の体温があたたかかった。 ――そして。 「うん。お前の匂いはなんか、あまいミルクというか牛乳というか……」 「…………」 「ああ、そう! 乳くさいんや」 そういうと、びしりと希望の表情が強張った。 吾郎はきょとんとする。 甘い匂いはこども特有のものなのか希望のものなのかはわからない。けれども「乳臭い」という言葉がある以上こども特有の良い匂いなんだろう。そう吾郎は思っていたので、希望に告げたそれは、勿論褒め言葉のつもりだった。 しかし希望にとってはそうではなかったらしい。 唇を噤み、立ち上がった希望がぷいと踵を返したのだ。 「え?おい、希望……」 「……もう寝る。おやすみなさい」 怒った声音ではなかった。 ただ、なにかにがっかりしたような、しょんぼりとした声音。 それが気にかかったものの、そのまま希望は猫をかかえると自分の部屋のある2階に駆けて行ってしまった。 残された吾郎はしばらく呆然としていたが、やがてううんと唸って頭をかいた。 ――子供って、ほんとうにむずかしい。 2011.6.12 |